なぜこの発言が大きな問題にならないのか不思議でならない。
この発言に町民は反発を強めている。帰還に向け住宅再建を終えた60代男性は「帰る気持ちがうせる発言だ。住民の自己責任だと言うつもりだろうか」と批判した。50代女性も「古里に戻りたいという気持ちを理解できるのなら、あんな発言は出てこない」と話した。
毎日新聞が7月7日付で伝えた記事で、反発を強めている「住民」というのは、福島県楢葉町から避難を命令されてきた町民たちだ。他方、発言の主は、高木陽介経済産業副大臣(原子力災害現地対策本部長:衆議院議員/公明党幹事長代理)。
かつてゲートが設置された場所よりさらに内側の町
楢葉町は原発事故で全町避難となり、いまも「避難指示解除区域」として日中のみ立ち入りが許されている特別な地域。より事故原発に近い富岡町や浪江町に比べれば空間線量はおおむね低いが、あくまで「おおむね」でしかない。
国が定める避難指示解除区域の基準は「年間積算線量20ミリシーベルト以下となることが確実であることが確認された地域」。国が「町民は楢葉に帰りなさい」と決定し、通達したということは、その場所で1年間生活して被爆する線量が20ミリシーベルト以下になったということを意味する。しかし、場所によってそれより低いところ、高いところ、まちまちであると考えるべきだろう。
また、これまで国が居住を禁止していた指示を解除するということは、それに対する補償も打ち切られるということでもある。
そもそも、その決定の経緯からして不可解だった。政府が6月に表明したのは「8月のお盆前」という解除方針だ。しかし、地元の反発が大きかったため、それならばと新たに打ち出したのが、当初の方針からわずか1カ月弱延長しただけの「9月上旬」という今回の決定。たった1カ月で何が変わるというのか。お盆を過ぎれば急に線量が減るというものではないだろう。生活環境を整備するといっても、楢葉町よりも原発から遠い広野町でも、地元に帰還して生活しているのは住民の1~2割に過ぎないと言われている。
長期間にわたり家を離れていたせいで、地震や津波の影響のなかった住宅でも、その多くは泥棒やネズミ、イノシシなどの動物に荒らされた上、風雨による破損も激しく、とても居住できる状態ではないところが多い。その上、買い物先、学校、病院、さらには仕事先など生活環境の復旧はまだゼロに等しい。
住民にしてみれば、古い言い回しだが「食うに食なく、住むに家なく、働くに職なし」な状況に放り出されるに等しい。
たとえは適切ではないかもしれないが、これまで4年以上も入院して、点滴で命を長らえてきた患者に退院を突然強要するようなものだ。ご飯ももう自分で作って食べなさいと。(除染されているのは住宅周辺と道路などで、原野と化した田んぼや畑の汚染は取り除かれていないから、農業をやるにも不安が大きい。買い物しようにも車がなければコンビニにも行けない。近隣のいわき市中心部へは車で約1時間もかかる)
その上、ライフラインである水道の水源が汚染されたままという問題が住民の不安をかき立てているという。
衝撃の「安心は心の問題」発言
楢葉町民の切実な訴えに対して、政府の原子力災害現地対策本部長である高木氏が言い放ったのが次の言葉だ。
「放射線の考え方は人それぞれ異なる。安心と思うかは心の問題だと思う」
また、水源の問題については次のように述べたという。
会見で水道水源を巡る町民の不安について質問された高木氏は、水道水の放射性セシウムは検出限界値未満であることなどを指摘
まずは、後者から。事故後時間が経過する中で、水中のセシウムなど放射性物質のほとんどは、泥などの沈殿物に吸着されているので、上澄みの真水の部分からはほとんど検出されない。しかし、いったん降雨などで水が濁ったり、濁らないまでも撹拌されると放射性物質の濃度が急激に高まる。
このことは、東京電力福島第一原子力発電所構内の地下水などのサンプリング調査で、放射能が急増した際に東京電力が「降雨の影響と考えられる」と発表したり、「濁度高のためγ測定は実施せず。全βは参考値としてろ過後に測定」としていることからも逆に明らかだ。静かに流れている状態で検出限界値未満であったとしても、水源のダム湖の底に高い濃度の放射性物質がある限り、それがいつ水道に流れ込むか分からないという住民の不安には十分な根拠がある。
法律で定められた線量の20倍!
ところが、そんな住民の不安を「考え方は人それぞれ異なる」「安心と思うかは心の問題だ」と、高木陽介という人は言い放った。何度でも繰り返すが、この人は経済産業副大臣という政府の一員である。さらに、事故原発による住民や地域の問題を担当する原子力災害現地対策本部長である。政府の主要メンバーであるお人が、安全かどうかの考えは人それぞれ(つまるところ政府が判断するということ)で、安心は心の問題(つまり、そんな個人の感覚的な問題には配慮しない)と言っているわけだ。
さらにこのお人は、国のルールを作る立法府の一員として国民から付託された衆議院議員である。政党としても公明党幹事長代理という要職にある。
衆議院議員であり、行政府の一員でもある彼がこのような発言をすることには、非常に大きな問題がある。それは、日本国の法律では、一般国民が1年間に被曝していい線量の上限は1ミリシーベルトと定められているからだ。政府はなし崩し的に20ミリシーベルトを帰還のためのボーダーとして扱っているが、その根拠はいまも「詳らか」にはされていない。国民に、それまでの基準の20倍の被曝の危険を負わせる決定を行なうのであれば、まずは法律を改めてからでなければ本末転倒である。
行政府の一員は法律に則った行動をとる義務がある。また立法府の一員としては、仮に実情にそぐわない状況が発生した場合には、科学的な根拠、あるいは社会的要請の重さを示した上で1ミリを20ミリに引き上げる法律を提案し、国民に見える形で議論を行なった上で成案させなければならない。
自らの職責を果たしてもいないことは棚に上げて、不安がる住民に対して「安心は心の問題」などと言って政府方針をゴリ押しするとは、まったく常軌を逸している。少し引いて見れば分かるが、とんでもなくトンチンカンな物言いなのだ。しかし困ったことにそんなトンチンカンが強権によって押し通されかねないのだ。
住民が反発するのも無理はない。むしろこの筋違いな発言は、楢葉町の住民だけではなく国民全体に向けられた愚弄の言葉ととらえるべきだ。
国民の安心を担保するのが政府の仕事ではないのか?
政治家をやったことはないから、詳しくは分からないが、どんな職業であれ必ず職権というものは生じる。しかし、その職権を自らの思うままにするような人はリーダーたりえない。人には矜持というものがあり、公正を旨とする精神がある。職権を思うままにできる立場に近ければ近いほど、その立場に見合った誇りや正義の感覚が求められて当然だろう。しかし、ここ数年、政権にある人たちの間から尊敬に値する言動が伺えることがほとんど皆無になっているように思う。
今般、政権にあって被災者の生活をあずかる立場にある方々は、おそらく高木氏も含めて、大正時代の大震災の直後、摂政宮殿下(後の昭和天皇)が発表された「関東大震災直後ノ詔書」にこんな言葉があることなど知らないのだろう。
朕深ク自ラ戒慎シテ已マサルモ惟フニ天災地変ハ人力ヲ以テ予防シ難ク只速ニ人事ヲ尽シテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ非常ノ果断ナカルヘカラス若シ夫レ平時ノ条規ニ膠柱シテ活用スルコトヲ悟ラス緩急其ノ宜ヲ失シテ前後ヲ誤リ或ハ個人若ハ一会社ノ利益保障ノ為ニ多衆災民ノ安固ヲ脅スカ如キアラハ人心動揺シテ抵止スル所ヲ知ラス
大詔煥発(関東大震災直後ノ詔書)
政治家の皆さんがまさか読めないなどということはないだろうが、ポイントを絞って解説させていただきます。
天災は人の力をもって防ぐことはできないから、ただ速やかに、かつ人事を尽くして、国民の安心を図るしかない。
非常の時には、常に非ざる果敢な判断と行動を行わなければならない。
もしも、平時の決まり事にこだわって、為すべきことのプライオリティを誤ったり、あるいは特定の個人や企業の利益を保障するために多くの被災者の安心できる生活を脅かすようなことがあれば、人心は動揺して定まることがないだろう。
「とにかく国民の安心できる生活を第一優先にせよ。従来の法規にこだわらず、状況に応じた果敢な行動を行いなさい」とおっしゃっている。ことに、「特定の個人や企業の利益のために被災者を苦しめることがあってはならぬ」と強調している。
この詔書の精神を重く受け止め、山本権兵衛首相以下大臣、官吏、官員が奔走したからこそ、人心も鎮まり、再起の気運も盛り上がり、関東大震災の復旧復興はめざましかったのだとされる。
しかし、高木副大臣の発言は、「人事ヲ尽シテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ」の言葉の意味するところから遠く離れてしまっている。震災・原発事故後4年以上にわたって苦しみ続けてきた人々に対して「安心するしないは個々人の心の問題」などといって突き放しているのだ。
これはもういけない。人心の安寧を守るという政府の責務を放棄しているとしか言い様がない。高木氏は政治家としての勉強を一からやり直されてはどうか。
いっそのこと、百田氏のレクチャーでも受けてみたらどうだろう。むろん冗談だが
行政府の主要メンバーで国会議員で、しかも現場責任者である人物が、住民の不安など関知しない。そんなの関係ないなどということでは、国民はいったい誰に安心できる社会や環境を求めればいいのか。
少々飛躍するが、6月25日、自民党の文化芸術懇話会という集会での、百田尚樹氏や参加議員の発言が問題になっているが、その会合で百田氏はこうも述べたという。
「国民に対するアピールが下手だ。気持ちにいかに訴えるかが大事だ」
発言は集団的自衛権行使容認についての政府の対応を指摘したものだそうだが、ある意味これは、原発事故の被害を現に受けている地域の人々、また原発被害に脅やかされている日本中の国民への対応でも同様ではないか。
朝日新聞が伝えるところでは、自民党の文化芸術懇話会とは、
設立趣意書によると、「心を打つ『政策芸術』を立案し実行する知恵と力を習得する」ことが会の目的
で、第一回目の会合に百田氏を招いたのも、シナリオライターとして視聴者に働きかけるテクニックを学ぶためだったのだとか。
そこでひとつ百田氏に聞いてみたい。高木氏の「心の問題」発言は、心を打つ政策芸術という観点からどのように評価されるのだろうか。
住民の反感を買っているわけだから、どうみても合格点ではあるまい。
であればいっそのこと、高木氏はこれから百田氏の門をたたくなり、自民党の文化芸術懇談会に出席させてもらうなりしてお勉強されてはどうか。(もちろん、これんなことは冗談ですけどね)
冗談はさておき、政府はなぜ1ミリシーベルトという法律を破ってまでも帰還を進めなければならないのか、その理由を天下のもとに示す必要があるはずだ。仮に巷間ささやかれているように、賠償の財源が足りないというのであれば、帳簿も含めて明らかにしなければならない。事故原発の収束に関する帳簿や国が出資している東京電力の帳簿はもとより、国の財政に関するすべての帳簿をだ。
その上で、どうしても足りないというのであれば、別のどこかを削るとか、いや致し方ないことなのだといった議論が可能になる。たとえば国会議員の数を“抜本的に”削減するとか、行政の無駄を徹底して省くとか、予算措置さえ未確定な新国立競技場の計画を可及的速やかに見直すとか。
そのような方策を探る努力すら払いもせず、「安心と思うかは心の問題だ」と強引に帰還を推し進めるなど、およそ民主的ではない。そもそも民主主義とはガス抜きとして国民に与えてやった造花のようなものだと言うのだろうか?
原子力発電は国策として進められてきたものなのだから、国がしっかり責任を持って対処しなければならない。「しっかり責任を持って」とは、美辞麗句として喋りさえすればいいというものではなく、どれくらいしっかり責任を持っているのかを、帳簿から施策、人員配置に至るまですべてをフルオープンにした上で行われなければならない。
事業会社である東京電力は、原子力発電によって利潤を上げてきたわけだから、他人事的なスタンスではなく、身銭を切って対処に当たるべきだろう。
プライオリティは避難を余儀なくされている住民の安心をどのように担保するかだ。楢葉町でゴリ押しされてしまえば、富岡町や浪江町などでも同様のゴリ押しが進められることになりかねない。ましてや自主避難している人たちへの援助は完全に断ち切られてしまうだろう。
大切なのは被災者ファーストの姿勢だ。それが国民全体に安心を与える源にもなる。
国民によってその立場にいるということを忘れた瞬間、権力を持つ者は独裁者へと面変わりしていく。その末路は歴史が繰り返し証明しているところだ。
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