生きているということ

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ここに写っているの、たぶん私なのよ。

陸前高田のコミュニティホールのエントランスで行われた津波写真展で、避難所となった体育館の写真を指差しながらAさんは話し始めた。数えきれないほどの人がいる体育館の写真の片隅。Aさんとはとても判らない小さな人影を指差しながら。

体育館2階のギャラリーっていうのかしら、通路の隅の方の1畳半くらいのスペースが私たち夫婦2人の避難場所だったの。とにかく狭いから寝るときは夫と逆さま。枕を並べるより頭と足を逆にした方が場所をとらないから。それに通路だから人が通るわけ。1畳半の場所で小さく小さく小さくなって避難生活していました。それでも、屋根があるだけ、寝る場所があるだけでありがたかったのよ。

当時の写真を目にしたことがきっかけになったのだろう。Aさんは問わず語りに6年前のことを話して聞かせてくれた。避難所の埃っぽさ、空気の悪さ、臭い、騒音、食事…。そして話は津波から逃れた時のことに及んだ。

津波があまりにも大きかったから、地震のことを話す人はあまりいないかもしれないけれど、地震そのものも大変だったのよ。経験したことのないものすごい揺れ。大きくて長い長い揺れ。それが繰り返し来るの。家の中にはいられなくて、揺れがおさまった後、夫と近くの跨線橋の上に逃げました。かさ上げされている土地と同じくらいの高さだから、15メートルくらいの高さがあると思います。

逃げたものの、どうしていいのか分からなくて呆然としているうち、「津波が来るぞ」って声が聞こえてきた。逃げなければと、夫は自宅まで車を取りに戻ったんです。そうこうするうち、高田の松原の向こうに津波が迫ってくるのが見えた。真っ黒い巨大な壁が土埃を上げて松原を越えて迫ってきた。

高台まで走っても間に合わない。でもとにかく逃げなければと、見ると車が1台止まっていた。とっさに駆け寄って乗せてもらった。夫も自宅の車を諦めてちょうどそこに来たので乗せてもらった。乗せてもらってそこからまっすぐ、跨線橋から栃ヶ沢の坂に向かって、坂の上の方で下ろしてもらった。私たちの後ろにはもうほかに車はありませんでした。この坂道を上って助かったのは私たちが最後でした。

本当に九死に一生だったの。その時車に乗せてもらった人とは会うたびに、「おかげで命拾いしました」と感謝し合うのよ。だって、その人も、私たちを乗せていなければ栃ヶ沢の坂は上らず、川沿いの道を通って竹駒の方に行くつもりだったそうだから。

Aさんは毎朝元気にラジオ体操に参加されている。顔を合わせると明るく、そして丁寧に挨拶してくれる。災害公営住宅のコミュニティづくりや、以前暮らしていた仮設住宅に残る人たちのことを気に掛けている様子が交わす言葉の端々から感じられる。控えめだけど、コミュニティのまとめ役のひとりでもある。Aさんから、震災当時のことを聞いたのは初めてだった。まさかそんな経験をされていたとは。

避難所から仮設住宅へ、仮設住宅から公営住宅など本設の住宅へ、6年の時を過ごして来た人たちの1人ひとりに、生の歴史がある。いのちの物語がある。生きてあることの尊さを教えられる。

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