今日8月7日は陸前高田の七夕祭り。高田町では動く七夕、気仙町ではけんか七夕が美しくも勇壮な姿で町を練り回る。この祭りが人々を魅了してやまない理由のほんの一端に、触れさせてもらったことがある。
なつかしい顔との再会の場だった町の祭り
去年の夏、祭りの準備をしている人に町を案内してもらった。山車の飾り付けは震災前から1カ月以上かけての大仕事だったという。町内ごとに町の人たちが山車を飾る紙細工用の紙を染め、折り、飾り付けを行った。祭り本番1日のために1カ月以上も前から手作りで!
だって祭りの日には懐かしいみんなが帰ってくるんだから。
岩手県南部の気仙地区には複数の高校はあるけれど、高校を卒業した後、故郷を離れる人も多い。県外の大学に行ったり就職したり。小中高と顔を付き合わせてきた仲間たちが、18の春はなればなれになる。それでも祭りのこの1日だけは、みんなの顔が揃う。息子も娘も友達も帰ってくる。孫とその友達が笑顔で再開する。だから、一年間の思いを投じて立派な立派な山車を設える。
それぞれの町内の山車の美しさを競い合うのも、陸前高田の七夕祭りの醍醐味だ。前夜祭で山車が表に姿を現すまでは、どんな色のどんな飾り付けをするのかはトップシークレット。だから飾りを作っているところの写真は撮らせてもらえなかったくらいだ。
なんとしても続けたかった特別の祭り
父さんが祭りの準備現場を見せてもらったのは震災3年目の夏。ひとくくりに瓦礫と呼ばれてきた被災物や建築廃材は大方片付きつつあったが、被災物がなくなった分だけ、町は平らに開けて、通りすがりの旅人に過ぎない父さんには、ただただ茫漠たる荒れ地が広がっているようにしか見えなかった。
だけど、町の人たちにとってはそうではない。なぜなら道が残っているから。駅前から続くまっすぐな道。古い町並みに特有のカギの手に曲がった道。建物がなくなっても、道があるから町がわかる。ここは酒屋の何とかさん家、でここが私ん家。
空ばかり広くなった場所に、目には見えない町の姿がしっかり残っていたのだと思う。
かつて町に住んでいた人たちは、同じ場所にはいない。仮設に入っている人もいるが、市街・県外で避難生活を送っている人も多いと聞いた。
するとどうなる? そうだ、祭りの山車の飾り付けをする人がいないんだ。
町に残る数少ない経験者と、県外からのボランティアさんたちの手で、少しずつ少しずつ山車の飾り作成は行われていた。震災前のように1カ月じゃ時間が足りないから、もっとずっと以前から作業を進めてきたと、避難先の秋田県から週末に通って飾り付け作りをしているという彼女は話してくれた。
七夕だけはね、特別なのよ。だって懐かしいみんなが帰ってくるんだから。
アスファルト道路に刻まれた七夕の思い出
写真はダメよと言った彼女だったが、町なかのあちこちで進む準備中の山車の様子を案内して回ってくれた。(彼女にも、他の町の準備状況を偵察したいという狙いはあったかもしれない)
うごく七夕とけんか七夕に特徴的な、山車の前後に飛び出した長い梶棒。山車は流されて見つからなかったけれど、梶棒だけは奇跡的に出てきたという話とか、流失した山車の代わりに小さな小さな山車をとにかく作って祭りに参加した町内のこととか。
そんな中でも印象的だったのが山車の車輪のこと。近年でこそタイヤを履いている山車も少なくないが、山車の車輪は木製の円盤に鉄の輪を履かせたものが昔からの姿なのだと言う。ただ鉄の車輪は重たいし曲がる時にも余計に力と人手が必要になる。それでも昔ながらのスタイルに誇りを持ってこだわっている町も多いのだという。
彼女は平らに開けた町に残った舗装道路を歩いて、ここは誰さん家、こっちは誰だれさんちと案内してくれながら、道がカギの手に曲がるあたりでアスファルト舗装を指差した。
この筋みたいなの、山車が通った跡なのよね。アスファルト舗装にも傷跡がついちゃうんです。この跡はどこの山車かなあ。何々町の山車かもね。
旅人には「言われてみれば津波が道につけた傷跡とは違うかな」と思えるくらいのアスファルトの傷跡を、彼女は懐かしむように眺めながら話してくれたのだった。
町の再生は、そんなアスファルトの傷跡をも埋めて進んでいく
2014年の陸前高田の町中は、かさ上げ工事の真っ最中。一本松の近くには気仙川を越えて山から土を町中に大量移送する巨大なベルトコンベアーが建設されてフル稼働。日に日にかつての市街地を埋め尽くしていく。
だから、今年の七夕は「かさ上げ前の市街で開催される最後の七夕」と呼ばれている。
去年の七夕が終わった頃から、来年は町のかさ上げで七夕はできないかもしれないという噂もあった。それが開催できたのだから、それだけでもありがたいことなのかもしれない。
でも、少しばかり思いが入ってしまった父さんは、古い町並みの匂いが微かにでも残る町で行われる最後の七夕という言葉に複雑な気持ちになってしまう。
前夜祭に合わせて思いを綴った、隣町・大船渡のタカさんの言葉を思う。
街中に根の様に伸び行く
巨大コンベアも…
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仮置きだか何でだか
わからない
積み上げられた土の壁。
とうとう
海も見えなくなりました。
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山もまた一つ
消えようとしています。
自然が消えます。
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お願いだ。
教えてくれ。。
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遺された俺達は
わからないでいる。
これでいいのかな?
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日本は…
被災地は何処へ
向かおうとしてるのかな。。
かさ上げ工事がはかどって、いよいよ復興が進んでいるなあって感じがしますね!
そんな言葉はしゃべらないでほしいんだ。
そりゃ、何だかんだ言ったって、かさ上げも造成も進むんだろう。そういうことがたぶん、ある人々にとって復興という二文字が意味することなのかもしれない。そのこと自体は否定はしませんが、
もしも自分のふるさとの町がなくなってしまって、かろうじて残ったアスファルト道路に残る祭りの山車の車輪の跡、父さんの場合は小倉祇園太鼓の太鼓を載せた山車ということになるけれど、木の緩衝材すら咬ましていない直径20センチほどの鉄の車輪だったから、そりゃもう道のあちこちを傷つけながら山車は町を廻ったもんだ。そんな車輪がつけた傷跡くらいしか、町に記憶のかけらが残されていないくらいの状況だったと想像した時、復興のためのかさ上げで、その傷跡が永遠に消えてしまうとなったら、どうしても平静な気持ちではいられないと思うんだ。
町を離れた人たちも含めて、懐かしい人たちに出会える祭りなんだぞ。
どんなに会いたくて、切符もホテルもこっちで手配するからって言ったって帰ってくることができない人たちも、空の遠くから見にきてくれる祭りなんだぞ。
懐かしいその人たちと一緒に山車を曳いて、ふるさとの道に刻み付けた傷跡なんだぞ。愛しい愛しい傷跡なんだぞ。
復興って難しくて、苦しいことなんだと思う。軽々しく口にするのも憚られるほどだ。それでもだ、これもまたいつか乗り越えて行かなきゃならないものなんだ。どうすりゃいいんだろう。
文●井上良太
最終更新:
onagawa986
祭りの傷あと、残された家の土台、傷だらけの桜の木、ひな人形のケースの模様が施された木枠、割れたマイ茶碗のかけら・・・
ほとんどを失った人にとっては、宝物
他の人にとっては、ガラクタでも、復興工事の妨げになっても
震災前へと通じる、大事な大事な宝物