僕は原発再起動に反対で、できるだけ早くすべての原発を廃炉にした方がいいと考えてきた。原発事故という現実を目の当たりにしてしまった現代の人間が、10万年後の未来(つまり、西暦102013年。1世代を仮に30年くらいとすると3000世代も先の子孫の時代だ)に負担を強いるということなど、あってはならないと思ってきたからだ。
でも、昨日「意識を原発に向けてくれるアート」を書きながら、ちょっと異なる思いを抱いた。ある意味でその続編にあたるのが今書いているこれで、タイトルにディベートなんて謳っているけれど、賛成と反対の両方の立場に立って考えてみることが必要なんだと思ったわけで、実際にこの記事がガチンコのディベートのような文章になることはないだろう。
しかし、原発推進か脱/反原発かというシンプルすぎて話がかみ合いにくい問題の「尻尾」みたいなものを探ることくらいできるのではないかと、ほのかな期待感も抱いている。
原発推進の人たちの言葉
僕のまわりにはけっこう原発推進派の人がいる。
「太古の人類が火を手にしたのと同じように、自分たちは原子力という新しい火を手に入れた。考えてもごらんよ、もしも人類が歴史の中のどこかで火を手放していたら、今の我々は存在しないと思うよ」
東北でお世話になっている大先輩はこう言った。
「原発反対っていう理屈は分かるけど、電気なしの生活なんてできないだろう」
そういう意見の人も少なくない。原発が動いてなくても、夏の電力需要は賄えたじゃないですか、と反論しても、未来永劫大丈夫ってことじゃないだろうという言葉が返ってくる。どうやら問題の焦点は、「危ないからすぐ止める/原発込みの電力を前提にした社会活動を急停止することは現実的でない」というところにあるらしい。
福島から避難している人で「ナニがナンでも原発反対ってわけじゃない。でも、やっぱり反対せざるをえない」という微妙な心中を話してくれる友人もいる。
国力維持と世界経済への貢献のために原発を推進すべきだ! と話す人は少なくとも自分のまわりにはいないけれど、手を着けてしまった以上、続ける以外に道はない、あるいは、止めるにしても時間をかけて慎重に考えて、という人が大半だ。
たしかに危険なモノではあるけれど、人間にはそれをコントロールする潜在力がある。仮に今は難しくても、将来はきっと制御可能になって、未来の世代に迷惑をかけることなく、人類の歴史を進歩させることができるはずだ。
煎じていけば原発に前向きな発言の背景には、人間の能力への信頼があるのを感じる。
たしかに――、
昨年、太陽系の外に出たことが確認されたボイジャー1号や、地球や男女像を刻んだ金属板を積んでいつかどこかで宇宙人に見つけてもらえないかと遠い宇宙空間を飛び続けるパイオニア10・11号には原子力電池(放射性核種の崩壊熱を電気に変える電池)が搭載されていたそうだし、「未来少年コナン」の次にNHKで放送されたアニメ「キャプテン・フューチャー」の腕時計はズバリ「原子力時計」だった。鉄腕アトムの10万馬力の源が小型原子炉だったことを持ち出すまでもなく、原子力は夢の技術で、それはすぐに手が届くものだという時代の空気があった。
発電した後の高レベル放射性廃棄物については核変換という手段が志向されている。半減期が長くて長期保管するのが危険な放射性核種に中性子をぶつけるなどして別の原子に変化させてしまおうという方法だ。万年単位の時間がかかる核のゴミの放射線レベルの低減を数百年に縮めることができるとされている。錬金術そのものとも言えそうなテーマだが、放射性同位体漏洩事故を起こしたJ-PARCの研究メニューのひとつでもあるという。実現できれば夢の技術だが、残念ながら原発のスタート当初から研究されてきたのに、現在もまだ実用化には程遠いそうだ。しかし、未来永劫実現不可能だと断言することはできないだろう。
言葉として残された人類の歴史は数千年だが、火を手にしたのは何万年も昔だった。それからの長い時間の中で、人類は火の危険をできるだけ避けながら、火を通して文明を発展させてきた。そのことを考えれば、放射性廃棄物の残留放射線量がセーフティーになる、万年オーダーの先の未来に向けて、原子力を扱う技術を伝承していきながら、そのデメリットを減じていくことが「できない」とは言えないだろう。
脱原発・反原発の人たちの言葉
・原発事故の被害を目の当たりにして原発の運転はあり得ない。
・原子力発電は経済的な発電方法ではない。
・人間のやることに絶対はないから、必ず原子力事故は起きる。
・発生した時の被害の大きさは原子力によって導き出されるいかなるメリットにも引き合わないほど深刻で甚大なものになる。
・核融合を行う太陽はともかく、核分裂反応は自然界ではほとんど起きない現象である。人類が長い歴史の中で取り扱ってきた技術の流れとは根本を異にするものなので、手を染めるべきではなかった。
・原発は原爆と同じ。原子爆弾で起こる反応をゆっくり行っているに過ぎない。
・広島の原爆では1㎏のウランが核分裂反応を起こしたといわれるが、原発は福島の2号機クラスで1日に3㎏のウランの核分裂が起きる。それだけの放射性廃棄物(核のゴミ)が生成されている。
・放射性廃棄物から出る放射線が安全なレベルに下がるまでにかかる時間は、10万年とも100万年ともいわれている。
・フィンランドで建設中の放射性廃棄物処分施設オンカロは、10万年後の人類との間では言葉や文化が継承されていないことを考慮て、将来の人類に対して存在を秘匿する施設として造られている。
・4つのプレート境界に位置する日本では、万年オーダーに渡って安全に地層処理を行える場所はない。
反対の理由は、まだまだたくさんある。論点が多すぎることがかえって話を複雑にしているのではないかと思えるほどだ。でも、それは原発への不安や不信の根深さを物語るものでもある。言葉にすることのできない恐怖心が背景にあるようにも感じる。
ただ、原発の被害に直面している人たちが話す言葉は、原発反対の各論と、時として少し違って聞こえることがある。
福島の人たちから聞いた言葉
福島県の南相馬に暮らす会社経営の男性はこんな風に話していた。
「震災前には原発の仕事もしてきた。受入研修にも出席したことがあるよ。低線量の放射線はかえって健康にいいと話していたのが印象的だったな。ラジウム温泉なんていうのもあるくらいだから、たしかにそんなこともあるのかなと思うよ。でもね、いまは原発反対だ。家族がばらばらに生活しなければならないのも、町がこんなになってしまったのも原発事故のせいだ。原発さえなければって思わない日はないよ」
いわき市の男性は震災から1年後、初めて会った日にこんな話をしてくれた。
「原発反対とか賛成とか、そういう議論じゃないんです。町には東電の社員や原発関係の仕事をしている人がたくさんいます。原発事故は憎いですが、働く人たちに恨みはない。感謝してもいるほどです。でも、そういうこととは一切関係なく、原発はすべて廃炉。それしかありません。事故を起こして、これほど甚大な被害を及ぼしたことのけじめとして、東京電力は第一と第二あわせて10機福島にある原発は、少なくともすべて廃炉にしてもらわないと」
論点はたくさんあるけれど、地元の人たちが「廃炉は議論以前の問題」という気もちなのだということを、言葉としては矛盾するけれど基本に置かなければならないと思う。そうでなければフェアじゃないからだ。
「事故の前の状態に戻してよ」
事故を起こした側が被害を受けた側からの補償請求を査定するという逆立ちした話し合いの現場について見聞きする中で思うのは、及ぼした側と受けた側のあまりにも大きなアンバランスだ。
元に戻すことができないことは誰もが理解している。
だからといって、加害者の裁量で被害者の補償が案分されていいことになんて、どう考えてもつながらない。
原発の再稼働や推進の前提になるのは、現地の人たちの目線に(敢えて言うけど)下りてきて、「それなら再開していいよ」と被害を受けた人たちから直接合意してもらうこと。それが必要不可欠な条件だと思う。
話し合いのステージ
そんなことを考えていた時に見つけたのが、「あいちトリエンナーレ2013」に出展した建築家の宮本佳明(みやもと・かつひろ)さんのWEBページだった。
「福島第一原発神社~荒ぶる神を鎮める~」という作品に向けた作家自らの解説は、第一原発が置かれている状況がクリアに描き出すものだ。
最終処分場はおろか中間貯蔵施設の敷地さえも決められない現状では、たとえ廃炉解体に成功したとしても、それにともなって発生する大量の高レベル放射性廃棄物を原発敷地外に搬出すること自体がそもそも不可能である。一方で、福島第一原発の敷地内で地層処分を行うことも、処分場として想定される地下300m以下の地質や地下水等の条件を考慮すれば現実的ではない。とした時、むしろきっちりと補修を施した原子炉格納容器に水を満たし、いわゆる「水棺」状態のまま十分な低線量になると考えられる1万年以上の遠い未来まで、どんなに手間とコストが掛かろうとも安全な状態に維持管理し続ける以外に、私たちに残された道はない。
建築家である宮本さんがトリエンナーレに出展したもうひとつの作品「福島第一さかえ原発」について、橘画廊が紹介するページにはこんな記載がある。
建築家の視点で原発の図面を検討し、わかったこともありました。例えば「建屋が格納容器を支えているのではなく、格納容器が建屋を支えていること」がその一つです。宮本によると、建屋自体はきゃしゃな構造で、その機能は作業のための内部空間の確保だけです。このあたりが「建物」ではなく「建屋」と呼ばれる理由なのかもしれません。
破損した原発をどこかに持っていくことはできない。
この場所で水棺処理などによって崩壊熱を取り除きながら、この場所に万年に渡って立ち続けるしかない。
ここが出発点だ。
推進するか原発ゼロか。福島第一原発の現実を議論のステージにしない限り、話は前に進まない。
宮本さんの文章を読みながら、日本交渉学会の理事でディベートの研究で知られる豊田愛祥さんから聞いた話を思い出した。「ディベートは勝ち負けが大切なのではなく、論点を明らかにしていくことにこそ意義がある。自分とは反対の立場に立って議論してみると、これまで見えなかったものが見えてくることがある」といった話だ。
原発事故の悲惨さから、反射的に脱原発、反原発と声を上げるのではなく、仮にでいいから原子力推進の考えに立って問題を考えようとしてみる。
原発を将来に向かって推進しようと考えるなら、そんなこと許せないと考えている人たちの立場に立ってみる。
自分の立場を離れることで見えるものは、きっとある。
事故を起こした原発を鎮め、万年に渡って安全を維持しながら放射能の減衰を待ち続ける計画を作り上げ、その上で既存の原発の絶対的な安全性の担保と、人類が核変換という夢の科学技術を手に入れる蓋然性を具体的かつ国民全体が納得できる形で示し、なおかつもちろん今回の原発事故で苦しみを受けている人たちから直接、「いいですよ。くれぐれも安全に頼みますね」との言葉を掛けてもらえるような原子力技術。
そんな未来も不可能じゃないのではないか。いや、そこまで真摯な原子力技術推進派であれば、10万年後の子孫たちに、原子力を推し進める判断をした意義を、間違いなく継承していけるはずだと考える。
●TEXT:井上良太
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