気仙川の河口から3kmほど遡った河原に1本の木が生えている。元々は2本並んで立っていたであろう1本は完全に枯死してしまったが、もう1本は体半分枯れながらも、残る半身で青々とした緑を茂らせている。
ここから海は見えない。しかしこの場所は津波で大きな被害を受けた。枯れた1本も、生き続けている1本も幹に残る傷跡が痛々しい。
東北の風、あるいは北東の風と書いて「ならい」と訓むそうだ。冬の冷たい強風を意味する古語なのだという。気仙川の河原に立つこの1本の木は、津波という厳しいならいに堪え、傷つきながらも命をつないでいる。仲間の死をも乗り越えて。この木の雄々しさ、しなやかな強さにちなもうと思う。
毎週金曜日にお届けするこの記事を「週刊・東北の風の道」と名づけます。ならいに負けぬ東北の魂を伝えます。以後、よろしくお願いいたします。
ビーチクリーン、もうひとつの大切な目的
自分たちの手で地元のビーチを復活させたい!と熱望しながらも、そこは小学生。いくらも働かないうちに仲間たちと遊び始めてしまう。南三陸町歌津の長須賀ビーチの再生に取り組んだ子どもたちの目の色を変えた出来事とは?
ここには生きることの現実がある。子どもたちが懸命にビーチクリーンに取り組んだ理由、震災での経験、そして子どもたちの思いを想像してほしい。
【特集】住まう家の事情
陸前高田の仮設商店街で営業してきた鶴亀寿司のパンフレットにこんな話が載っている。仕事を終えて仮設住宅に帰ってくるのは夜中遅くになる。小腹が減ったのでカップ麺を食べようと思ったのだが、麺をすする音が気になってボソボソとしか食べることができなかった。次からは多少は音を気にせずズズズッとやれる風呂場で食べることにした。だから、ラーメンは風呂場に限る。震災後、店を再開した当初の話らしい。
仮設住宅の生活の困難を物語る話だ。早く仮設を出て自分の家を再建したい、復興住宅に入居したいという気持ちは、はたから想像するよりはるかに切実だ。
陸前高田市沿岸部の長部(おさべ)地区では、高台の集団移転先で住宅建設が急ピッチ。知り合いが暮らす仮設住宅からも先日、長部の新居に引っ越した人がいたという。漁業中心の集落だった長部では、住民がまとまって移転するのは心強いことだろう。漁業は隣近所との共同作業がしばしばだからだ。
しかし、これから先のことを考えると不安がないわけではない。
14メートルを超える津波で中心市街地が壊滅した陸前高田では、津波の高さに匹敵するかさ上げ工事が進められている。総費用は1200億円に上るという。それだけの資金と労力を投じて大規模開発が行われるのは、かつての町の姿、人がいてお店があって町内のつながりが緊密で祭りではみんなが一致団結するような町を取り戻すため。しかし、その一方で、山林を切り開く中小規模の開発も各所で進められている。それはなぜ?
高台への集団移転、山林を切り開く造成、さらにかさ上げで新たに造られる市街地。それぞれの場所で住宅などの建築が進む。工事はこれからさらに集中するだろう。被災地で家を建てる上でどのような困難があるのか。陸前高田市では初めて開催された岩手県の住宅フェアで聞いた。
震災から5年4カ月。一本松に飛ぶツバメ
「ここに生まれる夢 ここで育つ未来」。一本松の側に掲げられた看板にはそう記されている。あまりにも多くのものを失い、夢しか描くことの出来ないほどのダメージを受けた町で小さな変化が起きている。
一本松は夢を未来につなげるシンボルだ。
町の変化を見守ってきた「砦」が移転へ
新国立競技場の再コンペに僅差で敗れた建築家・伊東豊雄氏らによって贈られた陸前高田の「みんなの家」。市民の集いの場所として、変わりゆく陸前高田の町を見守り続けてきたが、かさ上げ工事によって移転することが決まった。
移転前のみんなの家から陸前高田の町を見た。
アユ解禁。被災地の川に流れゆく季節
輝く清流、濃い緑のトンネルからこぼれる木漏れ日。アユ、ヤマメ、イワナなど川の恵みゆたかな気仙川で鮎漁が解禁となった。美しい清流に色鮮やかなウェアを着たアングラーたちが彩りをそえる。この川をほんの数キロ下ったところに、赤土がむき出しのかさ上げ造成地や一本松が立っているとはにわかには信じられない。
被災、復興、地方の疲弊…。それらは一色に塗りつぶされたように進んでいくものではない。出来事はまだら模様。いろいろな色の糸が絡まるようにして織り上げられていくものなのかもしれない。美しい自然も鮎解禁も、被災したことさえも、この土地で生きる人たちの時間の流れの中にある。
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