沖縄戦を学ぶ休日(2)

orangeoor18

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那覇空港から車で20分弱の高台にある海軍壕公園。公園の頂上にあるビジターセンター内の資料館、そして当時から残る旧海軍司令部壕を見学します。

前回のページでは、建物1階の展示室に触れました。沖縄戦がどれほど凄まじい戦闘であったのか、各地ではどんな悲惨な出来事が起こっていたのか。について数々の展示物を通じて伝えています。

 沖縄戦を学ぶ休日(1) by orangeoor18
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展示室の隣には地下壕へと続く階段があります。

この壕はどのような方法で作り上げられたものなのか。壕の中ではどんな生活をして、何が起こったのだろうか。

訪れる前、上記のようなことを事前に調べていましたが、想像していたよりもずっと過酷な環境でした。

地下壕へ

階段の手前には円形の部屋があり、ここで線香を手向けて戦没者のご冥福を祈ります。

壁には工具が展示されているのですが、近づいてみると

これは地下壕をつくった際に使われた「つるはし」なのだそうです。1944年の8月から12月の5ヶ月間で工事が行われましたが、重機のようなものはなく、これらの工具を使って3千人の海軍設営隊による人力で掘り進められました。

設営当時は電気が通っておらず、換気もまともに行われていなかったという状況。掘った際に出た土についても、棒と綱で作られた「もっこ」を使って運び出されたのだそうです。

周辺にもいくつか地下壕がつくられましたが、機密情報を守る目的で海軍のみで掘ったこの司令部壕とは異なり、現地の人で構成された設営隊によって工事が進められました。

階段の入口。

過去には地下壕から階段を上って資料室という見学ルートになっていたそうですが、今は階段を降りて最後に地下壕を見学するという流れです。

深さは約20メートルあり、当然ですが、壕内に音楽などはなく無音。自分の足音と送風機の音だけが響いている状態です。100段以上真っ直ぐ続いていく階段を1歩ずつ降りていくたびに緊張が増していきます。

壕内は全長450メートルありますが、公開されているのは300メートルの道と各部屋。上の写真のように分岐した道がいくつかあって各部屋が設けられています。

最も細い道は大人1人しか通れず、ギリギリ人とすれ違えるほどの幅。写真左の壁面には工具で削られた跡が残っています。

壕内で最も広い幅の道。兵士が行き来する壕の中心だったと思われます。大人2人が並んで歩ける幅は確保されています。

当初は司令部壕として海軍の幹部が主な収容者でしたが、戦闘が進んでいくにつれ、壕内に逃げ込んだ兵士も対象となり、最終的には4千人がここで休息を取っていたそうです。

当時の様子を伝える絵が展示されています。この通路に何十人、何百人もの人が横になって睡眠を取っていたとは・・・。想像し難い光景です。

日が当たらないとはいえ、沖縄戦が繰り広げられていた時期(季節としては春から初夏)や沖縄の気候を踏まえると、蒸し暑さ、壕内の臭い、不十分な衛生環境。寝泊まりすることも難しい状況だったことがわかります。

見学する順路として、最初に通る部屋がこの作戦室。

幹部らが作戦を練るために使われたとして、この場含めていくつかの重要な部屋の壁は漆喰、コンクリートで固められています。

全国にもいくつか残されている地下壕の中には、巨大な作戦室が作られるケースもありますが、ここは7.5平米。天井も高くないので、体感的に狭く感じますが、机を置いて数名が入って話し合うには十分な広さです。

次に向かったのは、他の部屋とは少し暗い明かりで室内が照らされている幕僚室。
司令官の補佐として、小禄地区の防衛計画を立てるといった実務が行われていた部屋にあたります。

こちらも同じく漆喰で固められていて、作戦室よりも少し広く10平米です。

奥に進むと壁面に無数の穴が空いていることがわかります。穴の大きさは様々で何か飛び散ったように広範囲に及んでいます。

壁の穴は、激しい戦闘によって追い込まれた大田司令官とともに自決した幕僚がその際に使った手榴弾の破片とみられています。

壕内にいて何度も感じたことですが、出来事を明確に示す実物を目の前にしながらも、ここで起きたことが信じられない。という不思議な感覚。

見学をしながら、かなり動揺していたと思います。

本来は史料に向き合って歴史を学ぶといったことをしたかったのですが、それどころではなく、自分でもよくわからない気持ちを落ち着かせようとしていました。

他の部屋は次の回に分けたいと思います。

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