今年の8月6日午前8時15分は、移動中の車中だった。ハンドルを握りながらでは黙祷もできないので、原爆記念公園のあの場所がたくさんの人たちと、白い花で埋められている様子を想像しながら、平和公園の碑文の言葉を思う。
「過ちは 繰返しませぬから」
しかし、どうやって?
8月9日午前11時過ぎ、陸前高田からクルマで30分ほどの場所にある中上仮設住宅で防災無線のアナウンスを聞いた。今日が長崎市へ原爆が投下された日であること、たった1発の原子爆弾によって町が壊滅してしまったこと、そしてその時間に合わせてサイレンを鳴らすので黙祷をお願いしたいとのこと。
午前11時02分、山あいの集落にサイレンが鳴り響いた。
71年前のその日、テニアン米軍側の第一目標は現在の北九州市小倉北区だった。当時米軍はレーダーによる爆弾投下技術を確立していたものの、新型爆弾である原爆は爆撃手が目視で確認した上で投下するよう厳命されていた。
いかに巨大な爆撃機とはいえ、搭載した燃料には限りがある。小倉への原爆投下を諦めたB29「ボックスカー」は第二目標の長崎上空へ向かい、帰還のための燃料ぎりぎりの状態で爆撃を断行。その時刻が現在から71年前の8月9日午前11時02分だった。
厳命された目視限定の爆撃も、爆撃機の燃料の残量も、空の下にある人々の暮らしとは無関係のことだった。このことを私たちは忘れてはならない。
レーダー爆撃が禁止された中、雲に切れ間が現れることを願った機上の10人の搭乗員たち、減り続ける燃料を気にし続けていた彼ら、何万人もの人々を殺戮する爆弾投下という任務を達成できたことを喜んだ彼らもまた、私たちと変わらぬ人間であることを、私たちは忘れることなく思い起こし続けなければならない。
71年前のその日、その時と同じ11時02分、岩手県の山あいの仮設住宅に長いサイレンが鳴り響く。ふだんからテレビの音すらほとんど聞こえない仮設住宅は、いつも以上の沈黙につつまれた。
聞こえてくるのはミンミンゼミの声と水路を流れる水の音だけ。仮設住宅の隣の田んぼのイネの葉先が、あるかなきかの微風に揺らぐばかりだった。
田んぼから目を転じると、木造の仮設住宅の脇にはいまや使われることのない遊具。震災から早い時期に、廃校となった小学校のグラウンドに建設された仮設住宅には、夏休みの子どもたちの声も聞かれない。
仮設団地の敷地の真ん中辺りには、「みんなの舞台」という東京大学とマサチューセッツ工科大学の人たちが建てた木造のステージがある。
月に数回、健康のための体操イベントなどが行われる時や、舞台の近くに移動販売車が停車するほかは、人々の声が聞かれることはほとんどない。
静かな静かな仮設住宅、ボランティアが整備してくれた花壇にヒマワリが揺れる。
短い夏の陽光を浴びて咲き誇る花。すでに開花の時を過ぎた花。これから咲こうとしている花。
風にたくさんのヒマワリが揺れる。
揺れるヒマワリの花に、71年前、目にしたことのない夏の光景がオーバーラップしてこないだろうか。耳にはミンミンゼミの声。九州のこの時期の午前なら、ちょうどクマゼミのけたたましい声が鳴き止んで、ミンミンゼミやアブラゼミの声が、暑い夏の空気に満ちていたはずだ。
セミの声の向こうから言葉が聞こえる。
「過ちは 繰返しませぬから」
みんながこころの中で確かに握りしめているはずなのに、間違いなくそう念じているはずなのに、心もとなく感じられてしまう声。
ゆれるヒマワリの花の向こうにあるのは仮設住宅。建てられて5年になる仮設住宅。
遠い夏の日。遠いナガサキ。遠いヒロシマ。
それでも遠くない感覚。遠く感じることのできない夏の時間。
繰り返さぬための一歩は、ナガサキやヒロシマにだけあるのではない。東北に、阪神に、新潟に、北関東に伊豆大島に、熊本や大分に、日本中にあるのだということ。
ヒマワリの花が揺れている。
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