先生はずっと一本のフックを求めてきた。復興公営住宅の集会所の畳の部屋に、ほんの小さくて目立たないものでいいからフックを付けてほしいと願ってきた。なぜなら先生はお茶の先生だから。市内のあちこちの仮設住宅から集まってきた公営住宅だからこそ、お茶を通してお作法を教えたいと願ってきたから。
お茶の教室を開きたいという先生の願いは、ささやかなかたちながらも叶った。多い時には10数人、少ないときでも5人前後の人たちが、週に1回開かれる集会所での茶道教室に生徒として参加するようになった。
公営住宅の集会所だから、和室といっても床の間などない。折りたたみ式のテーブルの足をたたんだ状態で何枚か重ねたところに色紙を立てて、花を生け、床に見立ててきた。今年最初の教室「初釜」のときだってそうだった。生徒のひとりが寒椿を持ってきてくれたのを、心からよろこんでいた。でも、心の奥にはもうひとつ、どうしても掛け軸をかざりたいという思いがあった。椿を手折って持ってきてくれたり、山奥から湧き水をとってきてくれたり、生徒たちが教室をもり立ててくれるからこそ、どうしても掛け軸をかざり、お茶のもっと深いところにふれてもらいたい。
一本のフックさえつけてもらえたら。
床の間がほしいなんてことではない。ほんの一本のフックさえあれば、掛け軸をかざることができる。それだけの思いだった。
しかし公営住宅で、しかもオープンしてまだ1年にも満たない集会所だから、釘一本、フックひとつを壁や天井に打つことすら許されなかった。
それがついに、1月17日のお稽古の日に間に合わせるようにして、天井の壁際に一本のフックをつけてもらえたのだ。気にしなければ気がつかないくらいの小さなフック一本ではあったが、そこに一幅の軸物を掛けると空間そのものが様変わりした。空気までが引き締まるようだった。
掛竿で紐をフックに掛けて、するすると軸を下ろしていく先生の表情、そして掛けた軸を二三歩離れて眺めながら、小さく「うん、いいね」とつぶやいた声には、隠しきれないよろこびが溢れていた。
一幅の軸が空気まで変えたことは十二分に感じ取れたが、いかんせん何と書かれているのかが分からない。素直に「何と読むのか教えて下さい」と尋ねると、
「無事是貴人」
と読みます。こちらには紫野と書いてありますから、京都大徳寺の関山というお坊さんの墨跡なのだと教えてくれた。お茶席の問答さながらの言葉に続いて先生は、
これはね、震災で何も彼も流されてしまった後、仙台に行ったときに買い求めてきたものです。無事是貴人。震災ではたくさんの方が亡くなりましたからね、無事であるということこそが貴いということなので、どうしてもこれはという気持ちになって手に入れたんです。その掛け軸を今日、こうしてここにかざることができたわけです。
買ったはいいものの、こちらに帰ってきてからは、どうか誰もいないときに配達されますようにって祈るような気持ちでね。だって、息子がいるときに荷物が届いたら、(震災後のこんなときに)なんでそんなものを買ったんだって叱られてしまうでしょう。幸いわたし一人のときに配達になったので、すぐに荷物のなかにしまい込んだんですよ。
と、無事是貴人にまつわる逸話も話していただいた。
無事是貴人というのは臨済録にある言葉とのこと。仏教の真理は三歳の子どもでも分かるが、その教えを行うことは八十歳でも難しいとよく言われる。無事是貴人という言葉もまた、まさにそうだろう。
それはまた、
茶は服のよきように点て
炭は湯の沸くように置き
花は野にあるように
夏は涼しく冬暖かに
刻限は早めに
降らずとも傘の用意
相客に心せよ
利休七則
利休七則にも通じるところがあるように思う。
ところがネットでは無事是貴人について、「無事とは単純な平穏無事ということではなく、他に求めることのない仏教的な平穏の境地」みたいな解説が出回っている。そんなものはクソクラエである。言葉が下品に過ぎるというのなら、半銭にも値せずと言い換えてもいい。
臨済録にある無事是貴人はそういう意味かもしれない。しかし、あの大震災の後、「無事」という言葉に、「当たり前のことのありがたさ」を見出した先生の方がずっと貴いと私は思う。
先生はときどき「お作法の基本を学んでもらいたいから」と、お茶の教室を開いた理由を説明するが、愚考するに、人と人がつながる場をつくることも大きな目的なのではないか。ばらばらの地域から住人が集まっている公営住宅だからこそ、人が知り合う機会をお茶を通して設けたいと思っているのではないか。ばらばらになった人たちが、もういちどコミュニティを再建していく、その前提としての無事是貴人。
震災を経験したからこそのこころの動きが、集会所の畳の部屋に掛けられた「無事是貴人」に凝縮している。
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