関東大震災の被害は、地震そのものの揺れと、東京の東半分を焼き尽くした大火災が広く知られていますが、相模湾沿いは大津波に襲われ、さらに山津波ともいうべき大規模な土砂災害も多発しました。
震災から3カ月後に発行された「大正大震災記」(時事新報社)から、関東大震災の被害状況をお伝えします。時事新報社は福沢諭吉によって創刊され、その後の慶応大学の関係者によって運営されてきた新聞で、当時の五大新聞と呼ばれる中では、富裕層の読者が多いのが特色だったそうです。関東大震災では、多くの義捐金がこの時事新報社に寄せられたということです。
今回も、できるだけ当時の雰囲気を伝えるため、言葉遣いや表記の一部を現代語に改めて、句読点等を補う程度で、ほぼ原文そのままです。
少し読みにくいかもしれません。でも最後に引用した「どうやって復興させるか全然考えも出ない」の所だけは、ぜひ読んでいただきたいと思います。
全村を海岸に運んだ山津波
小田原地方の震災の最も激甚をきわめたのは、酒匂川の流域を中心に箱根山にかけ、南は真鶴港にわたり、なかんずく小田原を中心に北西四里の間は、半壊の家屋すら見出す能わざる程度の惨状を呈した。
箱根山の外輪山の一部、石垣山から海岸の山岳は、真鶴岬にいたるまで、脈ごと(注:尾根・谷ごとという意味か)に崩壊し、真鶴小田原間(熱海線)の根府川部落は、大部分埋没の惨害を蒙り、真鶴は震・火・津波の三難に逢い、港外の町は大半最後に襲来した津波に洗い浚われて全滅した。わずかに湾型を目印に真鶴町の跡を見るのみであった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
横浜の惨状を記事にした記者とは別の人のリポートのようです。少し昔風の語り口ですが、衝撃の言葉がいくつも飛び出してきます。
小田原を中心に北西四里の間は、半壊の家屋すら見出す能わざる惨状
わずかに湾型を目印に真鶴町の跡を見るのみであった
震源域となった相模トラフから直近の地域だったため、地震の揺れそのものも東京や横浜の比ではなかったのかもしれません。根府川駅では、停車していた列車ごと土石流で駅が海岸まで押し流されました。この土石流では、遺体が見つかったのが5人だけだったといいます。どれほどの惨状だったのか、その一事からも推察できるでしょう。
小田原の市街地4里四方、半壊の家すら残らないような、そしてあまりに規模が大きすぎて遺体を見つけることすらできないほどの土石流が発生するほどの大激震の後、同じ地域を津波が襲います。
津波の高さは熱海で12m、鎌倉で10m、千葉の相浜で9.3mと記録されています。しかも震源域に近い相模湾沿いでは、第一震と同時に海嘯が起こったと伝えられています。逃げるにも逃げられない状況で、海辺の町が破壊されていったのです。
巨大な山津波に襲われた根府川
小田原の惨状
火災は強震によって全町内一戸も余さず5011戸をことごとく倒壊した小田原では、町の中央から発火し、最も繁栄の本町、宮の前町、萬町、高梨町、千度小路、大手町、唐人町、青物町、田町、台宿町、誓願町、牢屋町、新玉新道、須藤町、竹の花町、大工町、手代町、代官町等の3384戸を全焼した。
村落にあっては、早川村35戸、足柄村21戸、箱根宮の下22戸、真鶴635戸等を焼き払った。
全焼したおもなる建物は、
小田原税務署、足柄下郡役場、足柄郵便局、小田原町役場、小田原高等女学校、石井福田両裁縫女学校、小田原第一ほか小学校6校、小田原電鉄会社、寺院教会12、県社(注:社格として官幣社の下、郷社・村社の上の神社)2、自動車30台、電車20代、電話500個等を出し、
また倒壊せる建物は、
小田原御用邸、閑院宮御別邸、小田原区裁判所、小田原刑務所、小田原警察署、神奈川県水産試験場、農商務省水産講習所、高等女学校1、小学校7、神社3、寺院18カ所、停車場(注:鉄道の駅)5ケ所、同埋没1、橋梁等である。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
記事の冒頭近くで4里四方半壊の家すらないという記述に、多少誇張の雰囲気を感じてしまったことを詫びたい気持ちです。小田原はこの地震によって、まったく潰滅というほかない惨状だったようです。
孤立した箱根
箱根山は至る所に山津波起こりて道路を崩壊し、自動車の登山をもって誇った箱根山は、全く交通途絶となり、各温泉宿の大家高楼はことごとく破壊された。ただその難を免れて不思議にも残れるは、宮の下の富士屋ホテル、小涌谷ホテル、三河屋ホテルのほか2,3旅館のみである。
当時、富士屋ホテルには125名の外人が滞在中で、食料を御殿場から山越しに、人夫の背によって供給を受け、辛うじて生命を繋ぎえた。
箱根の惨害は一種凄愴なものであった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
知っている地名やホテルの名前を見ると、大正の頃の震災の惨害の模様が目に浮かびます。山深い箱根は完全に孤立し、食料も途絶えて、多くの外国人を含む滞在者は、凄愴な状況におかれてしまったのです。
埋没した根府川鉄橋の惨劇
さらに鉄道の被害は、国府津・真鶴間の熱海線(注:現在の東海道線)がほとんど全滅に近い程度に埋没・流失・破壊され、小田原・真鶴間ではトンネルの破壊されしもの4カ所に及び、本邦鉄道中初めてできあがり、その堅牢を誇った根府川の白糸川の鉄橋、高さ250尺(約76m)、延長200間(約360m)の上路橋は、根府川駅および根府川の民家150戸とともに、跡形も止めぬまでに埋没した。そのために、小田原・真鶴間は全然復旧の見込みが立たず、
時あたかも根府川駅のホームに着せんとした小田原駅発の列車は、転落して海中に墜落し、乗客160名は40名が辛くも這い上がれるのみ。他はことごとく溺死した。
また、旧東海道国府津・小田原間の酒匂川は、28万円をもって鉄筋コンクリートの新橋に改築し、本然6月1日、内務大臣臨席の下に盛大なる開橋式を挙げた、東海道に珍しい300間(約545m)の長橋も滅茶滅茶に落下して交通を止め、酒匂川上流の大小橋もともに墜落した。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
どうやって復興させるか全然考えも出ない
根府川の被害記事が続きます。「地中三丈のどん底に埋もれた」「わが家の発掘に昇進する人々」そんな見出しが立てれています。
これほどまでに恐ろしいことが起きたとは、知りませんでした。
震災被害地の中でも根府川は高さ270尺(約82m)、延長17町(約1.85km)にわたって崩落し、一村の大部分を埋没しただけに、ここばかりは一種新たな恐怖心をおこさしめる。
当日の正午頃、算額の鳴動を聞く間もなく、強震で家屋が倒壊し、阿鼻叫喚の折から、裏山の中腹に亀裂を生じて赤土が見え始めたので、屋外にいた村民が不思議の目を見張っていると、それが全村を埋めた第一の山津波であった。
地響きとともに目で見えるほどの物はことごとく、海岸まで押し出された。村民はお祭りに牛が曳く屋台にでも乗ったような気持ちで、海岸に落ちたのに気づき、驚いて山へ駆け上がって海の方を見ると、
もう小山のような巨浪が海岸に襲来して、海岸を洗い浚っていた。恐怖した村民は無我夢中で逃げて、隣の部落の米神境まで落ち延びた時、はじめて尊重以下村の者が大半死んだことが判った。
この時、圧死者または埋没された者が150戸で406名に及んだ。そして一家全滅したのが8戸、70の老人と2歳と3歳の小児のみが取り残されたのが18戸ある。
生き残った村人は食料も所持金も埋められて、喰うに食なく、着るに衣なく、幼老男女は1つの大きなバラックを建てて、一家族のように慰め合って、郡や他町村からの配給品や見舞い品で辛くも露命をつなぎ、どうして復興せしむるのか全然考えも出ない。
ただ2、3丈も埋まった赤土の中に埋まった自家を掘り出したいと焦っているのも哀れだ。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
村ごと押し流すほどの山津波と時を違えずに襲い掛かる、山のような巨浪。自然災害からどうやって身を守っていけばいいのか、深く考えさせられる記事です。
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