カンボジアをはじめ東南アジア、政情不安な中東へカメラを持って市民の取材を続ける。国内では3.11以降、陸前高田市をはじめ東北の都市をまわり、高校生を伴うツアーも継続中だ。国内外問わず苦しんでいる人がいたら耳を傾ける。そんなジャーナリズムの原点を想起させてくれるフォトジャーナリスト安田菜津紀さん。言語化できないことこそ伝えていきたい、と語る彼女に、現在の活動に取り組むきっかけとなった原体験とは?をお聞きしてみました。
安田 菜津紀(やすだ なつき)
1987年神奈川県生まれ。studio AFTERMODE所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。2012年、「HIVと共に生まれる -ウガンダのエイズ孤児たち-」で第8回名取洋之助写真賞受賞。写真絵本に『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)、著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。上智大学卒。現在、J-WAVE『JAM THE WORLD』水曜日ナビゲーター、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。
言語化できない感性や感情を共有したい。
――個人的に興味があって安田さんの幼少期についてとてもお聞きしたいのですが、今のお仕事のきっかけになる経験がありました?
幼少期の特徴的なことは、母による絵本の読み聞かせ。とても熱心で一日10冊平均で読んでくれて月に300冊。私だけでなく妹にも同じように読んでいました。この影響はかなり大きかったです。母は結婚するまで写真の仕事をしていました。写真の専門学校を卒業後、広告の写真を撮影していたので、私とは方向性は違いますけれど。何処へ行くのもカメラを持って構えていた記憶があります。腰を落として姿勢を低くして写真を撮る人でしたので、子どもよりも絶対視線を上げなかった。この仕事を始めて「子どもより視線が低いね」と人から指摘されて、初めてこれは母の影響だと気づきました。
――お母様による絵本と写真。今の仕事に結びついている根幹ですね。
横須賀市出身の母は時代的にやんちゃな環境もあったので「我が子はヤンキーにしない」という彼女なりの目標があったのかもしれません。心が荒まないよう、内面を磨くことに重きを置いていたように思います。正義感が強い母は、例えば戦争を伝える本や、人の生死を語る絵本を好んでいました。佐野洋子さんの絵本「100万回生きたねこ」は、なぜこんな悲しいお話を読まなくてはならないの?と子どもの私は拒否したのですが何度も借りてきては読んでくれました。それは母なりに、目をそらしてはいけないからこその選書でした。絵本を通して感性を頂き、今の姿勢を作ってくれた。今になってわかり感謝しています。
――読んできた絵本が今に影響を与えている。安田さんの紡ぎだす言葉はセンスがいいだけでなく、真を突いているから胸に響きます。
どちらかというと言語化できずにいろんな感性や感情の揺れ動きを共有するのが絵本だと思います。なので、絵本を読んだから言葉がスラスラ出てくるようになったわけではないのです。私は国語がとても苦手で、英語の偏差値の半分くらいしか取れなかった(笑)…でも、それでよかったと思っています。横須賀には馬と触れ合える牧場があって、そこによく連れて行ってもらいました。馬は人の感情の揺れを感じ取る洞察力があります。言葉を使わなくても、命と命同士はつながれるという実感を得ました。ですから国語ができなくても、言葉にしないといけない…という切迫感はあまりなかったんです。
――英語がお得意になったのは高校時代にカンボジアへ短期留学をされたからですか?
高校2年生の時に10日間、学校でカンボジアへ短期留学する機会を頂きました。英語だけに限らず社会科なども含めて「何のために学ぶのか?」という前提やモチベーションがすべて変わりました。現地について何ら知識のないまま渡航しましたが、異国でも同世代が集まれば誰が好きか?彼氏はいるのか?なんて話できゃっきゃっ盛り上がります。その時に、独りだけ輪に入れずに孤立していた子がいました。彼女は貧困から人身売買をし、保護され傷ついていたのです。自分は汚れているから誰かを好きになったらいけないと苦しんでいる…とNGOの方から後で聞かされ驚くと共に、もっとちゃんと現地の知識があれば彼女を傷つけることはなかったのでは?と悔やみました。勉強はいい点を取るためにすることではなくて、誰かを傷つけないために学んでおかないとならないことだと気づいたのです。
学ぶことは対象をリスペクトすること。
――高校時代に人生のきっかけを見出せたのは大きかったですね。かなりオトナっぽい女子高生だったように思いますが?
両親が私の小学3年生の時に離婚をして、母に育てられましたが、その後中学2年生の時に父を亡くし、中3の時は兄も亡くしました。家と学校を往復する時代、人と人が一緒にいられる時間は限られている中で、周りを見れば小競り合いや諍いがある。人間って何だろう?家族って何だろう?と考えるようになりました。
――身近な人の死という悲しい体験があったからこそ、さまざまな視点をもち哲学的な思考を持つようになれたのですね。
そんな時に、「国境なき子どもたち」友情レポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材するNGOのプログラムがありまして、まったく境遇の違う国ではどんな価値観をもち、どういう家族観を持っているのだろう?もしかすると私のモヤモヤを払拭してくれるかもしれない…と。まったく自分本位の想いからカンボジアへ行く機会を頂きました。自分の無知を思い知ることになりましたが、カンボジアで傷つけてしまった女の子が帰国する日に「いつまた来ますか?必ず戻ってきてくださいね」と涙して手を握ってくれました。それが原動力となってもう10年以上カンボジアとの交流は続いています。
――カンボジア、シリアいずれもコミュニケーションのメインは英語ですか?
英語も話しますがカンボジア語は日常会話程度ならできるようになりました。シリアではアラビア語が難しく、聞きとりも地方によって訛りがあって難しくて。日本語であっても「この人を知りたい!」と思わない限り、言葉のやり取りはうまれないものです。言語がすべてではなく、相手を知りたいという意思があれば言葉の壁を越えて伝わるのだと思います。とはいえ、言語を学ぶのは相手に対するリスペクト。学ぶことすべてはリスペクトなのだ、と高校時代に気づきました。
――勉強もよくできる品行方正な女子高生という感じですが、当時好きだったことやハマっていたことはありますか?
音楽が好きで「COUNT DOWN TV」とかテレビを熱心に観てはレンタルショップでアルバムを借りてきたり。当時ロックバンドの追っかけもしていて、真っ黒な服にジャラジャラした鎖のアクセサリーをしたファッションとか。夏休み限定で髪を緑や金に染めてみたり…していましたね。一方で「あしなが育英会」でボランティア活動もしていました。自分がやりたいことだけをやっていた。意思表示がハッキリしていた、と当時私を知る人からは言われます。反抗的だった面もありましたけれど(笑)。
共に生きることを伝えたい。
――安田さんにとって学校はどんな場所でした?学校以外のコミュニティに早くから参加されて良い人とのご縁があったと思いますが。
私が通ったのは規律の厳しい中高一貫女子校でしたが、内面が壊れてしまう人、生きづらさを抱えている人もいると思います。すべて学校のせいではないかもしれませんが、物差しをいれなくてもいいところに物差しをいれがちなのが厳しい学校だと思います。髪の毛の色や服装のことで何度も呼びだされた時に、「先生はいい点数を取っていればいいんでしょう?」と否定をしてほしいことをわざとぶつけたことがありました。でも、その投げかけに黙ってしまわれたのです。『心が乱れているからそうなるんだ』とか、何かしら答えてほしかった(笑)。では、なぜ心が乱れているのか?を話したかったので…。
――勉強もしっかりされて表現するのも上手な安田さんでさえ窮屈に思う学校って、どう過ごすべきだと思われますか?
学校の講演でよく話すことですが、学校で教えてもらうことは「校則を守りなさい。点数を取りなさい」と何かに従うこと。逆に学校が教えてくれないことは「それはおかしい。これは変えていこう」と何かに抗うこと。でも社会に出たらもっとおかしいことは多い。それを黙殺したまま過ごすと生きづらい社会になってしまう。だからこそ卒業したら、おかしいことはおかしいと意思表示できる人でいよう、と語り掛けています。
――とっても共感します。子どもにとっては学校だけがすべてではないし、大人であれば会社だけではないと伝えたい気がします。
子どもにとってどれくらい学校以外のコミュニティに居場所があるか?は大切なことだと思います。たとえ学校がダメで、先生たちとうまくいかなくても友達とは仲良くできる。あるいは戻っていける家庭があればいい。家族とうまくいってなくても何か習い事で楽しめる場があるならそれもいい。私がカンボジアに行く時に学校の校長先生にご挨拶しました。その時に「がんばってきてね。キミに何かあったら学校の名前が出ちゃうから」と言われました。『絶対に10日間いろんなことを習得して吸収してくるぞ!』と心燃えた覚えがあります(笑)。
――そこで火がついたからこそ今の安田さんがあるわけですね。では最後にフォトジャーナリストという仕事を通じてこれから伝えたいことをお話しください。
3.11後、高校生を対象に東北スタディツアーを毎年行っています。そこに参加された高校生が「被災された方を二度苦しめてはいけない」と言っていました。一度目は3.11の大震災で苦しみ、二度目はまた何処かで大震災があって甚大な被害が出たら、自分たちの震災は何ら教訓にならなかった…と傷つけてしまうから。そうならないために備えをしていきたいと語った子がいました。私たちがなぜ学ぶのか?それは、苦しみを知っている人に更なる苦しみを与えないため。それを高校生から学ばせてもらっています。私が何か伝えるというより、これからもたくさん子どもたちから学ばせてもらいたいです。震災から5年9カ月が経って、東北で起こったことがまるで何もなかったかのように都会では時間が過ぎています。自分たちが置き去りにされているという感覚が一番そこに住んでいる人を追い詰めると思う。手触りのある感覚で個人のつながりをもって応援すること。それも一つの手段で、もっとも求められているのはそういうことなのかもしれませんね。
編集後記
――ありがとうございました!朝から晩までラジオ漬けでほとんどテレビを観ない私にとってJ-WAVEは自分の仕事場に流れる空気みたいなもの。毎週水曜日の夜は安田さんの番組は欠かさず聴くほどファンですが、今回リアルでそのお話を伺えて本当に幸せでした。自分の傷でさえ痛みにもがき苦しむ私にとって、安田さんの著書にはハッとさせられることがたくさんありました。他国で傷つく人に寄り添う心を持ち伝え続ける若きフォトジャーナリストの今後がますます楽しみです。
取材・文/マザール あべみちこ
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