2013年の8月9日
2013年、68年目の11時02分、静岡県三島市でも黙祷のためのサイレンが流された。
11時02分、長崎市浦上。上空約500m
プルトニウムをサッカーボールのような形の爆薬で包んだファットマンと呼ばれた原子爆弾の中で、正確に均一に冥界の王を圧縮するように爆縮が起こり、内蔵された、わずか6㎏ほどのプルトニウム合金が、1ナノ秒の間に80回もの連鎖反応をおこした。
その結果、通常爆弾に使用される高性能なTNT火薬に換算して、2万2000tに相当する爆発が起こった。
その結果、およそ10万人もの人々の命が失われた。
――人は簡単に「10万人」と言うが、
あなたは10万人の人の顔を見たことがあるだろうか?
原子爆弾を投下したボックスカーと名付けられたB29の第一目標は、長崎ではなく小倉(北九州市)だった。目視での爆撃を指示されていたにも関わらず、その日の小倉上空は雲が多く、その上、爆撃体制に入るも爆撃できないという失敗を3度も繰り返し、燃料不足が懸念される事態に陥ったことから、長崎に目標を変更。しかし長崎の市街地も雲に覆われており、爆撃断念の可能性が濃厚になった一瞬、雲が切れた場所、すなわち本来の目標地点だった市の中心部から3kmも離れ、しかも谷沿いの浦上の上空で原子爆弾が爆発することになった。
――そんな経緯が何だというのだろうか?
爆心地と市街地の間に金毘羅山などの山地があったため、原爆の被害は限定的だったという話もある。第一目標の小倉に投下していれば、平坦な地形であるため、より大きな被害が発生しただろうという話もある。
――人間は考える生き物だから、頭のなかで考えてしまうことはあるかもしれない。
でも、そんな想像に意味があるのだろうか。
だれが…
どうして?
だれが…
どうして?
こどもが
おとなになり
また
そのこどもが
おとなになり
…けれどこどもたちは
おとなたちに
たずねるでしょう
だれが…
どうして
?
8月が
くるたびに…
『八月がくるたびに』(おおえ ひで・作 / 篠原勝之・え)口絵より(1971年)
こどもが
おとなになり
また
そのこどもが
おとなになり
――68年も昔の、とおいとおい話ではなく、
こどもがおとなになり、そのこどもがおとなになり、
いつまでも伝え続けていくことが、いのちのリレーのなかにいる、
わたしたちがやらなければならないことだと思います。
うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、
「ああ、……お父さんのにおい……」
と言った。
この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!
母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?
枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私であっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか?
時計は十一時を少し過ぎていた。病院本館外来診察室の二階の自分の室で、私は学生の外来患者診察の指導をすべく、レントゲン・フィルムをより分けていた。目の前がぴかっと閃いた。まったく青天のへきれきであった。爆弾が玄関に落ちた! 私はすぐ伏せようとした。その時すでに窓はすぽんと破られ、猛烈な爆風が私の体をふわりと宙に吹き飛ばした。私は大きく目を見開いたまま飛ばされていった。窓硝子の破片が嵐にまかれた木の葉みたいにおそいかかる。切られるわいと見ているうちに、ちゃりちゃりと右半身が切られてしまった。右の眼の上と耳あたりが特別大傷らしく、生温かい血が噴いては頸(くび)へ流れ伝わる。痛くはない。目に見えぬ大きな拳骨が室中を暴れ回る。寝台も、椅子も、戸棚も、鉄兜も、靴も服もなにもかも叩き壊され、投げ飛ばされ、掻き回され、がらがらと音をたてて、床に転がされている私の身体の上に積み重なってくる。埃っぽい風がいきなり鼻の奥へ突っ込んできて、息がつまる。私は目をかっと見開いて、やはり窓を見ていた。外はみるみるうす暗くなってゆく。ぞうぞうと潮鳴のごとく、ごうごうと嵐のごとく空気はいちめんに騒ぎ回り、板切れ、着物、トタン屋根、いろんな物が灰色の空中をぐるぐる舞っている。あたりはやがてひんやりと野分(のわき)ふく秋の末のように、不思議な索莫さに閉ざされてきた。
歴史の中の8月9日
▼1173年 ピサの斜塔が着工されたという。
▼1483年 システィナ礼拝堂が開場したという。
▼1945年 未明、極東ソ連軍が満州で国境を越え侵攻する。
当時、満州には100万人を超える邦人がいたとされる。
軍関係、満鉄関係家族などごく一部を除き、多くの人が生死の境をさまようような
苦労をされたという。ソ連軍に追われ、中国の民衆に襲われ、
二度と日本の土を踏めなかった人も多い。
ソ連軍の捕虜となり、不法にシベリアに抑留され亡くなった軍人も多い。
68年前の現実。その後、長くつづいた不幸の始まり。
戦後、日本降伏の最大の要因は何かという論争があった。
原爆とソ連の対日参戦、どちらがポツダム宣言を受諾する主な要因になったか。
アメリカでは、原爆が戦争終結を早めたという論調が支配的だ。
アメリカの覇権に異を唱える人々の中には、ソ連参戦こそがと主張し、
書籍を出版するなど、さかんに活動する人もいた。
30年以上も昔、冷戦が世界の大きな枠組みだった時代の話だ。
▼1946年 第1回国民体育大会が開催される(宝塚市)。
▼1993年 細川護熙内閣が発足。新生党・社会党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合の連立協議に、統一会派を結成していた日本新党とさきがけが「神輿に乗る」かたちで、38年ぶりの誕生した非自民政権。(非共産でもある)
▼1999年 国旗国歌法が成立する。
▼2004年 関西電力美浜発電所で蒸気噴出事故。復水器系の配管の内側が、渦流によって減肉(建設当初10mm厚だったものが、1.4mmまで薄くなった)し、高温の蒸気が噴出、作業員5人が死亡。運転中の原発では初めての死亡事故とされている。
記念日など
◆長崎平和記念日・原爆慰霊祭
◆シンガポールの独立記念日(1965年マレーシアより分離独立)
◆形状記憶合金の日
◆ムーミンの日(作者トーベ・ヤンソンの誕生日であることから)
◆語呂合わせによる記念日
・野球の日
・駐車場の日
・はり・きゅう・マッサージの日
・美白の日
・薬草の日
・薬膳料理の日
・ハグの日
・パクチーの日
・ハンバーグの日
・ハーロックの日(キャプテンハーロック)
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