クリスマスにまつわる心温まる話

sKenji

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子供の頃、一年で最も待ち通しい特別な日だったクリスマス。

サンタクロースからのプレゼントと、華やかさと厳かな雰囲気を持つクリスマスに心が躍った。

小学校時代の大半は、日本海に面する田舎に住んでいた。年によっては、雪が降り積もり、ホワイトクリスマスになる。我が家の定番のクリスマスディナーは、ローストチキンとアイスケーキ。綺麗なイルミネーションで飾り付けられたクリスマスツリーと、古めかしいレコードから流れるクリスマスソング。LPレコードのバチバチというノイズが今となってはとても懐かしい。

当時は、5階建ての団地の3階に住んでいて、建物の裏は広い広場となっており、その向こう側は山となっていた。雪が積もった夜、カーテンを開けると踏み荒らされていない雪原が浮かびあがる。外は極寒だったに違いないのだが、なぜか、暖かい記憶しか残っていない。

クリスマスは、人を暖かく包み込む特別な日だと思う。

心温まる話が多いXmas

クリスマスには、心温まるエピソードがたくさんある気がします。

つい最近の話だと、カナダの航空会社・ウェストジェット航空のクリスマスプレゼントも心いやされる素敵なエピソードでした。

 とある航空会社のドッキリがYouTubeで大ヒット クリスマスにちなんだ仕掛けに世界から賞賛の声 (ねとらぼ) - Yahoo!ニュース
headlines.yahoo.co.jp  

寒さが厳しさを増すクリスマスですが、そんな季節に心温まるエピソードを3つご紹介します。いずれも有名な話であり、いまさらという方もいるかもしれませんが、何度読んでも心が温かくなるお話です。

あるデパートの広告が引き起こしたお話

数年前にWEB上のニュースで知った話ですが、アメリカ人のユーモアと遊び心に感動と尊敬を感じたお話です。以下、概要です。

■サンタ追跡作戦
 1955年のクリスマスシーズン、アメリカにあるCONAD(中央防衛航空軍基地)
 の司令官ハリー・シャウプ大佐のホットラインに一本の電話がかかってきました。
 かけてきた相手は、国防総省でもホワイトハウスでもなく、
 地元新聞に掲載された米国の小売り大手・シアーズのクリスマス広告を見た
 小さな男の子でした。
 広告には、クリスマスイベントとして「サンタクロースへの直通電話」の番号が
 書かれているはずでした。
 しかし、シアーズはこともあろうか、サンタクロースへの直通電話の番号を
 誤り、なんと、CONADの司令官へのホットラインの番号を広告に掲載して
 しまいました。
 電話を受けたシャウプ大佐は、当然、驚きます。
 しかし、大佐は、すぐに部下の隊員たちにサンタが北極から南に向かった形跡が
 ないかレーダーで確認させ、電話をかけてきた少年に応対しました。
 その後も、電話をかけてくる子供達にサンタの現在地の最新情報を
 伝え続けたという話です。
 
 この信じられないような出来事がきっかけに、今でも、CONADの後身である
 NORAD (北米航空宇宙防衛司令部 )が、毎年クリスマスになると、
 レーダーの他、人工衛星などを用いて、サンタクロースの追跡を行い、
 サンタの現在位置情報を多くの子供たちに伝えています。

このエピソードを初めて聞いたとき、お堅いイメージがする司令官のユーモア&人間味溢れる対応に、心が温まりました。

現在、NORADはWEB上でも、様々な趣向を凝らして追跡情報を公開していますが、個人的には電話で応対した当時のエピソードが好きです。

シークレットサンタのお話

知っている方も多いかもしれませんが、知らない方は、ぜひ読んでいただきたいお話です。以下、長文になりますが、引用です。

■シークレットサンタ
 アメリカでクリスマスになると、貧しく困っている人々に現金を
 プレゼントする男性がいた。
 彼はいつしか「シークレットサンタ」と呼ばれるようになった。

 1971年11月、23歳のラリー・スチュワートは会社が倒産し路頭に迷っていた。
 あまりの空腹に耐えきれず、ついレストランに入って取り憑かれたように
 注文してしまった。
 請求書を出されようやく我に返り、お金を持っていないことに気づいた。
 そして、なんとかその場を取り繕おうとポケットの中を探すフリをしながらも、
 警察に突き出されても仕方が無いと思っていた時だった。

 一人の男性店員がラリーの横でしゃがんで、20ドル札が落ちていたと
 渡してくれたお陰で、彼は会計を済ませることができた。

 だがこの人生最大の苦境に偶然手に入れた20ドルが、
 後に彼の運命を変える重大な鍵となる。

 1972年、運良く拾った20ドルの残りを旅費にカンザスシティに
 移り住んだラリーは、警備関係の会社を起こして懸命に働いた。
 結婚し子供も生まれたラリーは幸せな生活を手に入れたかに見えた。
 だが1977年12月、不況で会社が倒産しその日の食事代にも困るほど
 追いつめられた。
 貧しさのせいでラリーは我を忘れ、銃を手に銀行に入り、
 強盗を働きそうになった。
 だが、20ドル札を見てふと我に返り銀行強盗をすんでの所で思いとどまった。
 改心したラリーは1978年、妻の兄からの援助を受けてセールスマンとして
 懸命に働いた。

 だが彼はまたしても試練を与えられる。
 1979年12月、会社の経営が思わしくないということで、
 ラリーは解雇されてしまったのだ。
 もう助けてもらうあてがないと途方に暮れていた時だった。
 ふと目についた売店に立寄り、ポップコーンを注文した。
 店員の女性は暗い表情で、違う商品とおつりをラリーに渡した。

 ラリーは彼女が困っているのだと思い、おつりの中から20ドル札を
 プレゼントした。
 彼女は受け取れないと言ったが、ラリーはクリスマスプレゼントだと
 言って手渡した。

 この日はクリスマスだった。
 女性は嬉しそうに礼を言った。

 その笑顔がラリーを明るくし、彼は思いも寄らない行動をすることになった。

 そのままラリーは銀行に行くとなけなしの貯金を引き出し、
 白いオーバーオールに赤い服とベレー帽という姿で町に繰り出した。
 そして困っているような人や貧しい人に20ドル札をクリスマスプレゼントとして
 手渡したのだ。

 シークレットサンタが誕生した瞬間だった。

 20ドルは大金ではなかったが、困っている人々にとっては大きな助けとなり
 喜んで受け取ってもらえた。
 それがラリーの人生にも思わぬ影響を及ぼすことになる。
 家に戻ると、妻から銀行にお金が残っていなかった、と聞かれた。

 ラリーは落としてしまったと答えた。

 すると妻は怒るどころか、仕方がないわね、でもあなたは幸せそうね、
 と微笑むだけで文句を言わなかった。

 翌年の1980年、ラリーは友人と長距離電話の会社を設立し、懸命に働いた。
 そしてその年のクリスマスにも道に立って人々に現金をプレゼントする活動を
 続けた。

 そしてその金額は少しずつ多くなっていった。

 不思議なことにシークレットサンタとなって施しをすればするほど
 会社の業績が上がり、長年の切り詰めた生活から抜け出し家族のために
 家や新しい車を買えるまでになった。

 ラリーの妻も町中でシークレットサンタの噂を耳にするようになった。
 彼は家族にも言っていなかったのだ。

 彼はそれからも一年も休むことなくシークレットサンタの活動を続けたのだが、
 9年目の1987年12月、ついに妻にシークレットサンタがラリーであることが
 わかってしまった。

 すまないと謝るラリーに、
 妻は「素敵なことじゃない。これからはもっと節約してたくさんの人を
 助けられるように協力するわ」と答えた。
 以後、家族もラリーの活動を知って陰から支えることになった。

 1995年、地元ではすっかり有名になっていたラリーは匿名を条件に
 取材に応じた。
 カンザスシティ・スター紙のマクガイヤー記者は、
 彼も家族も一切表舞台に出ようとしなかったと話す。
 しかし報道されてから、シークレットサンタの正体への関心はさらに
 高くなった。

 一方ラリーは多くの人に感謝されるにつれて、
 ある人物に会いたいという思いが募っていった。
 そして1999年12月、ミシシッピ州のトゥペロという小さな町のある男性宅を
 訪れた。 
 その男性とは、シークレットサンタの生みの親だった。

 28年前の1971年、一文無しだったラリーが落ちていた20ドルに
 救われた日のこと。
 本当の落とし主が現れたら困るので逃げるように店を後にしたラリーは、
 我に返って真実に気づいた。

 20ドルは、落ちていたものとして男性店員が彼にくれたものだったことに。

 男性店員はテッド・ホーンといい、当時のことを思い出した。

 ラリーは彼がしてくれたことをいつか誰かにしようと思ったのだと話した。
 そして、テッドの20ドルがなかったら刑務所に入っていただろうという。

 自分の人生を正しい方向に導いてくれたお礼にと、ラリーはテッドに
 1万ドルの入った封筒を渡した。
 受け取れないというテッドに、ラリーは自分が今あるのはあなたのおかげだ
 と引かなかった。
 当時テッドは、警察に突き出すのではなく、自らの過ちに気づき、
 他人への優しさを知って欲しいと思って20ドルを差し出した。
 それをずっと覚えていて、サンタ活動を続けたことには頭が下がる
 とテッドは話している。

 テッドさんはラリーさんから渡された1万ドルを、
 近所の病気で困っている人たちや生活に苦しい人たちのために使ったという。
 人を思いやる気持ちは健在だった。

 そしてラリーのサンタ活動は全米に広がった。

 2001年には世界貿易センタービル爆破事件のあったニューヨークに行き、
 ホームレスや職を失った人を中心に2万5千ドルを配った。

 2005年にはハリケーンで壊滅的な被害を被ったミシシッピ州を中心に
 7万5千ドルを配り、27年間で配った総額は150万ドルになった。

 だが2006年、シークレットサンタがついにカメラの前に現れ正体を明かした。
 彼は2006年4月、食道ガンのため治療しなければ1ヶ月生きられないと
 宣告されたのだ。
 正体を明かしたのは、自らの命の宣告を受け、身近な人への思いやりを
 広げて欲しいというメッセージを送りたかったからだろうと、
 マクガイヤー記者は話す。

 その反響は大きかった。

 2日間で7000通もの手紙やメールが彼のもとに届いた。
 大半は自分もシークレットサンタになりたいというものだった。
 その年のクリスマスも彼は病気を押してサンタの活動を行った。
 そのお陰で多くの人が笑顔でクリスマスを迎えられた。

 2007年1月12日、ラリーは58歳で静かにこの世を去った。

クリスマス休戦のお話

99年前のクリスマス、第一次世界大戦中にフランス北部で実際にあったと言われているお話です。

1914年12月、フランス・イギリス連合軍とドイツ軍が連日、激しい戦闘を繰り広げていた前線に、突如、ドイツ軍の陣営からクリスマスキャロルの歌声が流れたことがきっかけとなり、戦場の最前線で自然発生的に休戦が生まれたといいます。後の人が言う「クリスマス休戦」です。

以下、「クリスマス休戦」の実話を元に作られれた映画「戦場のアリア」(2005年制作)紹介サイトにある当時の模様を引用します。

戦地という極限状態、さらに緊迫した前線にいる兵士たちが戦地でのつかの間の温かさを味わえた〈クリスマス休戦〉のきっかけとなったのは、ドイツ人テノール歌手の素晴らしい歌声だった。
彼の名は当時、実際に慰問公演を行っていたドイツのテノール歌手、ヴァルター・キルヒホフである。1914年のクリスマスにドイツ軍の塹壕で歌っていたところ、100m先のフランス軍の将校がかつてパリ・オペラ座で聞いた歌声と気づいて拍手を送ったのだ。そしてヴァルターが思わずノーマンズ・ランド(両軍の中間地帯)を横切り、賞賛者のもとに挨拶に駆け寄ったことから、他の兵士たちも塹壕から出て敵の兵士たちと交流することになった。

戦場のアリア  オフィシャルサイト -イントロダクション- : 角川映画

この心温まる休戦についての公式記録は存在せず、現場の判断による非公式な一晩限りの休戦だったと言われています。前線にいた多くの兵士たちの心の奥底にある想いがあふれでたエピソードではないかと思います。

Text:sKenji

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