昨年に引き続き、3度目の東北訪問です。これまでと違い、初の夏旅行。
日が長い時期だからこそ、時間をたっぷり取って現地を視察できます。
今回は福島県から北上し、宮城県に向かうルートです。前回のツアーでは訪れることができなかった沿岸の市町を中心に、各地の復興状況をレポートしていきます。
旅の目的
・東北の魅力を伝える
・復興とは何か?を旅を通して考える
・福島県浜通り、宮城県沿岸部の復興状況を肌で知る
・昨年に引き続き、津波被害にあった地域を訪れて、防災や減災について学ぶ
・復興で頑張っている人の話を直接聞く
参加者
自分、妻 計2名
日程
2018年7月28日(土)~2018年7月30日(月)
1日目
JR郡山駅に到着後、レンタカーを借りるまで少し時間があったので駅を散策しました。
夏祭りが近いということで駅の構内や駅前広場では提灯が飾られ、にぎやかな印象を受けましたが、それよりも印象に残っているのがこの線量計です。
この後も福島県の各地を回ったのですが、多くの場所に設置されていました。県内には約3,000台設置されており、その内の2,400台は2020年度末までに撤去される方針です。
レンタカーを借り、まずはじめに訪れたのがいわき市にある「いわきFCパーク」。
元々は電子部品の製造工場でしたが、震災の影響で撤退となり、その跡地に建てられました。
地元いわき市で活動するサッカーチーム「いわきFC」のクラブハウスです。
将来Jリーグ参入を目指しており、現在は東北の社会人リーグに所属しています。
「日本のフィジカルスタンダードを変える」という合言葉のもと、画期的な取り組みが話題になり、同時にその活動拠点となるクラブハウス(練習場)も注目されています。
訪れる前に下調べをしながらイメージを膨らませていたのですが、想像以上に素晴らしい施設でした。おそらく日本で最先端だと思います。
個人の趣味でこれまでいくつかのクラブハウスを見たことがありますが、
日本ではあくまでも選手が活動するための施設であり、それ以外は何もない(観客は練習を観るだけ)ことが一般的です。
しかし、ここは商業施設併設型のクラブハウス。レストランやカフェ、スポーツショップ、外車販売店がテナントに入っており、この日もたくさんの人でにぎわっていました。
また、英会話教室や多目的スペースもあり、地域住民の交流の場としても利用されています。
クラブハウスと同様、隣接している物流倉庫も存在感抜群です。
スポーツブランド「アンダーアーマー」のほとんどの商品はここから全国に発送されています。いわきFCの選手もチーム活動以外の時間はこの倉庫で働いているとのことです。
いわき市から北上し、双葉郡楢葉町へ向かいました。
楢葉町の語り部ガイドの方との待ち合わせ場所は、道の駅ならは。
震災前までは道の駅として利用されていた写真の建物ですが、現在は警察の臨時庁舎になっています。
今も震災の影響を受け続けているこの道の駅ですが、来年には一部営業が再開される見込みです。(臨時庁舎は使用期間が終了し、富岡町の本庁舎に戻る)
温泉施設もある珍しい道の駅が再開されることは喜ばしいですが、ガイドの方が仰っていたように「警察がここに入ってくれたおかげでまちの治安は保たれるようになった」という声があることも知れました。
次に向かったのが、ちょうどこの日から再開したJビレッジ。
スポーツに取り組む人が全国各地から訪れるような日本屈指のトレーニングセンターですが、原発事故直後から休止を余儀なくされ、グラウンドや宿泊施設などが事故の対応拠点としてこれまで使用されてきました。
その後は楢葉町の復興状況を確認するため、まちを回りました。
楢葉町はコンパクトタウン(スーパー、病院、交流館など生活サービスをまちの中心に集める)を推進しており、さまざまな施設がオープン。商業施設にはたくさんの車が停まっているほど賑わっていました。
また中心部の近くには東電の社宅もあります。社員の方たちは草刈り、掃除など住民に困ったことがあれば協力してくれるそうで、ガイドの方も助かっていると仰っていました。
下の写真は津波の被害が大きかった河口近くの地域を見渡すことができる「天神岬スポーツ公園」。震災で壊れてしまった遊具はすでに復旧が完了しており、家族そろって遊ぶことができる大きな公園です。
楢葉町では津波で13名の方が亡くなりました。園内には一人ひとりの植樹場所が設けられたくさんの樹木が植えられています。
中心部では復興が進んでいる印象を受けましたが、郊外に進むにつれまちの風景が変わってきます。
比較的、汚染の度合いは低いのですが土のうが未だ残っていたり、空き家も多くありました。
避難指示が解除されてから3年ほど経ちますが、帰還率は全体の5割程度なのだそうです。郊外の住民や若者といった人たちの帰還が進んでないという厳しい現実がある一方で、最近は県外からの移住者も少しずつ増えているそうです。
90分間の語り部を振り返ってみて、印象に残っているのが、ガイドの方が仰っていた「目に見えないものだからね・・・」という言葉です。放射線という目に見えないものだからこそ、人それぞれで感じ方に差があります。不安はないよという方もいれば、安心できないという方もいると思います。
そして、まちのほとんどの家を見ても、損壊なくそのまま残されています。(津波の被害を受けた地域もあります)外から見れませんが、すぐにでも住めるのではないかという家もありました。にもかかわらず、住みたくても住めなかったという状況はこれまで訪れてきた津波被害を受けた地域とは異なりました。
楢葉町から宿泊先のいわき市に向かう途中、浜沿いにある道の駅よつくら港。
震災により建物は全壊してしまったのですが、2012年に再オープンしました。
道の駅としてだけでじゃなく交流の拠点としても活用されているそうで、到着した時には終わってしまっていたのですが、この日もイベントが行われていました。
交流館と情報館で建物が2つに分かれており、交流館の2階では海を見ながら食事をいただけるテラス席もあります。
いわき市の海岸沿いを南に進み少し内陸に入ったところにあるかまぼこ工場と併設された「かねまん本舗」というお店があります。
いわきを代表する老舗の練り物屋さんで名物のシーフードケーキやかまぼこなど多数の商品を取り揃えています。
お店の中では飲食スペースもあるので、お茶を飲みながらおやつとして練り物を食べることもできます。
商品、その製造に使用する水の放射線物質を測定し、お店のホームページで公開していたり、合成着色料や甘味料などの添加物を不使用とするなど食の安全にこだわっています。
この日、最後に向かったのは市内の南に位置する「いわき・ら・ら・ミュウ」。
1階は鮮魚市場やレストランなど、2階は震災関連の資料が多数展示されています。
展示スペースでは「震災」「津波」「記憶」「復興」などさまざまなテーマに沿って、いわきの震災から今まで歩んできた道のりをパネルや映像で伝えています。
いわきでは市内127か所の避難所に19,813人の方々が避難しました。その避難所で実際に使われた備品も展示されており、生活の様子を実際の目で確かめることができます。
いわき・ら・ら・ミュウを後にして、ホテルに到着です。
宿泊したのはホテル花天。地下にはLED照射による水耕栽培で野菜(レタス、ルッコラ、ホウレンソウなど)が育てられています。もともとはプールだった場所を改装したそうです。
栽培施設はロビーからも見える位置にあり、とれたての野菜は翌朝に館内で販売していました。もちろん夕食、朝食でも食べられます。
2日目
ホテルから出発し、常磐道を使って福島県の北東部に位置する新地町に向かいます。
下の写真はサービスエリアのトイレに設置されていたものです。9つのポイントに放射線量を計測し、このように常時公開されています。
常磐道を走行中も、道のいたるところに線量数値を公開している案内板が掲げられています。
広野ICから南相馬ICに向かいます。
車は窓を閉め切って内気循環をしながら走行し、持参した線量計を何度かチェックしたのですが、途中までは大きく変化せず。
しかし、常磐富岡ICを少し越えてから急激に数値が上がりました。またその区間では道路の横に汚染土が入った土のうも置かれていました。
新地町に到着し、まず向かったのが新地町役場。4階の展望ロビーは土日も見学する可能で震災関連の資料を見たり、津波被害を受けた釣師地区の町の様子を望むことができます。
新地町はこの釣師地区を中心に町全体面積の20%が浸水。海近くのJR新地駅も全壊してしまいました。
現在駅は再開し、海沿いでは防災緑地を整備中。緑地内には津波防災機能を備えるだけでなく、公園そして震災の記憶を後世に伝える場としても計画されています。
そのひとつとして復興のシンボルとして掲げられているのが、復興フラッグ。
町に駆けつけた自衛隊員が瓦礫の中から日の丸旗を見つけて、それを掲げたことが始まりとされています。
隊員の想いから掲げられた希望の旗をボランティアの方々が引き継いだのですが、その中心になっていたのが、震災前からこの町に訪れていた多くのバイク愛好家たちでした。
このフラッグが町の住民に勇気を与え、のちに愛好家ネットワークにより全国の人々から応援の声が集まり、これまで存続してきたのだそうです。
そして、現在4代目として役場の敷地内に設置されており、ゆくゆくは来年完成する防災緑地に掲げられます。
新地町を出て、県境を通過し宮城県の山元町に向かいました。
山元町は他の市町村と異なり、観光協会がありません。
それも影響してか、語り部ガイドは他よりも遅れ、情報発信することも大変苦労されたそうです。
今回のツアーで現地情報を知り、伝えることで少しでも復興に役立てればと思い、行程に組み込みました。
語り部ガイドの方とは山元町役場で待ち合わせ。まずは、町内の北に位置する新山下駅周辺を視察しました。
山元町は町全域の37.2%が浸水。全壊した家屋は2217棟(うち流失は1013棟)と甚大な被害を受けました。町にあるJRの2駅もともに津波で崩壊しており、現在は高架化された新たな駅で再開されています。
旧駅舎、線路があった場所は盛り土によって高くされた県道をつくるため工事が行われています。
旧山下駅から南下し、海沿いの道を通ります。かさ上げ工事や農場整備が行われており、車通りも少ない場所です。先ほどと同様、この場所には家を建てられないため、農地や家畜所ができるそうです。
そこからさらに南に行き旧坂元駅に近い場所で見えてきたのは、きれいに整備された畑とその入口に置かれている慰霊碑でした。
写真だとわかりづらいのですが、ここにはかつて自動車学校がありました。残念ながら教習生26名、職員11名の方々が亡くなっています。震災があった3月はちょうど免許学校の一番忙しい時期だったと思います。
地震が発生し、送迎バスは学校に長い間待機していたそうです。
ガイドの方が仰っていたことです。
「地震後の館内、屋外よりもラジオを聴ける車やバスがもっとも津波情報を得やすい状況だったはず。」
「ここは県道よりも海側なので、県道が完成すると今よりももっと目に触れられる機会がなくなってしまう。」
「残されたのは慰霊碑だけ。自分たちが語り継がないと風化されてしまう。」
学校は海岸から1キロも満たない場所にあるため、一刻も早く生徒をバスに乗せて高台あるいはそれぞれの家に帰すことが最善と考えられますが、それが実行されなかったことが悔やまれます。
自動車学校からさらに南下し、次に向かったのは旧中浜小学校です。
この小学校も海沿いにありますが、当時学校にいた生徒全員を含む、職員、近くの住民など90名が津波から生還できました。
地震後、学校が受け取った情報では津波到達まであと10分しかないという状況でした。
震災前に定められていたマニュアルでは高台にある坂元中学校に避難することになっていましたが、歩いて20分の距離にあります。マニュアル通りにいけば、避難中に津波に遭遇してしまう可能性大でした。
そんな中で学校が考えたのは、校舎の最上部にある屋根裏倉庫に避難するという選択。結果的に、この部分だけが津波の衝撃を受けずに済んだのです。
ただガイドの方いわく、その倉庫は学校の授業等使われた備品等を収納するための場所であり、災害時の備蓄品などはなかったそうです。水、食料がない上、まともな防寒具もない中で一晩を明かし、翌朝ヘリコプターでみな救助されました。
学校にかかわらず、多くの人はできるだけ高台に逃げるという選択を考える中、校舎に留まるというのはとても勇気のいる判断だったと思います。
マニュアルを頭に置きつつも、その時、その状況で最善な避難方法を考えられること。そのために事前に避難をイメージしておくことや、生活している場所をよく知っておくことが重要だと、この話を聞いて感じました。
話を聞いた後は実際に校舎を見てまわりました。1階部分は職員室や校長室などがあったそうなのですが、説明を受けるとわかるものの、ほとんど元々何があったのかわからないほどの状況です。
現在は校舎の中には入れないのですが、遺構として残し将来的には屋根裏倉庫にも見学にできるようになるとのことです。
ちなみに、この日は台風の影響により海が荒れ、一時は高波に警戒するよう発表されていました。
この学校を見学する際に車を敷地内に停めたのですが、その際ガイドの方が
「前向き駐車ではなく車は後ろ向きで停めてほしい」
と言いました。
言われた瞬間はなぜなのかよくわかっていなかったのですが、次の言葉でその意味がわかりました。
「すぐに逃げられるように」
ガイドの方のように危機意識を常に持っておくことが、万一の震災時にも大事なのだと改めて思えた一言でした。
山元町役場に戻り最後に向かったのは敷地内にある、ふるさと伝承館。
本館も見ておくべき施設なのですが、それよりもガイドさんがぜひ見てほしいと言っていたのが本館の入り口横に設けられている、被災写真返却会場です。
ガイドさんいわく「ここはメディアにもほとんど紹介されていない場所」なのだそうです。
震災後、ガレキに埋もれていた写真を回収し、それを一枚ずつ元通りにして保管。家族写真や子供の写真などさまざまな人の思い出の品が並べられているのですが、
ここにあるということは引き取り手が見つかっていない写真ということです。
写真は人生の記録であり、その人が生きた証でもあります。
一人でも多くの人にこの活動を知ってもらい、一枚でも多く引き取り手が見つかってほしいと思います。
ガイドさんとお別れし、隣町の亘理町へ。昼食をとるため荒浜にぎわい回廊商店街に訪れました。
亘理町も沿岸部を中心に津波で大きな被害を受けました。
まちの賑わいを再生させるため、さまざまなジャンルのお店が入っており海の幸をいただくことができます。
亘理の名物、はらこめしやほっき貝は旬が秋冬のため今回お目にかかれなかったことは残念ですが、ヒラメやカニをぜいたくに使った海鮮料理に大満足でした。
続いて訪れたのが、亘理アセロラ園です。亘理ではいちごも有名ですが、実は東日本で唯一アセロラを栽培している地でもあるのです。
普段食べているような海外や沖縄産の甘味系アセロラに対し、こちらのアセロラは酸味系と言われています。
特長は豊富なビタミンCです。その量はなんと、レモンの34倍。
2個食べれば、1日必要なビタミンCを摂取できるとのことです。
農家の方に実際伺ったところ、生でも食べますがアセロラを使ったお酢やジャム、ドレッシングをメインに販売しているそうです。
こちらも震災の影響を受けています。ビニールハウスが破損し、アセロラもだめになってしまいましたが、復旧し今では全国各地から注文があるそうです。
ただアセロラを育てているのはこちらの1軒のみなので、まちをあげて複数軒で果物を育てているところよりは知られる機会が少ないとのことです。
このアセロラを応援すべくジャムを購入させていただきました。
アセロラと砂糖以外は何も使っていないので安心安全。酸味と甘さ加減がちょうどよくおすすめです。
亘理町から北上し、岩沼市の千年希望の丘に到着。
まちの約半分が浸水被害を受けましたが、復興のシンボルとして開園されました。
沿岸沿いに6箇所の公園に分かれているのですが、今回訪れたのは最も北にある相野釜公園です。
ここには慰霊碑、交流センター、丘があり、それぞれを徒歩で回ることができます。
震災のガレキや津波の堆積物が土台に使われている丘は震災伝承の意味も込められていますが、今後の防災にも役立てられる機能としても考えられています。
丘の頂上にあるベンチには防災用品が収納されていたり、非常時に電源となるソーラー照明もあったりと、災害時には一時避難場所としても使われています。
公園の駐車場付近には津波の爪痕が残るまちの様子を震災前と比べながら見ることができます。きれいに整備されている公園とは対照的にここだけが時が止まっているような印象です。
岩沼市から今回宿泊する七ヶ浜町に移動。
宿泊するシチノリゾートに隣接している商業施設が「七ヶ浜うみの駅」です。
海鮮レストランだけでなく鮮魚、地元の加工品など取り揃えた販売所もあります。
そして、そのシチノリゾートはカフェとホテルが併設しているリゾート施設。
すぐそばにある海を部屋から眺めることができ、屋上には津波に備えた避難デッキがあります。
3日目
朝食を食べるために塩釜水産物仲卸市場に向かいました。魚市場の建物は震災の被害を受けましたがこちらの建物への影響はなかったそうで、三陸の中で比較的早くに再開された港です。
115ものお店が集まり、場内は活気であふれています。魚介の鮮度はもちろん、お店の方たちとのコミュニケーションも魅力の一つです。
一度体験してみたかったマイ海鮮丼。市場内のお店で新鮮なネタを少量ずつ購入し、食堂にあるごはんとみそ汁セットに自分で盛り付けます。
ネタはあらかじめ海鮮丼用にパックになっているものもあれば、その場でさばいてくれるお店などさまざまです。
プリプリの赤エビや肉厚のホタテ、そして日本有数の水揚げ量を誇るマグロなんかがおすすめです!
塩釜を後にし、再度七ヶ浜を訪問。ガイドの方と合流し、まちを見学しました。
七ヶ浜町は町全域の36.4%が浸水。損壊した家屋は3,929世帯にものぼります。津波の高さは最大12.1m。高台にある避難所にも到達し、ガレキや車が建物に流れ込みました。
当時の被災状況は写真には残されていますが、すでに住宅、道路などの整備が進んでおり、津波の爪痕が残る場所は少なくなってきています。
また、七ヶ浜は人口が2万人弱、東北で最も面積が小さい町ですが、ある魅力を知りました。
キーワードは「3」。
日本三景の松島、日本三大避暑地、日本で三番目に開設された歴史ある海水浴場。これらを兼ねそろえた自然豊かな観光地なのです。
ガイドさんも震災関連だけでなく、こういった町の魅力スポットも案内していただきました。
最後に向かったのが、まちの高台にある七ヶ浜国際村という今年で25周年を迎える文化施設です。
海が見えるコンサートホールや、水に浮かぶ屋外劇場などとても珍しいつくり。ここは震災時に避難所として使用されました。
今回は特別にホールと同様に海を眺めることができるテラスを見学させていただきました。そこから見える空き地は観光地としてさらに魅力を高めるべく、人が集まる施設に活用されるかもしれないとのことです。
七ヶ浜のガイド終了後、仙台駅に向かいレンタカーを返却。
無事、旅を終えることができました。
旅を終えて
今回も東北の沿岸部を回らせていただきました。
昨年は比較的大きな市町でしたが、今回訪れたまちはまた違った良さがあり
震災被害の様子や復興状況でさまざまな発見がありました。
災害による被害の大きさを表す数字は浸水面積、損壊家屋、死者、怪我人の数などさまざまです。その中でも特に目に留まるのは、やはり死者数だと思います。
亡くなった方の数が多いほど情報の量も多く、全国の人に伝わる可能性が高まりますが、逆に亡くなった方がいるにもかかわらず、少ないと情報量も減ってしまいます。
訪れた町は大きな市町と比べて津波浸水率(町全域のうち浸水した面積の割合)が高く、多くの家が損壊しているのですが、情報の量は劣ってしまいます。(恥ずかしながら、私も訪れる前は知らない情報ばかりでした。)
それぞれのまちでどんなことが起こっていたのか、震災から得られた教訓、復興を目指す人の活動など知るべきことがまだまだあるのではないか。と思えたツアーでした。
また、初めて訪れた福島県の沿岸部では無傷の空き家や汚染土嚢など、原発事故の影響が未だに受けている場所もありましたが、復興に向かって着実に進んでいる場所も見ることができました。
今回の訪れた地域では震災前のまちに戻すだけではなく、さらに進化させたまちにするための取り組みや施設が印象的でした。
復興の捉え方はさまざまですが、このように過去と向き合いながらも、元に戻すという意識ではなく、新たにつくるという意識とその一つ一つの取り組みが復興には重要なことだと思いました。
旅費
<交通費>
・新幹線
往路 三島→郡山(自由席)
11,350円×2=22,700円
復路 仙台→三島(自由席、仙台→東京区間は指定席※はやぶさ)
14,750円×2=29,500円
計 52,200円
・レンタカー(7/28 10:30~7/30 14:00)
レンタル料 21,276円
ガソリン代 4,244円
・有料道路
1日目:郡山東IC→いわき湯本IC(磐越自動車道→常磐自動車道)1,370円
1日目:いわき湯本IC→広野IC(常磐自動車道)760円
2日目:いわき中央IC→新地IC(常磐自動車道)1,950円
2日目:名取IC→仙台港北IC(仙台東部道路)320円
※全てETC料金
計 4,400円
<宿泊代>
1泊目 月へと照らす海の道 ホテル花天(夕・朝食あり)
18,360円×2名=36,720円
2泊目 SHICHI NO RESORT(食事なし)
7,500円×2名=15,000円
計 51,720円
<食事代>
・1日目
昼: 2,360円(いわきFCパーク)
・2日目
昼: 2,800円(荒浜にぎわい回廊商店街)
夕: 6,000円(SHICHI NO CAFE & PIZZA アクアコース)
・3日目
朝: 3,600円(塩竈水産物仲卸市場)
計 14,760円
<その他>
・楢葉町 ならはふるさと案内 3,600円(ガイド料3,000円、参加費300円×2名)
・やまもと語りべの会 5,000円(乗用車の場合)
・かだっぺ七ヶ浜 被災地ガイド 3,500円
・お土産代等 20,000円
計 32,100円
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■合計
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交通費 82,120円
宿泊代 51,720円
食事代 14,760円
その他 32,100円
-------------------------180,700円
最終更新: