[世界友情の日]武器を取る手と友だちの肩を抱く手

Rinoue125R

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2月22日は「世界友情の日」。

検索サイトに「戦場」「子供」というキーワードを打ち込んで画像検索してみると、これでもか、これでもかというほど悲惨な映像がブラウザを埋めていく。目を背けたくなる。でも、たとえ目を逸らしても現実は何も変わらない。

小学生くらいの少年が自動小銃を構えている。10歳にも満たない子供が対戦車ロケット弾を抱えている。拳銃をもてあそぶ幼稚園くらいの子の写真もある。完全装備の欧米兵と現地の少年がハイタッチしている写真がある。もちろん銃を突き付けられ怯えている子供たちもいる。血を流し倒れている少年、父親に抱きかかえられた小さな子供の写真も…

検索画面に表示される子供たちは、本来なら「友情」を学ぶ年頃のど真ん中。スポーツしたりゲームをしたり鉛筆を握ったりするその手が、人を殺傷する武器を握りしめている。他人を傷つける道具を手にすることで、少年たちは自分自身の気持ち、彼等にとって一番大切なもの、自分自身の未来をも傷つけているかもしれない。

何という現実。

ご存知だろうか、2月22日は「世界友情の日」だ。友情なんて言葉がハスっ葉でぱっぱらぱ~な軽薄なものに感じられてしまうほど、世界は厳しい。しかし、友情によって平和を拓いていきたいと願う人たちは確かにいる。

私たちが暮らす地球という星。その本当の姿をどう捉えればいいのだろう?

戦争と平和がスイッチする瞬間

銃器を抱えた子供たちの映像や画像を見るにつけ思うのは、こんな地球に誰がした、という事だ。人が人を殺す道具を持つ状況を作ったのは子供たちなのか、それとも私たち大人なのか。

2月22日を世界友情の日に決めたのは1963年のボーイスカウト世界大会だ。この日は元・英国陸軍軍人でボーイスカウトの創立者、ベーデン・パウエル卿の誕生日でもある。

ボーイスカウトというと、礼儀正しくて、社会奉仕活動に力を入れている極めて健全な青少年たちを思い浮かべるが、その発祥は戦争と不可分だ。そもそもスカウトという名称そのものが、斥候・偵察という軍事的な作戦行動に由来する。

1899年、植民地戦争と位置付けられるボーア戦争で、パウエルらの少数の部隊は、一般市民とともに大多数の敵に包囲されていた。その時、市民の子供たちがスカウト(斥候・偵察)として活躍するのを、パウエルは目にしたという。圧倒的に不利な防衛戦を耐え抜いたことでパウエルは国民的英雄として称賛された。その彼が、少年たちを組織するボーイスカウトを創立したのである。

ある意味、ボーイスカウトは戦場での少年たちの勇敢な活躍から生まれたといえる。

しかし、こんな逸話もある。イギリス発祥のボーイスカウトがアメリカ全土に広まっていくきっかけとなったとされる「無名スカウトの善行」というエピソードだ。

シカゴからロンドンを訪れていた出版業者の男性が、霧深いロンドン市街で道に迷って困っていると、霧の中から忽然として現れた少年が「May I help you?」と声をかけ、道案内を引き受け、無事に目的地まで案内した後、「僕に善行をさせてくださって、ありがとうございました」とチップも受け取らずに霧の中に去っていったという話。ボーイスカウトが本格的な活動を開始して1年足らずの出来事だったという。

これはつまり、ボーイスカウトは戦争体験から生まれながら、しかし誕生した瞬間には、善行や友情といった人間の良い面を育てる活動へと変貌していたことを意味する。

ここに希望が見いだせないだろうか。世界は不条理極まる紛争や絶望的な貧困に覆われている。しかし、子供たちの手が武器を握ることを止めさえすれば、その手は互いに握手する手となり、友の肩を抱く手となり、困っている人に差し伸べられる手にもなるのだ。

何度でも見詰め直したい。私たち大人は、果たして自分の手の中に何を握っているのか。子供たちに武器を握らせることに、自分は加担していないと言えるのか。

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