タレントの武田鉄矢氏がフジテレビ系の番組「ワイドナショー」で放った発言が波紋を呼んでいる。
たとえば、私どもはテレビ局で仕事しておりますけど、テレビ局にやっぱり電力を消費しないために1日6時間、放送をやめるとかっていう覚悟が各局にあるかとか、そういうことまでも込みで考えて『原発再稼働を認めず』というような決心をすべきであって、『国は間違ったことやってるぞ、ハンターイ!』という、そういう単純な話ではもうなくなったような。
ネットのニュースで読んだ時には言葉を失うというか、この人はなんてことを言い出したんだろうとか、いろんな独り言が憤懣やるかたない思いとともに湧き出してきた。とにかくイヤーな気分だった。
たかだか原発再稼働に賛成ですってだけの発言なのに、どうしてイヤーな気分になってしまったのか考えた。考えてみてイヤな気分の理由が2つ見つかった。
[イヤーな気分の理由1]押し売りする側の理屈
武田氏といえば、これまでにもたくさんのドラマやバラエティに出演してきた、いわばテレビ局側の人だ。
その人が、「1日6時間、放送をやめるとかっていう覚悟が各局にあるかとか、そういうことまでも込みで考えて『原発再稼働を認めず』というような決心をすべき」と言っている。これは要するに、放送を6時間止める覚悟なんかないんだから、再稼働認めずなんて言うべきではないという意味だ。
こういうのを説教泥棒、もとい泥棒の説教とか、押し売りする側の理屈という。もっと分かりやすくいうなら、「原発動かせなかったら、もっと値上げします」と脅しをかけてくる電力会社や、値上げ申請を大筋で通してしまう権力機構の理屈と全く同じだ。
さらにこの発言、枝葉末節の問題ではあるが、武田氏がテレビ放送を6時間やめる覚悟を質している相手は「各局」だ。視聴者ではない。発言の意味を正しく理解するなら、「そういう単純な話じゃなくなっている」のも、あくまで「各局」だ。テレビの人間がテレビ局に対してものを言っているだけの、完全に内輪のおしゃべりでしかない。しかし見ている側としては、視聴者に向けてのコメントのように思ってしまう。
6時間でも8時間でも止めてもらって構わない
姑息な言い逃れ的な作文の香りまでしてくるコメントの細部はいったん置いておく。6時間放送をやめることなんか出来ないでしょうという点について私見を述べる。
【6時間といわず、8時間でも12時間でもやめてもらって結構です】
反論というほどのことでもない。現にオイルショックの時代には、テレビは毎晩11時に終了していた。それで困ったのはテレビ局と電力会社くらいだろう。
テレビが元気いっぱいだった1970年代でもそうだったのに、今どきテレビ番組がとまって困る人が大勢いるとでも思っているのか。甚だしい時代錯誤であり、驕り以外の何ものでもない。そもそもテレビの放映時間に視聴者の方が都合を合わせるというスタイルは消滅寸前の状況だ。早急にオンデマンドに移行して、「この時間は他に面白い番組やってないから」なんて下らない理由で、テレビをつけっぱにするような時代にピリオドを打ちたいものだ。
脱線したので本筋を繰り返します。テレビの放送時間が減ってしまって困るのは、電波に乗せて垂れ流されることでチャンスと地位を得てきた程度のタレントと、法外な給料をもらっているテレビ局社員、あとは広告代理店と一部の政治家くらい。これが今日的常識というものだ。
電気が減ったらどうするか
武田氏の発言の前提は、原発やらなきゃ電気が足りないということだ。しかし――
原発は1基も稼働していないのに、電気が足りていないという話は聞かない。電気は十分足りている。火力発電用の燃料費で国富が流出するなんて時代がかった理屈もあるが、現政権がとった異次元緩和という政策によって大幅な円安が進んだ。石油でも石炭でも天然ガスでも、円ベースでの輸入価格は約3分の2に減少している。電気代が高騰して困っているというが、その原因は原発が止まっていることではなく、電力会社が燃料代の低減分を電気料金に反映させていないからだ。その点がまともに報道されることはなく、時々思い出したかのように、まるで不幸の手紙のような記事が流れてくる。「原発やらないと電気代が上がっちゃうんです」と。このこと自体、原発のメリットは国民の側にはなく、もっぱら電気を売る側にあることの証左かもしれない。
とは言え、もしも仮に電力がものすごく減るような状況が起きたらとか、あるいは電気料金がべらぼうに値上げされてしまったらという事態を考えておくことは必要だ。電力が足りなくなる蓋然性は低いだろうが、後者のべらぼうに値上げは十分ありうる。
なぜなら電気料金は総括原価方式で決まるからだ。見込まれる売上から売値を決めるのではなく、かかった原価を足しあわせた総額に利益率を上乗せして電気の売値は決められているのだ。かかった原価の総額のうちには、燃料代や検針経費といったものばかりでなく、発電所の建設費、原発が止まっていても地元自治体に支払っている燃料税、さらにはデンコちゃんを使ったPRのお金なんかも含まれる。
利益率は経費に対して%でかけられるわけだから、経費がデカければデカイほど電力会社の実入りは増える。経費を削減しようという意志が働かない仕組みになっているのだ。だから、輸入する燃料の実質的な経費が下がっていても関係ない。原発の新しい基準に合わせるために、新たな設備投資に大金を投じても関係ない。いまは原発を動かせないと料金引き上げと言っているが、もしも原発の再稼働が進んだら、原発の安全設備の充実のためとかいって、また値上げを画策してくるかもしれない。
東京電力の原発事故の前の水準から、人にもよるが20%くらい電気代が上がったとも言われる。今後、さらに電気料金が値上げされて行ったらどうするか。
答えは簡単だ。
【使う電気を減らせばいい】
(残念ながら使わなくなった分だけ支払う電気代が減るだけで、使わないから電気の料金体系が安くなることはない。総括原価方式だから。しかし、全国規模で電気の使用量が減っていけば、総括原価方式の矛盾に社会が耐えられなくなるはずだ)
人間、その気になればけっこう節電できるものだ。そのことを教えてくれたのも、原発事故後に電力会社が断行した計画停電だった。たまには電気の代わりにランプの明かりでご飯を食べるのもいい。ゴールデンタイムと呼ばれる時間帯、テレビの支配から解放され、家族や大切な人たちとのおしゃべりがどんなに楽しいのかを教えてくれたのも、計画停電の真っ暗な夜だった。
数十年前「暗闇の思想」を思いついた人は自分で電気のスイッチを切ったけれど、2011年に経験したあの暗闇は電力会社の方でスイッチを切ったものだったのだ。
(「暗闇の思想」は作家で火力発電所の環境破壊に反対した松下竜一が、電気にたよらない生活の可能性を求めて提唱した考え方)
電気がゼロになったらどうするのか。
江戸時代に戻るのかという言い草で脅しをかける人もいる。でも大丈夫。人間は、生きてここに存在しているということ自体に力をもっている。電気がなければ生きていけないということはない。
たとえば電気がなくなれば、ネットもスマホも使えないかもしれない。それじゃあ手動の発電機で充電すればいいだろう。小水力発電という方法もある。直径20センチ位の手作り水車でもLEDを灯すくらいはできるのだ。要はダイナモを回すだけのトルクを得ることと、水量に耐える丈夫な水車を作ること…(と、この話はまた別の機会にぜひ)
しかし、もっと本質的なのは、電気がなければ、基地局が機能しなくて結局ネットやスマホは使えないということ。工場も止まってしまうから、新製品も作られなくなる。
ネットやスマホに限ったことではない。同様な困難が社会のあらゆる場面で発生するだろう。産業とか流通とかが成り立たなくなれば、混乱は必ず発生するだろう。しかし、それを乗り越えるのも人間であると信じたい。
ネットの話に戻ってしまうが、人間がコミュニケーションするのはそこにネットがあるからではない。コミュニケーションは人間にとって根源的な営みだからだ。たとえ電気がなくなってネットが途絶えるようなことがあったとしても、人はさまざまな手段を編み出して、人とつながっていくことだろう。
思い出してほしいのだ。大震災で電気が止まり、携帯も繋がらなくなり、外部との連絡も途絶えた真っ暗な石巻の町、輪転機が水没した新聞社で、手書きの壁新聞づくりに励んでいた人たちがいたことを。彼らの壁新聞が震災後の大混乱の中で人々に安心をもたらしたということを。
「テレビを6時間とめる覚悟をもて」なんて説教する、教職免許はもっていても教職員ですらないタレントの言葉など、ちゃんちゃらおかしいばかりなのである。
追記。そして続編へ
[イヤーな気分の理由2]も、ほとんど書いてしまいました。視聴者に向かってのコメントなのに実は内輪話でしかなかったのもそうですが、どっちつかずのコウモリ的発言であるということです。原発事故には国民が懲りている、原発やめるのが正しい答えと言いながら、結局、福井地裁で仮処分を認めた裁判官をおちょくるように批判したりもする。原発賛成なら賛成と言えばいいだけなのに、どうしてそれができないのか。
この辺の状況は実際にテレビの録画でも見ながら話したいところなので、武田氏の問題発言の前後を書き起こしたテキストを、続編としてつくろうと思います。
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