防災の日に改めて噛みしめたい関東大震災の詔書

iRyota25

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1923(大正12)年9月1日11時58分、相模湾を震源とするマグニチュード8クラスの大地震が発生し、10万人以上の死者・行方不明者を出した関東大震災。筆舌に尽くせない惨禍の中、9月12日、のちの昭和天皇は摂政宮として関東大震災の詔書を発せられました。そこには昔風の難しい言い回しながら、被災の状況や震災後、何を為すべきかについて率直な言葉が記されています。9月1日は関東大震災が起きた日。そして、その惨禍を繰り返さないように、経験を語り継ぎ、次の災害に備える「防災の日」です。その防災の日に際して、92年前の教訓を詔書の言葉から噛みしめたいと思います。

安政の大地震よりも悽愴な被害…

9月1日の激震は突然の出来事でした。地震による揺れはきわめて峻烈で、家屋の倒壊で亡くなった人々の数は何万人にのぼるのか見当もつきません。その上、大火災が四方に起こり、火炎は天を焦がし、京浜地帯やそのほか都市や町は一夜にして焦土と化してしまいました。交通も通信も途絶し、そのため流言飛語が人々に広まり、その被害をますます大きくすることになりました。安政の大地震に比べても、今回の大震災はさらに悽愴なものであると思います。

九月一日ノ激震ハ事咄嗟ニ起リ其ノ震動極メテ峻烈ニシテ家屋ノ潰倒男女ノ惨死幾萬ナルヲ知ラス剰ヘ火災四万ニ起リテ炎焔天ニ沖リ京濱其ノ他ノ市邑一夜ニシテ焦土ト化ス此ノ間交通機関杜絶シ為ニ流言蜚語盛ニ傳ハリ人心洶々トシテ倍其ノ惨害ヲ大ナラシム之ヲ安政當時ノ震災ニ較フレハ寧ロ凄愴ナルヲ想知セシム

「安房震災誌」冒頭に示された詔書 ‐ 【津波ディジタルライブラリィ】

当時の記録を読んでみると、震源地に近かった横浜では、レンガ造りの西洋風建設などを中心に、官公庁やホテルなどが倒壊し、多くの人が犠牲になった様子が克明に描かれています。壊れた建物に閉じ込められたまま、その後に発生した火災で命を絶たれた人も少なくなありませんでした。

東京などでは、ちょうど昼食時だったことから、たちまち各所に火の手があがり、現在の千代田区より東側の地域を中心に町全体が燃え上がります。火災旋風という言葉は最近でこそ知られるようになりましたが、関東大震災で発生した旋風は、目の前で燃えている家屋が風によって上空高くまで持ち上げられ、空中でバラバラになったものが風にのって地上を吹き荒らす恐ろしいものだったそうです。

火災旋風は人間をも巻き上げました。吹き飛ばされるのみならず、火の手が舐めるように人に触れたとたんに、生きながら人間が燃え上がったという証言も多くの記録に残されています。

関東大震災では地震や火災、津波などばかりではなく、暴徒化した人々によって、人間が人間を惨殺するという惨劇も数多く発生しました。とくに、暴動を起こすとの噂が流された朝鮮人に対して、町の自警団の人々が執拗な攻撃を行ったことは決して忘れてはならないことです。町の普通のおじさんやお兄さんが、日本刀や猟銃、スコップや鎌、ノコギリなどで武装して、朝鮮人を保護している警察署の武道場の中にまで乱入して大量殺戮に及んだりしたのです。

詔書の短い文章の中に、そんな悲惨な状況が凝縮されています。

安政の大地震が起きたのは1855年。関東大震災の68年前のことでした。安政大地震の経験は、おそらくこの時代まで「地震の教訓」として伝えられていたことでしょう。しかし天災によって悽愴な悲劇が起きてしまったことに、詔書は自らの不徳の致すところであると悔やみの言葉を続けます。「朕深ク自ラ戒慎シテ己マサルモ」の下りです。

一企業のために人々の生活を脅かすことがあれば…

このような不幸が起きたのは朕の不徳の致すところである。天災地変は人間の力で予防することは難しい。大災害が起きてしまったときには、ただ速やかに人々を安心させるために出来る限りを尽くすほかない。平常時とは異なり、非常時においては積極果断に行動しなければならない。もしも平時のルールやしきたりにこだわって、なすべきことを悟らず、優先順位を誤り、スピーディな対処をしなかったり、あるいは特定の個人や一企業の利益のために、多くの被災者の生活の安定を脅かすようなことがあれば、人の心はたちまち動揺して、不安や不満を押しとどめることができなくなるだろう。

朕深ク自ラ戒慎シテ己マサルモ惟フニ天災地変ハ人力ヲ以テ豫防シ難ク只速ニ人事ヲ尽クシテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ非常ノ果断ナカルヘカラス若シ夫レ平時ノ條規ニ膠柱シテ活用スルコトヲ悟ラス緩急其ノ宜ヲ失シテ前後ヲ誤リ或ハ個人若ハ一会社ノ利益保障ノ爲ニ多衆災民ノ安固ヲ脅スカ如キアラハ人心動揺シテ抵止スル所ヲ知ラス

「安房震災誌」冒頭に示された詔書 ‐ 【津波ディジタルライブラリィ】

非常に大きな災害に直面した時、人間にできることは今も昔も変わらないことを思い知らされます。

天災地変は人の力で予防することは困難である。

家財を失い、大切な家族を亡くした被災者が少しでも安らかな気持ちを取り戻せるようにすること。それが最も大切なことで、速やかに、人事を尽くして対処しなければならない。

非常の時には非常の果断をもって対処しなければならない。しかも「なかるべからず」と非常に強い言葉で断言しています。

平時のルール、つまり条例、法律、ルールやしきたりであっても、それにこだわって、為すべきことが何なのかを見失ってはならない。スピーディに対応し、優先順位を誤ってはならない。

そして、次の一言、詔書に記されるものとしては異例とも思える言葉ですが、これこそがこの詔書のエッセンスだと思うのです。曰く、

特定の個人を優遇したり、特定の企業の利益のために、被災した多くの人たちの生活や安心を脅かすようなことがあってはならない。そんなことがあれば人々の心は荒廃し、動揺し、暴動すら起きかねない状況になってしまうだろう。

企業優先を厳しく戒めた詔書

92年前の言葉が、東日本大震災から4年半後の今によみがえります。

復興の名のもとにゼネコンや特定の業界、企業等を優遇する公共工事が蔓延していないか。復興の名のもとに必要以上の税金が使われていないか。除染作業で元請けに支払われる金額の数分の1しか作業員に渡らないのはなぜか。2020年のオリンピックをめぐって新国立競技場やエンブレムの不祥事によって無駄に使われた税金。誰も責任をとろうとしませんが、被災地では疑問の声が多く上がっています。被災地のみならず、もちろん全国からも。数え上げることもできないほどの疑惑、不正の噂…

そして、東電。

ようやく経営層に対する起訴議決が検察審査会で出され、裁判が始まりますが、企業としての責任をとったという話は聞きません。被害を受けた人たちへの賠償は不十分なままです。まさに「一会社ノ利益保障ノ爲ニ多衆災民ノ安固ヲ脅スカ如キ」とは、今日の東京電力を指弾するために記された言葉だと言えます。

日本は自然災害の国です。いずれ遠からず天災によって大きな被害を蒙ってしまう日は必ずやってきます。その時に、いま行われている非道が繰り返されないよう、92年前の詔書の意味を国民の全員に知ってほしいと思います。

そして、まったくといっていいほど復旧が進まない中で、補償の実質的な制限や打ち切りを突き付けられている原発事故の被災者が何万人もいること、政府と東電が住民の帰還を進めても、それでも人が暮らすことのできない広大な土地が残されること、津波による被災地でも全体的に見れば、町を再建するための造成工事がようやく完成に近づきつつある状態で、具体的に町を再建し、コミュニティを再生してくのはまだこれからであること。

そんな、1923年の詔書の「真逆」が2011年以降のニッポンで行われていることを、私たちは決して忘れてはならないし、この詔書の精神に少しでも軌道修正していけるようにしなければならない。ニッポンを取り戻すというのは、他国の戦争に首を突っ込む国になることではなく、人を思いやる人間として普通の感覚を取り戻すことに他ならないのです。

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摂政宮、のちの昭和天皇はこの詔書を発した3日後の9月15日から、上野方面、下町方面、横浜・横須賀方面と3回にわたって被災地を視察している。まだ治安も悪く、環境が整わない中、摂政宮ご自身の強い希望で視察は行われたという。

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