福沢諭吉と慶応大学にもゆかりがある時事新報社という新聞社が発行した「大正大震災記」の記事から、今回は埼玉県の状況を紹介します。関東大震災の3カ月後に上梓された記事の言葉から、当時の様子がよみがえります。
情報途絶で混乱。震源地は熊谷付近か?
大地震による埼玉県の受けた被害は、県の南部、すなわち北足立郡においては大宮町(現・大宮市)以南、西部にては川越市以南、東部は江戸川沿岸方面、南埼玉北葛飾両郡地方…(後略)
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
大正大震災記の埼玉県についてのページは、被害のひどかった範囲の説明から始まります。東京に面している県南部を中心に大きな被害が生じていて、中部以北も被害はあったが南部の比ではなかったとのこと。それでも、かつて河川敷だった場所など地盤の悪い場所では大きな被害があったことが知られています。
興味深いのは地震によって通信も交通も途絶えたため、どこで発生した地震なのかすらわからず、地震計が壊れてしまった熊谷の測候所では、付近の状況から震源地を熊谷付近と発表したほどだったという記事があることです。
県立熊谷測候所の地震計は破損したが、熊谷付近の地割れの甚だしきより、あるいは震源は熊谷町附近ではないかと発表したほどであった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
まるで笑い話みたいですが笑うわけにはいきません。巨大な震災の直後、被害の全体像や詳細がつかめなかったのは、テレビやネットの情報が溢れていた東日本大震災の時も同じでした。どんなに技術が進歩したように思えても、自然災害の全貌をとらえることは極めて困難なことなのです。東日本大震災の初日の夜、「女川町は全滅」との情報が繰り返し流されていたことを忘れてはいけません。
情報の最初の担い手は「ひと」だった。
午後2時頃、東京方面の空に黒煙渦巻き起こり、その範囲はかなり広いらしいので東京方面の被害も相当に多く、各所に大火災をおこしたものだろうと想像するほかなかった。
午後4時頃から東京方面の被害は、死地を脱して徒歩帰来せる人よりその惨状が伝えられた。
この頃から県内の郡役所、警察署等の被害状況報告が到着し北足立郡川口町(現・川口市)方面一帯、東武方面粕壁(春日部)付近がほどんど全滅に近い被害で死傷者も少なからざる趣きがやや判然としてきた。
東京方面の火の手はますます強く、その火光は雲に映じ、ものすごい光景を呈した。その間余震はほとんど連続的に襲来するので、いずれも戸外に一夜を明かしたが、余震は2日以後においてもしばしばあるので、数日間は野宿したものが多かった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
道路が寸断され、通信の状態も芳しくなく、せいぜいヘリコプターからの映像くらいしか情報がなかった東日本大震災の震災直後も、地域の具体的な情報を運ぶ「メディア」の役割を最初に果たしたのは人間でした。家族との再会を果たすために破壊された町を徒歩で乗り越えてきた人たちが、どこの橋は通れたとか、どこのスーパーの屋上に何人くらいの人が避難していたといった話が一次情報でした。それらをまとめて伝達しようとする動き、たとえば役場であったり、あるいは石巻日日新聞がつくった壁新聞のような自発的な動きによって、被害に関する情報は集約されていったのです。(壁新聞発刊の大きな動機のひとつには、暴動などの二次災害を喰いとめたいという思いがあったのだそうです)
関東大震災についての記載が、21世紀に起きた大震災直後の状況と重なって見えてくるのは不思議にも思えますが、人間の社会とか文化とかを凌駕するものが災害だと考えれば、逆に当たり前のことなのかもしれません。
工場の定休日だったから大火災を免れる:川口
県内の被害は2日正午頃にほぼ判明した。最も被害が激甚だったのは、やはり北足立郡川口町、死者10名、負傷者33名、全潰640棟、半壊破損を合わせて1,890棟に達した。
同町は市街のうちに400余の鋳物工場を有し、平日であったなら400余の溶鉱炉から一斉に火を発し、全町たちまちにして劫火に包まれ、東京以上の悲惨事となるところだったが、幸い工場の定休日だったことは天佑というほかない。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
今日でこそ東京のベッドタウンとして有名な川口市ですが、つい数十年前までは、鋳物の一大生産地として有名でした。吉永小百合主演の映画「キューポラのある街」の舞台になったのも川口です。キューポラとは鋳物用の鉄を熔かす溶解炉のこと。
もしも定休日ではなく、工場が稼働中だったら、灼熱の溶けた鉄が飛び散り、火傷による死者、負傷者が多発したに違いありません。当然、大火災も発生し、記事にあるように、関東大震災の悲惨な物語のひとつとして川口の被害が付け加えられるような事態を想像するとぞっとします。
土地が1mも隆起して田が畑となる。県道は陥没して川に:春日部周辺
死傷者の一番多かったのは大宮町の66名であった。これは鉄道省鉄工場と丸山製糸工場倒壊のため、職工が避難の暇なく圧死したのである。
熊谷町方面は、久下村方面に地割れが多く、割れ目からは青黒い水を吐き出していた。
川越市は土蔵造りの商家が多いため、屋根瓦や壁を払い落され、被害が多かった。川口町方面とともに被害の多かったのは南埼玉郡粕壁(春日部)方面で、粕壁町は市街の半数は倒潰または半潰し、幸松村方面より古利根川を横断する大亀裂を生じ、地形に大変化を起こし、土地が三尺以上も隆起した。
水田が畑になったのや、県道が陥落して川になったのもある。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
春日部周辺から北葛飾郡にかけての被害地として、粕壁町の他に岩掛町、新和町、川通村、豊春村、武里村、出羽村、蒲生村、大相模村、菖蒲村、幸平町、松戸町、田宮、幸松、豊野、南桜井、吉川町、八木郷、彦成村が死亡者のあった地名として記されています。その後の合併で市の名前としては残っていなくても、町名やバス停の名前などとして残されているところも少なくないでしょう。
今となっては、地元の人にしか分からないローカルな地名もあるかもしれませんが、今後の災害対策に生かすべき貴重な記録といえるでしょう。
東京と他の地方間の情報伝達のために
ここでも広域な大災害が発生した直後、情報伝達と交通の確保がいかに重要かが強調されています。
当時、他の地方と東京との交通連絡は、ひとえに埼玉県による他なく、本県は内にかなり激甚な被害を受けている一面に、この連絡をはかることも重大な任務だった。
電報電話が不通となるや、県警察部では直ちに警察電話を府下(東京の)板橋警察署に延長して臨時通信部を設け、まず第一に宮内省と日光御用邸との連絡をつくり、半ば電話、半ば自動自転車(オートバイのことか)をもって、両陛下のご無事を東京に、摂政殿下(後の昭和天皇)その他皇族方のご安否を日光へお知らせ申し上げたのは、本県の構成の最も大なるものであった。
「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行
皇室の安否連絡という形で紹介されはいますが、県内の被害が少なかった場所から、東京の板橋まで警察電話(おそらく直通電話でしょう)を引き、さらに昭和天皇がいた栃木県の日光までは、電話とオートバイをリレーして情報を伝達したというのです。甚大な被害を受けた被災地で、人々がさまざまな工夫を凝らし、情報伝達を復旧させようとした様子が目に浮かびます。
広域な大災害の直後には、生命の危険、救急や物資援助などさまざまな困難が発生します。何が起きているのか、どんな対処や支援が必要なのか、状況を把握するにも行動を開始するにも情報が欠かせません。しかもその情報伝達そのものが、大災害直後には難しくなっていると考えられるのです。
東日本大震災の直後に情報の最初のメディアになったのが、ほかならぬ人間だったことを指摘しましたが、1人ひとりが「情報の担い手」という意識を持つことや、「口コミ情報の信用度」を判断するためのリテラシーなど、災害時の対策としてあまり認識されていないことも少なくないと思います。
直近の巨大地震災害であった東日本大震災だけではなく、阪神淡路大震災や関東大震災などタイプの異なる地震災害も含めて、教訓を学び取っていくことが重要です。
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