バブルでも美味しい思いなどできない記者稼業
物書きらしい仕事をするようになって何年か経ってから、新聞社系の雑誌の仕事をすることになった。その出版社の雑誌は、エッセイストなどの寄稿以外のいわゆる編集記事は、すべて社員の記者が書くのがウリだったのだが、当時はバブルの全盛期。社員だけではページを作れないほど繁忙を極めていた。そこで苦肉の策として「取材協力スタッフ」という微妙な立ち位置の名刺を渡されて、実際には取材だけでなく執筆も行う外部スタッフとしてページを担当することになった。
なぜバブルで記事をたくさん作らなければならなくなったかというと、その理由の大きなもののひとつは第三種郵便という特例的な郵便制度にある。新聞や雑誌など全国に広く購読者がいると考えられる媒体の郵送を特別に割安料金で郵送できるようにするのがその制度だ。新聞販売店がない地域や、地方紙をカバーエリア以外の地域へ送る場合、そして取次業者を通すことなく書籍や雑誌を、求める人の手元に直接郵便で届けるために設定された、知る権利の公平を担保するための制度と考えていいだろう。ただし第三種郵便には条件がある。それは、編集記事等純然たる記事を広告が面積として上回らないこと。
バブルの頃はとにかく景気が良かったから、どんどん広告が出稿されて、雑誌も新聞も分厚くなっていった。僕が書くことになった出版社の雑誌は当時、日販、東販といった取次業者を通さない直販ということも特徴のひとつだった。だからなおのことだ。編集部は、広告部が営業して集めてきた広告のページ数を上回るだけの編集ページを作らなければならない。プレッシャーは大きい。ページが作れないと雑誌を読者に届けることができなくなるからだ。
広告部が取ってくる広告ページの量は毎月毎月増加していく。広告が100ページ入ってきたら、101以上のページ数の記事を。200ページの広告を掲載するためには、201ページ以上の編集ページをというわけだ。広告が入ることは会社の収入アップを意味するからありがたいことなのだが、記者たちは、当時すでにひとり十数ページを担当しながら、広告出稿ページ数とのデッドヒート(必ず勝たなければならない)を繰り広げ続けていた。世の中がバブルだなんて言っていても、編集部は毎日午前様。浮き世を楽しむ時間などない。やがてA4サイズの雑誌が、縦に置いて立つまでに分厚くなっていく。そんな中での「取材協力スタッフ」依頼だった。
自分が仕事をすることになったのは、出版社の中で美術雑誌を作っている編集部。こどもの頃から絵を描くのも絵を見るのも大好きだったから、手引きしてくれた高校以来の先輩からのオファーを断る理由などなかった。実際の取材前に副編集長の伊野さんに一度だけ会って、初回の取材には伊野さんと先輩と3人で出かけて行ったものの、次号以降は「おひとりさま」で行くことが決定。初回取材の時に感じた印象も、伊野さんってとってもソフトな人だなぁ。ソフトだけど、聞くべきところをしっかり押さえていくところはすごいなぁと感じたくらいだった。
最初に書いた原稿は、大過なく入稿、校了、発行へと進んだ。でも、二回目、一人で取材して作った原稿にはクレームがついた。当時はすでに原稿のやり取りをネットでやり始めていた(インターネットではなく、出版社のサーバーを利用するのでもなく、知り合いが個人が立ち上げた草の根ネットサーバーに便乗するかたちで記事のやり取りをしていた。今では考えられないよね)から、書いた原稿をゴミ箱へポイッてことはなかったが、「なぜNGなんだ」という、抗議に近い疑念が湧き上がった。予定時間を延長するくらい取材先の人とは意気投合し、話は盛り上がり、予定していた以上の内容まで踏み込んで聞くことができていた。取材直後には、当初予定の4ページでは収まりきれないからページを倍増したいという要望にはOKが出ていたのに、それなのに、記事については、このままではダメだ。
なぜなら、
「たたく」ことが記事の基本だから
担当編集者となった先輩を通して、編集長から副編の伊野さんを経由して伝えられたのは、「記事がまったくもって、たたけていない」という不満だった。
「たたく」ったって、取材したのは美術品の修復家だ。古くから伝わってきた美術品をできるだけ長持ちさせるために、さまざまな手を尽くして保存の技を注いでいる職業の人だ。たたけなんて言ういうこと自体ヘンだ。だいたい、どうたたけばいいのか。
話を聞いた時、考えたのはそういうことだった。担当は重ねて「たたくことが記事の基本だから」と告げた。「新聞も雑誌もテレビもラジオも、報道というのはたたくことが基本」と。伊野さんからは、「たたけそうにないものでも、たたく姿勢を持って接することが、批判的な精神につながる」と、さらに難解な言葉まで付け加えられた。
記事の予定ラインナップでは、美術修復家を毎号続けて取材することになっていた。その最初のひとりを取材した時点では理解していなかったのだが、その後いろいろな人に会っていく中でわかってきたのは、当時の日本の美術修復業界には、実にさまざまな考え方やノウハウを主張する人たちがいたことだ。400年前のフランドル絵画が傷んできたのを修復するために100年前から続けられてきた技法を良しとする人たち。ルネサンス時代のテンペラ画の修復技法をイタリアで学んで、それを日本に根付かせようとしている人たち。ヨーロッパとは極端に異なる日本の気候風土を考慮して、日本の伝統的な絵画修復を技法を応用しようとしている人たち。その時点で欧米で最先端とされる修復技法を日本に導入しようとしている人たち。実は、絵画修復といっても手法も技術も哲学も多種多様だったのだ。事情は国内のみならず西洋絵画の本場であるヨーロッパでも同様で、ありとあらゆる試行錯誤の中で、さまざまな手法による美術品の延命措置がとられており、正否は時間による淘汰の結果を待つほかないというのが実情だった。
それなのに、「見てきました」「聞いてきました」ということだけを拠り所に記事を作ってしまったのでは、さすがによろしくない。取材の幅を広げていくうち、なるほどと納得した。
実は、そんな理由なんかじゃない
しかし、伝言ゲームみたいに編集長から副編集長経由で担当の口から伝えられた「たたくことが必須」という言葉は、当時自分が取材した修復家という限られた世界に関してだけの話ではなかったのだと、いまは思う。そのことを思い知る出来事が、ほぼ同時期に起きた。
それは海外のオークションでゴッホやルノワールの作品を、当時の世界史上最高額で落札していった日本人の美術品コレクター齊藤了栄氏の発言をめぐってのものだった。
「自分が死んだら絵画も一緒に棺桶に入れてもらうつもりだ」
自分の所有物とした美術品を墓の中に連れて行く。そのニュースを聞いた時、ひどい話だとは思ったが、オークションで落札し、100億円ものお金と引き換えに自分のものにした氏に対して、その発言を批判する言葉は自分の脳裏には浮かばなかった。日本発のニュースを受けてヨーロッパの美術界からは猛然たる反論が上ったが、日本国内で非難の声の急先鋒だったのは、自分が記事を書いていた雑誌だった。人類共通の財産である美術品を、一時の所有者の恣意に任せてよいはずがない、という厳しい批判だった。
編集長の野村さんは、「閉鎖的な美術市場を叩き壊す」とは言わないまでも、美術市場に経済原理を導入しようとしてきた人物と目されてきた。しかし、齊藤氏発言に対する反論は、一般的な感覚での所有の概念からは突き抜けている。ヘンだと思ったこと、つまりニュースとしてのバリューがある案件には「たたく」姿勢で取り組む。それが批判の原点だったのは間違いない。
想像でしかないが、日本では伝統的に価値ある物は伝来のものとして、「所有者は後世に品物をバトンタッチして行くためにいる」という考え方が受け継がれてきた。人類の宝である文化財に対する姿勢に洋の東西は関係ない。雑誌創刊以後、ある時には激しく指弾してきた日本の美術界の中に受け継がれてきた「歴史」が、ここでは批判の思想的バックボーンにあったのではないか。バブル景気で手にした資金で所有物とした芸術品に対して、思いのままにする権利を有しているかのような氏の発言は許されないとして根拠には、交換会という透明性の低い市場慣習とともに、日本の美術愛好家の中で受け継がれてきた伝統的な思想があったのかもしれない。
「たたく」ことの本当の意味
見方によっては一貫性を欠くように見える主張でも、信念に基づいた主張を展開することができたのは、「たたく」思想によるところが大きい。とにかくたたく、なんて乱暴に思える姿勢があるからこそ、もやもやとした世情に対して「それは違う」と明確に指摘することができる。
「たたく」姿勢を持っているからこそできる主張——。
その出来事を通して感じたのは、自らの不明を恥じることだったり、恐れ入ったり、とはいえ果たして自分はそこまで貫き通すことができるのだろうかと不安になったりという歯切れの悪いものだった。とても整理しきれない複雑な思いが当時はあったのは事実だ。しかし、ものを書く時に「たたく」ことをスタンスとする、という思想は、いまでも自分の中に突き刺さったまま、ここにある。
とはいえ、その後自分が「たたく」思想で文章を書いてきたかというと、そんなことはない。むしろ逆だろう。それでも、「たたく」ことができそうにない話を文章にするときでも、どこかに「たたくことが基本だ」という声が聞こえる。まるでアクセルを踏んでいるのにブレーキもかかっているような感覚で。
アクセルとブレーキを同時に踏む、というと非効率の最たる物のように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。むしろ逆だと思う。抗いきれないほどの抵抗がある中から生まれてくるものには、楽な環境から出てくる物とは桁違いの力がある。物書き仕事に限らず、世の中全般に二律背反からのブレイクスルーこそが、真の推進力を持つと理解されているのと同様だ。おそらく、新しい何かは反対命題があるからこそ生まれる。「たたく」という報道の基本姿勢のすぐ近くで10年近く仕事をできたことは、自分にはきわめて価値ある経験だったわけだ。
なぜたたかない。いつからたたかなくなったのか?
と、ここまでは、実は長い長い枕でしかない。本当に申し上げたいのは、ここから先。
10月のあたまに、ある国内メーカーが製造するテレビの最高級機種が原因不明の故障をするという出来事があった。謎の故障が続出したのは、東芝の「セルレグザ」。10月1日から突然同時に故障したのだという。ソフトウェアアップデートのバグのせいではとか、BS放送のロゴが変更になった影響かとか、あまりに奇妙な現象はネット上ではさかんに話題にされた。
ところが、マスメディアの報道はほとんど行われなかった。もしかしたら新聞紙面などに1段記事で報じられたかもしれないが、ネットニュースで見ることができたのは、日経新聞程度だった。
故障とか不具合とかいう以前に、原因不明という部分だけでも十分すぎるほどニュースバリューがあると思うのだが、ネットのニュース検索に引っかかるほどの記事をマスメディアは発信しなかった。ほぼ横並びで。
不思議に思って、最近リコールが発表された自動車などの銘柄でも検索してみたが、同様にやはりマス系のニュース報道はほとんど引っかかってこない。一昔前であれば、原因不明の故障とかリコールは、新聞やテレビのニュースでも大きく報じられていたように思うのだが、いつの間にか、そうではなくなっている。
報道の基本は「たたく」ことと教えられた身にしてみれば、信じられないことだった。
そもそも不具合とかリコールとかは、「たたく」ということ以前に、ひろく一般に知ってもらわなければならない情報であるはずだ。しかし、それすらない。いわんや「たたく」報道姿勢が保持されているとは想像しにくい状況だ。
広告(つまり収入)の問題があるから? それとも申し合わせによる自主規制?
そんなことを勘ぐるよりも何よりも、先に述べたように「たたく」姿勢が新しいなにかを生み出す原動力のひとつとなるものだとするならば、その欠落がこれから先のマスメディアのあり方にどんな影響を及ぼすことになるのか。そちらの方が深刻だと思う。
ニュースを読む目はもちろん、ニュースを作って送り出す腕も、これからはひとりひとりに求められていくことになるのだろうだと、うなずきながら確信しているところだ。
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