京都新聞(http://www.kyoto-np.co.jp/)によると、壇ノ浦の合戦の数ヶ月後に発生した元暦地震の痕跡が見つかったとのこと。
元暦地震はあまりの被害の大きさに翌月「文治」と改元されたため文治地震とも呼ばれている。震源は京都府と滋賀県の境目付近を走る琵琶湖西岸断層帯とされており、記事には断層の西側が6~8メートルも隆起したと書かれている。
鴨長明の「方丈記」にこの地震のことが記された部分を探してみた。大地震を示す古語である「おほなゐ」の言葉に続けて、京都の町では壊れなかった建物がなかったほどの揺れだったと記されている。そのほか、内陸の断層帯が動いたと考えられる地震であるにもかかわらず「海かたぶきて陸をひたせり」「なぎさこぐふねは浪にたゞよひ」と津波を思わせる記述もある。あるいは琵琶湖や大坂湾では津波が起きたのかもしれない。
また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。
いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。
家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。
おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。
その中に、あるものゝふのひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、ついぢのおほひの下に小家をつくり、はかなげなるあとなしごとをして遊び侍りしが、俄にくづれうめられて、あとかたなくひらにうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲もをしまずかなしみあひて侍りしこそあはれにかなしく見はべりしか。子のかなしみにはたけきものも耻を忘れけりと覺えて、いとほしくことわりかなとぞ見はべりし。
かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかども、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。
家の中にいれば押しつぶされる。外に逃げれば大地は裂ける。羽根がないから空に逃げることもできず…。
おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。
この一語に尽きる。
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