東北の各地が夏の祭りに向けて燃えている。
陸前高田の町でも8月7日の七夕祭りの準備がたけなわだ。お手伝いしている祭り組では、平日22時、23時過ぎまで作業が続けられることもざらだ。それでも祭り組の人たちは「今年はまだ午前0時を回ったことはないんですけどね」と笑う。
祭りの準備は本番の1カ月以上前からほぼ連日続けられている。どうしてそんなに長い期間が必要なのか。それは、祭りの山車の飾り付けを毎年毎年、新しく作り替えていくからだ。陸前高田の七夕祭りではそれが当たり前のこととして、震災以前からずっと続けられてきた。震災を機にお手伝いに参加した身にすれば、とても奇特なことに感じてしまう。
太鼓とかお囃子の練習を何週間も前からやっている祭りは多い。自分のふるさとでもそうだった。夏祭りの2週間くらい前から太鼓の稽古が連日あって、練習が終わった後には高学年がリーダーで花火をしたり、肝試しをしたり、なんだかんだ楽しむのが夏休み突入前後の決まり事だった。しかし、毎年山車の飾り付けを作り替え、しかもその作業を住民が自ら行う祭りは全国的にみても希有なのではないか。
それぞれの祭り組が、その年々に思いを込めて作り上げた山車は、8月7日の祭りの前夜披露される。その時までは飾りのデザインも色合いも「企業秘密」。よって、作業中の写真で掲載できるのはモノクロまで。美しい飾り付けのカラー写真は七夕当日までしばしお待ちを。
陸前高田の七夕には、仙台や首都圏など県外に出て行った人たちの多くも祭り当日に合わせて戻ってくるのだという。星飾りがゆらめく幻想的な陸前高田のうごく七夕祭りは、亡くなられた人たちをお迎えする祭り。思い出をつなぐ祭り。そして、再会の祭りでもある。
「今年の山車はこんなふうにつくったよ」
「きれいだねえ。うれしいねえ。あれ、その辺なんてずいぶん凝った飾りになってるでねえの。たいへんだったねえ。がんばったねえ。毎年毎年ありがとねえ」
それぞれの祭り組の山車と山車がすれ違う時には、太鼓と笛もヒートアップ。お囃子の競演が始まる。と同時に、それぞれの山車の飾り付け自慢、飾り付け品評会も始まるのだ。
あっと驚かせるような飾り付け。さすがだねと唸らせる飾り付け。この町らしいよねと言ってもらえる飾り付け。8月7日のたった1日限りの祭りに向けての連日の準備。飾り付けの段階から陸前高田の七夕祭りはもう始まっている。
子どもたちも高校生も山伏も一緒に海の安全を祈願
ビーチクリーン活動が続く「長須賀つながりビーチ子ども海広場」で7月18日、オープンを控えた安全祈願祭が執り行われた。
祈願祭の導師役は山伏。浜辺に響き渡る祝詞と法螺貝の音色に、波の音と子どもたちの歓声が加わって、いままで経験したことのない音と光の世界が現出した。
「みちのく仙台ORI☆姫隊」も参加して華やかに盛り上がるなか、厳かな空気と、はしゃぎ回る子どもたちの声。祈りと願いと今ここにあることへの想い。たくさんのものが交錯する海風のなかに、たくさんの笑顔が花開く。
ビーチと祈り。縁遠く思われがちなふたつの言葉がひとつになった。
極め付きは式典が一通り終了した後の山伏の導師さんの撮影会。海を守りたい。海辺に集う人々を守りたい。そして素晴らしい夏のひとときを実現したい。そんな思いが、山伏の導師さんのみならず、その場に居合わせた全員に共有されたひとときだった。
潮騒には山伏がよく似合う。この夏の海が安全で楽しいものでありますように。そしてまた来年も、山伏の導師さんの祝詞と子どもたちの声の響く中、長須賀つながりビーチが開かれますように。
お天王様があっての七夕なんだよ
陸前高田では七夕に先立ってお天王様の神輿渡御が行われた。美しく飾り付けられた山車がお囃子の音とともに町を進む「うごく七夕」の優美さとは打って変わって、重たい宮神輿を少人数の担ぎ手が、天に届けと担ぎ上げ、また地を這うように練り回る勇壮なお神輿だ。
クライマックスは高台にある天照御祖神社への石段を登る渡御。例年、けが人が出ても不思議じゃないと言われながら、無事に渡御を成し遂げてきたお天王様のお神輿。陸前高田に夏を呼び込むおお天王様、今年の首尾はいかに。
お天王様には七夕祭りの安全祈願の意味もあるという。渡御をなし終えた後の境内では、たくさんの人から「お天王様あっての七夕」という声が聞かれた。美しい七夕祭りのバックボーンには祈りがある。
900年の伝統。けんか七夕は今年も開催
気仙郡3市町という言葉がある。現在の陸前高田市、大船渡市と住田町、かつて気仙郡だった地域を指す言葉だ(正確には現在の釜石市の一部も含む)。現在は岩手県に属するが藩政期に気仙郡は伊達藩領の最北の地域だった。
この地域の中心だったのが陸前高田市気仙町、今泉と呼ばれる土地だ。ここで生まれ900年の歴史を誇るけんか七夕は、七夕祭りの原型という説がある。近年では全国各地で七夕祭りが行われるが、そのお手本とされる仙台の七夕は、気仙の七夕が伝わったものだというのだ。
勇壮さや華麗さばかりでなく、長い伝統を誇る気仙町のけんか七夕。津波被害やかさ上げ工事の影響で今年も開催を危ぶむ声があったが、開催場所を気仙川東岸に移して開催されることになった。
会場が移されたこと、そして毎年のように開催が危惧されることの背景に何があるのかをぜひ知ってほしい。
希望と名付けられた橋が解体されていく
奇跡の一本松の西、気仙川に掛けられた希望という名の吊り橋の解体工事が進められている。10年かかる津波被災地のかさ上げ工事を3年に短縮した巨大ベルトコンベアの一部だった橋だ。
橋には地元の小学生たちからの応募で「希望のかけ橋」という名前がつけられていた。ベルトコンベアの運用は昨年9月に終了し、ベルトコンベアはすっかり解体されてしまったが、この橋だけは残されるのではないかという観測もあった。
しかし工事はどんどん進む。橋桁は1週間ほどで解体されて、今ではタワーとケーブルを残すのみ。変わっていく町の光景に名残を惜しむ声も聞かれる。Facebookには「希望がなくなってしまうの?」なんてメッセージも見られたほどだ。
しかし、一本松の根元近くに掲げられた2枚の看板が、希望が生き続けていることを教えてくれる。
「ここに生まれる夢 ここで育つ未来」
「幸せって 未来を信じて生きること」
高田高校書道部の筆メッセージがこのまちの未来を示している。
希望のかけ橋は解体されるが、新たにたくさんの希望が町に生まれ、育っていくのは間違いない。去年よりもっと美しくと、七夕飾りを毎年毎年作りかえていくのと同じこと。解体されていく希望の橋を目前にすると、このメッセージが心にしみる。
5回コールド完封負け、それでも
15回引き分けの翌日の再試合を制しベスト8に進んだ今年の高田高校野球部だが、準々決勝で当たった盛岡大付属高校の前に14対0のコールド負け。この夏の戦いを終えた。
敗戦から間もないので不謹慎かもしれないが、感謝を込めてこう言いたい。チームは来年に向けて新生・高田高校野球部として出発する。高田高校の野球はこれからもずっと続いていくだろう。今年の経験は高田野球の一部となって生き続ける。そして、甲子園を目指すという意味での高校時代の野球を終えた3年生たちにとっても、輝く明日を目指すチャレンジはずっと続く。野球を通じて夢をくれた球児たちのこれからの活躍に期待したい。
しかし、こんな挨拶みたいなことを述べるより、もっと素晴らしい言葉があることに気がついた。
「ここに生まれる夢 ここで育つ未来」
「幸せって 未来を信じて生きること」
何度でもつくり直す。新しい夢を生み出していく。未来を信じて生きていく。
何十年も何百年もつくり換えられてきた橋
希望のかけ橋が架けられた気仙川を遡っていくと、まるで昔話に出てくるような木の一本橋が架けられている。その名は松日橋。岩手県内でも数少なくなった古い木橋のひとつだという。
この橋のすばらしいところは、橋そのものが壊れることで集落を洪水から救う構造になっていること。そしてもっとすごいのは、洪水の際には橋が分解する構造ながら、橋板だけは流されることなく、水量が減ったら集落のみんなが総出ですぐに橋を造り直せるようにできていること。
壊れたら造り直す。また壊れたらまた造り直す。
この橋の美しさは、そんな人々の営みが形作った造形だからに違いない。そしてこの橋のことを思うと、ある歌を思い出さずにいられない。それは石川さゆりの「浜唄」だ。
二千年 二万年
浜じゃこうして 浜じゃこうして 生きてきた。
石川さゆり「浜唄」作詞:なかにし礼 作曲:弦哲也
浜唄は東松島の大曲浜獅子舞とゆかりの深い曲だが、東松島の浜だけでなく、東北の、そして私たち日本人の根っこにつながる歌のように思えてならない。人々がつどい、まつりを行うその背景にいのりがあり、いのりの背景には人と人のつながりがある。二千年、二万年、私たちはこうして生きてきた。
そのことを思い出させてくれる東北の祭りがはじまる。
震災を越えて復活した久之浜の花火大会
いわき市久之浜で花火大会が復活したのは東日本大震災が起きた2011年の夏だった。いわき市北部に位置する久之浜地区は、地震と津波、そして津波によって引き起こされた火災で町の中心部が破壊され、多くの住民が犠牲となった。のみならず、原発事故の影響で町のすべての住民が避難生活を余儀なくされた。住民がいなくなった町では窃盗団も横行。人々は自分たちの町を「五重苦の町」と嘆いた。
原発事故の影響は30km離れたこの町に深い影を残した。とくに子どものいる家庭では、町を離れる人も少なくなかった。県外に避難した人も多い。健康に影響があるのかどうか、不確かな情報しかなかったため、町の人たちの考えも割れてしまった。
「どうして子どもたちを避難させないのか」という意見。「なぜ愛する町を出て行くのか」という主張——
それまで親友だったのに、原発事故からの避難に関しては激しく意見が対立してしまうことを悲しむ人もいた。
久之浜で何十年ぶりとなる(町の人たちの記憶も定かでないほど昔のことだったらしい)打ち上げ花火の復活は、離ればなれになった人々が再会する場所と機会をつくりたいという切実な思いによるものだった。
それから5年。今年の花火は、これまで会場だった町の中心部から漁港に移されて開催される。
久之浜漁港は、久之浜の町の象徴でもある殿上山と高台に囲まれたシチュエーション。太平洋に突き出した防波堤から打ち上げられた花火は、山に囲まれた漁港にこだまして、これまでにない迫力に満ちたものとなるだろう。
鎮魂と復興の祈りの夏祭りが今年も始まる。
東松島「鳴瀬流灯花火大会」
鳴瀬川の灯籠流しの歴史は古く、江戸時代天保の大飢饉の頃に遡るという。上流から流されてきた数多くの餓死者の遺体。その慰霊のために流灯が行われたのがはじまりだとか。
その後、大正時代には花火大会も行われるようになる。近年では芸能ショーを中心とする前夜祭や、小学生の鼓笛隊やお祭りパレードも行われる華やかな祭りになり、宮城県でも人気の花火大会に成長していた。
鳴瀬川流域は東日本大震災で大きな被害を受けた。津波は数えきれないほどの悲劇をもたらした。海の物、町の物、ありとあらゆる物が町を埋め尽くした。がれきと呼ばれるその物たちは、かつては人々の暮らしとともにあった品々だった。そしてそれらの間から、幾人も幾人ものご遺体が見つかっていく。生き延びた人々の運命も過酷だった。避難所の運営、仮設住宅や復興住宅の建設など、震災への対応で評価の高い東松島市にあっても、人々の苦しみそのものが消えたわけではない。流灯花火大会が行われる小野は、仮設住宅に暮らす人たちが支援の衣類を使って生み出したぬいぐるみ「おのくん」のふるさとでもある。
鎮魂と復興への祈りをこめて行われる流灯花火大会。打ち上げられる約1,000発という大量の花火は、町の復活への歩みとこだまする力強い響きを聞かせてくれるに違いない。
震災の年の開催休止をバネに燃え上がる気仙沼みなとまつり
東北の風と書いて「ならい」と訓むらしい
東北の風、あるいは北東の風と書いて「ならい」と訓むらしい。冬の冷たい強風を意味する古語なのだという。気仙川の河原に立つ1本の木は、津波という厳しいならいに堪え、傷つきながらも命をつないでいる。仲間の死をも乗り越えて。この木の雄々しさ、しなやかな強さにちなみ、この連載記事を「週刊・東北の風の道」と名づけました。以後よろしくお願いします。
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