阪神淡路大震災、1995年の被災地リポート

iRyota25

公開:

4 なるほど
2,722 VIEW
0 コメント

その朝はなぜか早く目が覚めて6時過ぎにはテレビのスイッチを入れた。関西で大きな地震が発生したとのテロップが流れ、たぶん大阪のスタジオから被害についての情報が繰り返えされていた。やがてヘリコプターからの映像が脱線した電車や壊れた線路を映しはじめる。ついには横倒しになって倒壊した阪神高速の映像。断ち切られた高速道路から落ちそうになって止まっているバスの映像。さらに市街地から立ち上る火災の煙の映像と、ショッキングな映像が次々に映し出されていった。

テレビから目を離すことができなくなった。この世のものとは思えない映像。どこか別世界の映像。いやむしろ、フィクションの世界の出来事であってほしいと思いたくなるほどの距離を、ありえない映像の数々を見せられるたびに思っていた。屋根が落ちた危険なアーケード街をフジテレビの笠井アナが走り回ってリポートしている姿もよく覚えている。

1995年。戦後50年に当たるこの年は、戦争で廃墟となった中から復興し、高度経済成長を遂げ、ジャパンアズナンバーワンと呼ばれるまでになり、しかしバブル崩壊によって沈み込むという、日本の現代史を振り返る節目の年となるはずだった。しかし現実には歴史を振り返るどころではなかった。

1995年1月17日午前5時46分。兵庫県南部地震発生。死者6,434名、行方不明者3名、負傷者43,792名を数える阪神淡路大震災を引き起こした。

行くか行かないか。

「阪神の被災地に取材に行く話があるんだけど、どうする?」
当時記事を書いていた美術雑誌の編集さんから打診があったのは、地震から1週間ほどたった頃だった。ふつうなら「○○に取材に行って来てほしいんだけど」という依頼の言葉になるところが、「どうする?」との打診だったところに、当時の空気感がにじんでいる。

地震発生から死亡者数は日を追って増え続け、阪神地区は「壊滅的」という印象が強かった。言葉は適切でないかもしれないが、死屍累々というイメージさえあった。たくさんのご遺体がまだまだ残されているのではないか。生きのびた人たちも厳しい避難生活で極限状態にあるのかもしれない。そんな場所に半ば命令口調で「行ってきて」とは言えない雰囲気があったのだ。

打診されたこちらも即答はできなかった。多くの人たちが苦しんでいる場所に仕事として足を踏み入れるのが許されることなのかという迷いがあった。まして、人の命や生活が危ぶまれる中、美術というテーマを背負って被災地に出向くことに正義があるのか。いかに阪神地区が日本の美術史の中でもきわめて特異な、ひじょうに重要な場所だとしてもだ。

打診してきた雑誌社としてもタイミングを決めかねているところがあった。本当ならいち早く取材陣を派遣したいところだが、人命の救出と捜索が最優先される中、美術雑誌として取材に赴くことの判断に悩んでいたようだ。同じ会社の建築系の雑誌でさえ、まだ取材は出していなかった。もちろん新聞や週刊誌は地震発生のその日のうちに動いたが、月刊誌は他社も含めて様子見。

ボランティアという言葉にしても、1989年にサンフランシスコ近郊で発生したロマ・プリータ地震や、1990年の雲仙普賢岳噴火あたりからニュースに登場するようにはなっていたが、まだ一般的な言葉ではなかった。

当時はそういう空気だったのだ。

チーム編成

自分がどのように覚悟を決めたのかは、よく覚えている。「行きたい」「見てみたい」という取材記者としてはきわめて健全な野次馬根性はあった。だが、いくら職業を盾に健全と言い張ることができたとしても、野次馬は野次馬。人倫に悖るのではないか。その一事が「行く」という判断を制止する要素だった。

しかし、現地を見ることもなく、人倫に悖るかどうかなど判断できないのではないか。行って後悔するようなことがあれば率直に謝罪しよう。行かずに後悔するよりは、被災地に取材者として入ることが正しいことかどうかをこの目で確かめたい。

そんなこじ付けのような屁理屈で、要するに好奇心を優先したわけだ。

担当の編集さんに判断を伝えると、相手も重大な覚悟を固めていた。「もちろん人命は何ものにもかえられないが、人命の次に大切なのは美術品や文化財だ。決してお金とか株式などといったものではない。なぜならそれは次の世代に引き継いでいかなければならないもの。そして一度破壊されると元に戻すことができないものだからだ。しかし現在、被災した地域の美術品がどんな状況におかれているのか、まったく情報がない。次世代に伝えていくべき文化に携わる仕事をしている以上、人命の次に大切な美術品を守るために、わたしも行く」

不確かな記憶なのだが、たしか最終的には建築系の雑誌と合同取材ということで8人ほどのメンバーになったのではなかっただろうか。ただ、当時は鉄道が寸断され神戸市内に入ることさえきわめて困難な状況だったので、クルマで動ける範囲で調査を行うチーム、電車とタクシーなどを組み合わせてできるだけ足を伸ばすチーム、何らかの手段を講じて何としても神戸の街なかまでの踏査を目指すチームの3つに分かれた。ぼくは担当の編集さんとともに神戸まで行く班になった。何が起こるか分からない場所にわけ行って、建築系雑誌のための写真を撮影する要員として、中国西部(それも日本人がほとんど入らないマイナーな地域)や東南アジアで活動する写真家氏もチームに加わった。

鉄道が寸断された上、東西に走る道路も限定される阪神地域では、地震発生以後、幹線道路の慢性的な渋滞が深刻で、支援物資の輸送にも支障が出ていると伝えられていた。大坂から神戸まで早くて5時間という話もあった。電車は無理。クルマでも無理。徒歩なんてあり得ない。そんな状況下で神戸の街なかまで入って活動してその日のうちに大坂方面まで戻ってくる。そのためにぼくらが採用した「何らかの手段」とは自転車だった。

神戸への行程

マウンテンバイクの前輪を外し、ハンドルを曲げて、レンタルショップで借りてきた輪行バッグに納める。当時乗っていた車のトランクに輪行バッグが入りきれず、トランクの蓋を紐(どうしようと思ったら、ちょうどぴったりの長さの紐がトランクの中にあった)で固定して新幹線の始発に乗るべく未明の東京駅へ。大きな輪行バッグを抱えてどのように移動したのか、まったく記憶に残っていないが、横着してペダルを外しておかなかったので、歩くたびに膝や脛に当たって痛かったこと、そして自分たちと同様に輪行バッグを携えた人が何組も新幹線に乗り込んできたことは覚えている。

新大阪到着後の行程もうろ覚えなのだが、初日は阪急神戸線を利用したと思う。2月初旬当時、大坂方面からの阪急線は西宮北口駅どまり。初日は西宮市大谷記念美術館を取材し、午後からは自転車での神戸往復が可能かどうかを検証するために灘方面まで突っ込む、という段取りだったように記憶している。

ちなみに西宮北口駅は西宮市のほぼ中心の駅。神戸まではかなりの距離がある。初日はそうとう疲れた。この距離の往復を繰り返すのは無理ということで、翌日以降は阪神線で青木まで、と自転車での移動距離を短縮することにした。

屋根に被せられたブルーシート

初日の印象を記す。
大阪市内のホテルは満杯で、編集庶務の方にずいぶん頑張ってもらったけれど、けっきょく諦め、「そうだ京都」の京都ならホテルもたくさんあるから何とかなるだろうと思ったものの、その思い込みすら甘くて、京都駅近くのホテルは大阪同様に満杯。けっきょく東山の先の高級ホテルのセミスィートにエクストラベッドを入れてもらうことで何とか寝る場所を確保。

京都駅から遠すぎたから、初日はたしかホテルに寄らずにそのまま新大阪から阪急電車に乗り継いだ。

大阪は川の町。淀川を渡り、その後も何本もの鉄橋で川を越えていくうち、写真家氏があっと声をあげた。たぶん尼崎市の中程か。

見ると瓦葺きの民家の屋根にブルーシートが被されている。

被災地なんだ。体が固くなるのがわかった。でも、電車がしばらく走っていっても、屋根にブルーシートの家はしばらくのあいだ見えてこない。しかし、その「しばらく」を過ぎたあたりからは、ここにも、あそこにも、と落ちてしまった屋根瓦の代わりに応急的に被せられたブルーシートの屋根がどんどん増えていった。

大きな輪行バッグを脇に挟むようにして持っているから、乗車位置はドアを入ったところ。ドアの窓はほかの窓より低いから、身を屈めるようにして同行の3人ともが外の景色に食い入った。時折、「あっ」とか「あそこ」とか声を発することはあっても、会話などかわす余裕はない。

そうこうするうち、最初にブルーシートが見えてほどなく、予定の下車駅「西宮北口」に到着した。

ここからどう動いたのか、駅から国道までの記憶がまた飛んでいる。駅前では、輪行バッグから自転車を取り出し組み立てて、互いの装備をチェックし合ったりとそれなりの行動をしているはずなのだが、スコンと抜けている。念じ続けていればきっと出てくるはずだが、今日のところは先を記そう。

あ、ひとつ思い出した。JRは輪行袋を推奨していたのだけれど、私鉄はそのまままるのままの自転車の持ち込みを特例として許してくれていた。だから、ぼくらみたいに輪行バッグを抱えた人間のすぐ隣に、ママチャリをそのまま電車に乗せている人が当たり前の顔で乗車していた。「なんでそんな大きなバッグに自転車を込めてるの?」って怪訝な顔をされたような気がする。

潰れた家のすぐ横に「貴重品買い取ります」のチラシ

西宮市は甲子園球場がある場所。学生の頃に甲子園や西宮球場に野球観戦に来たことはあった。神戸にも何度か言ったことはあった。しかし、それはピンポイントの目的地に向かって歩いただけのこと。阪神地域の町の地理については、北から阪急、JR、阪神の線路が東西に平行して走り、また国道2号線や阪神高速が同様に東西方向に貫いているという程度の理解しかない。

駅で降りて、どのような道筋を通って国道2号線に出たのか思い出せない。しかし、2号線に出たとたん、聞きしに勝る渋滞ぶりに驚かされた。国道が車で埋まっている。ところどころ倒壊した建物が道にはみ出しているところがあるせいか、国道に並ぶ車の動きは自転車どころか徒歩より遅い。

自衛隊のジープがある。やはり自衛隊隊のオリーブ色のトラックがある。一般のトラックにも「災害支援」という張り紙やバナーが掲げられているが、やはり渋滞の車列の中でほとんど止まったまま。ずらり並ぶ車列の中には、新聞社の小旗を掲げた黒塗りのハイヤーも少なくなかった。テレビ局のロゴマークの入ったワゴン車も多い。そしてそれと同じくらいに目立ったのが、「災害支援」との言葉とともに大手ゼネコンの名前をプリントアウトした紙を、フロントガラスに張り出した車だった。

「自分たちが建てた建物の状況を確認に行くんだろうね」と言葉にすると、「いや、復旧工事のツバを付けに行くところじゃないか」と誰かの声がした。

目的地は幹線道路を西へ向かったところだったが、車道は車であふれ、歩道も地震でずたずた。幹線道路沿いから少し町中を走ってみようかと脇道に入るとすぐに、倒壊した住宅が目に飛び込んできた。

平屋建てかと思って近づくと玄関がない。よく見ると、完全に潰れた1階部分の上に2階部分が乗っかっている状態だった。そんな壊れ方をした民家が路地の先に点在する。完全に潰れてしまった住宅の隣に、少なくとも外観からはまったく被害がなかったように思える家が立っている。その隣にはまた崩壊した家……。

中には、倒れ込んだ2階部分が道路を塞いでいるところもある。迂回して進んでいくと、線路の高架が崩壊して通行止め。さらに迂回すると、かなり新しく見える鉄骨造りの建物が、1階部分の駐車スペースをつぶしている。鉄筋コンクリートの住宅でも、基礎近くにグサグサの亀裂が入って微妙に傾いているものがある。その微妙さがなんとも言えない恐ろしさをかもしている。ぱっと見ただけでは無傷に見えるのに、ごくわずかに水平垂直が破綻しているのだ。堅固であるはずの鉄筋コンクリート造の建物の微妙な傾き。じっと見ていると、それだけで船酔いに似た気持ち悪さを覚えてしまう。

そんな住宅街の辻々に、元からなのか臨時なのか、ゴミ捨て場が設けられていて、たぶん崩壊を免れた家々から、建物内で使い物にならなくなった家財が捨てられている。家具、家電、畳、木片、そして割れた額に入れられた絵画。

ゴミ捨て場横の電柱には、「貴重品買い取ります」とのビラが貼り付けられている。中には「美術品買い取ります」というビラもあったという。

西宮から夙川、そして芦屋、神戸市の東灘、灘にかけては全国的にも著名な高級住宅地。高価な美術品や貴重品を所蔵している家も少なくない。震災で被害を受け、何がしかの資金を当座に必要としている家も少なくないだろう。そんなニーズに当て込んでのビラである。

ゴミ捨て場に捨てられた絵画と、買い取りますとのビラ。さらに国道を埋め尽くす緊急とは考えにくい車の列。

それが阪神地区で初めて目の当たりにした「被災地らしさ」だった。

1月17日。祈り。
1月17日。祈り。

※記事を追加して再送します。

文●井上良太

最終更新:

コメント(0

あなたもコメントしてみませんか?

すでにアカウントをお持ちの方はログイン