南海大震災記録写真帖(3)

iRyota25

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次に震災後中央より派遣されたる専門家の調査

調査の結果によれば、安芸郡室戸岬方面は今回の大地震によりて四尺(約1.21メートル)ばかり地面が隆起して、室戸港はために浅くなり、船の出入りに支障を来すに至ったという。

しかるに西方高岡郡須崎方面はこれと反対に地面が四尺ばかり陥没して、須崎港内は深くなり、地震前まで桟橋に横着け出来なかった七千トン級の支那通いの貨物船春祥丸は、港内陥没のおかげでその後自由に桟橋へ着くようになったのである。また旧桟橋ならびに埋立付近の岸壁は陥没により満潮の場合は岸の表面を洗うに至ったので、復興工事は従来よりなお一メートル以上高くせねばならなくなった。

かくの如く須崎方面の陥没は今後の風水害の発生する場合、従来より以上の被害を受くること必至なれば、大いに警戒を要するであろう。

須崎市街地浸水の程度

青木ノ辻黒岩付近は町の溝まで来た位であった。それより東に行くに従い深くなり、津野神社の通りを南海岸通りまで、その辺一帯はまず四五尺(1尺は約30.3センチメートル)の程度で、新町通りの森光付近は六七尺位、旧桟橋通り一帯は家の軒が浸かった。また須崎港より北方、駅前古倉一円も同じく軒まで浸水したのである。

さて、青ノ辻より西方で家の倒れた所はたくさんあるが、津波の襲来した下町方面は、倒壊した家の下敷きにされたまま、生きながら無惨な溺死を遂げたのは、実に同情に堪えない次第であった。私は翌日駅前を視察した場合、広場に並べられた溺死者の残骸を見たが、さすがに同情と哀悼の念に堪えず、その写真だけは撮れなかった。

次に津波の際、鍛治橋以東の橋は全部沈下してしまったことを附記しておく。

JR須崎駅

現在の須崎市には当時の町名が多く残っています。記事にしばしば登場する堀川は現在暗渠となり、かつての川筋は川端シンボルロードとして整備されています

被害者の実話

(1)ある船員の話
その日私は百トンばかりの機帆船で幡多郡下田港を出帆して高知へ行く途中でした。須崎沖に差し掛かった頃がちょうど午前四時過ぎと思うた。私は当番でブリッジに立って同僚と二人で見張っていたその時、東方室戸岬方面に当たって、海上がちょうど雷光のように細長く筋を引いて青白くピカピカと光った。すると本船が暗礁にでも乗り上げたようにゴツゴツと気持ちの悪い振動がした。するとまたピカピカと光った。また同じ感じがした。それが何回も続いた。しかし船は相変わらず進んでいる。これは変だぞ、地震ではないかと二人が話したが、急に高知行を変更して須崎港へ避難した。しかし須崎へ入稿して予想外の大震災に驚いたのでした。
(2)ある漁師の話
私は良いから出漁して夜のうちはイカを釣り、明けたらガシロでも釣るつもりで神島の近くを漕いでいました。空はよく晴れていてモウ夜明けも近いと思う頃でした。遥か東野沖合で雷光のように空がピカピカと筋になって光りました。また何回も同じように光った。その光が何となく不思議に思えた・そして漕いでいる船が乗り心地も異様に感じた。その瞬間、峰ケ尻の山の石がガラガラと崩れ落ちる音が聞こえて来た。私はその時に初めて大地震だという事に気付いた。それから私は早く帰るつもりで中の嶋の戸合いを抜けましたが、常なれば岩の間をようやく通るだけしかない広さの所が、こは如何に。島の間は一面の海となって岩は見えず、どこでも自由に通れるのに驚きました。私はこれはただ事ではないと思い、一生懸命になってようやく高礁の辺まで漕ぎつけました。

夜はほのぼのと明けそめてウドノクチの大きな山の崩れた所も見えまして、地震であった事がよく判りました。そのうち船は潮流に乗って、恐ろしく速く旧桟橋の前まで流れ込みました。私は力一パイ漕いで港へ入ろうとしましたが、また逆流になって再び野見岬押出しまで押し流されました。その流れの速い事は例えようのない恐ろしい速さでした。船は潮流に任せて出たり入ったり幾度も押し流されて、何とあせっても浜へ漕ぎ寄せることが出来ない。そのうち機械船が来て漕いでくれてようやく入港する事が出来て命拾いしました。

それから上陸して須崎の被害の予想外大きいのに実に驚きました。また私の家も津波にやられていました。

(3)ある婦人の話
私の家は新町通りですが、地震がすむと早や津波が来るよと云うので、大勢の人とともに須崎橋の方へ逃げました。私たちの近辺は本通りの外は、どこに行くにも小さな路地ばかりで、こういう場合とても逃げ延びることは出来ません。また、青木の辻の方へ行くのも危険だと思いまして、皆さんの行く方へ一緒に走りました。須崎橋を渡ればどこからでも城山に登ることが出来ますので、そのつもりで北へ北へと無中で走りました。もちろん真っ暗がりで何が何やらさっぱり判りませんでした。

ようやく吉本商店の付近まで行った時分に、南から来ると思うた津波がこは如何に、反対に北から大きなうなりを立てて逆巻いて来たではありませんか。

その波は家の高さほどで、大きな材木をゴロゴロガラガラと立てかやして来ました。その勢いで家はベリベリバリバリと物凄い破れる音が聞こえて来ました。また、子を呼び、親を呼び、助けを求める悲痛な叫び声も手に取るように聞こえました。私は一度は流されていきましたが、家の軒に手が掛かったのを幸い、一生懸命これをつかまえて助けを呼ぶうちにやっと二階から人に引き上げてもらって命拾いをしました。しかし他の人々、ことに女子供さんたちは今の瞬間に皆波に呑まれていきましたが、私はアノ時の事を考えますと、怖いとも何んとも形容の言葉がありません。ただ夢のようであります。

●新町より城山へ避難した人の話

私は地震の際は家族三名がすぐ裏庭へ飛び出して、皆ぎっしり抱き合っていました。ようやく地震がおさまりますと津波が来ることに気付いたので、何物をも手にする暇もなく、城山を目的に町へ出ました。最初は津野神社の前を極楽橋の方へ逃げるつもりでしたが、あの橋は非常に弱くてしかも橋台が低いので危険だと思い、方向を変えて新町を西に走り、鍛治町橋を渡ることにして、無中でその方へ走りました。

橋は自由に通れると思いの外、橋の付近は一パイの避難民と車などで身動きも出来ませんでした。また橋を渡るのに行列になって、後ろから押す人の勢いで自然に体を運ばれて行ったという有様でした。この場合、幾くらい気があせっても、橋は狭いし人は後から後から増える一方で、どうすることも出来ませんでした。

なぜにこの橋でかくも混雑したかといいますと、これより下の橋は全部潮が来て、数尺沈下し、すでに渡れなくなっていたということが後で判りました。

さて今は呑気に話もできますが、あの時もしも宝永の津波くらい潮が高く来て、橋が流れたならば、昔と違い夥しい死者を出しただろうと思います。しかし現在の状態で堀川を置くことは町民の生命を無視するも甚だしいと思います。この【貴重な経験を生かして一日も早く子孫のために安全な事にせねばならぬと思います。

(4)多ノ郷村大間の人の話
私は大地震が止むとモウこれで大した事はあるまい。寒いから皆内へはいって休もうかと思ううたが、フト思い出したのは地震後の津波である。――昔の人の話に津波の入ると前は必ず海近くの川の水が無くなるから気を付けよと聞かされていたので、さっそく近くの大間川へ見に行った。すると暗の中にも川の水が一切無いことが判った。これは大変が、津波が来るに違いないと思い、大急ぎで駈け戻って大声でこの事を付近の者に知らしてやった。私は家族を急き立てて、何物をもとるひまなく、二丁(約220メートル。1丁は約109メートル)ばかり西の山を指して走りました。津波は早や大波の音を立ててゴウゴウと真っ白に押し寄せてきました。何様真っ暗な道を川端づたいに逃げるので捗らず、津波は既に私どもの脛のところまで来ましたが、ようやく山に駈け登る事が出来ました。

(5)汽車に乗った人の話
私は九州から汽車で名古屋へ向かう途中でした。ちょうど広島県に差し掛かった頃と思う時、何だか汽車がグラグラと揺れるではないか。その揺れ方が不通の記者の揺れ方と異なっている。アラおかしいぞ、変だな――私は商売柄、家にいる方より旅行の方が多いので、汽車には乗り馴れている関係上、うたた寝の中にも変な揺れ方にすぐ気がついた。やがて汽車は途中停車してしまった。しかし箱はまだグラグラ揺れているので初めて地震という事が判った。それから十五分くらいして発車したが、私はどこかに大地震のあったことを想像した。

(6)今回の大地震と異様な海上の光り
今回、大地震のする毎に土佐の東方海上にピカピカと雷の如く光って見えた事は、土佐沿岸至るところから目撃する事ができたのは事実である。また、遠く九州の東岸からも土佐の会場が光ったのがよく見えたと九州から来られた人の実話であった。

「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館
「南海大震災記録写真帖」高知県須崎町古市町 竹下写真館

土佐の五大地震の記録

一、白鳳十三年甲申冬十二月十四日
二、寛文元年十一月十九日
三、寛永四年十月四日
四、安政元年十一月四日(午前九時頃)五日(午後五時頃)
五、昭和二十一年十二月二十一日(午前四時十九分)

白鳳より寛永まで――千二百八十年目
寛永より安政まで―― 百四十六年目
安政より昭和まで――  九十三年目

安政大地震(古書・須崎史からの引用)

安政元年甲寅十一月四日朝五ツ時(午前八時)地震あり。敢えて強きにあらざるも長震にして、尋常に異なれり。(一部脱落か?)否や潮狂いて堀川に逆流すること夥しく、港内に碇泊せる船を東へ流し、西に引くこと終日なりき。この日、八幡磧に例の蛭子祭相撲興業ありて人々群衆せしが、この有様を見て一方ならず心配し、早くも山に逃げ上がり、夜半に家に帰りしもあり。

翌五日は天晴れ渡りて、一片の雲なく、風なく、人々安堵の思をなせり。しかれども暑きこと夏の如し。相撲の翌日の事とて酒宴を張れる家も多かりしが、夕七ツ半時(午後五時頃)に大地震起こり、漸次強くなり、忽ち暗夜の如く、大地は所々に二、三尺、四尺、五尺、六尺と裂け、中より潮を吹くあり。土煙を飛ばすあり。一開一合山崩れ、谷湧き居宅土蔵皆倒れて算を乱せり。人々五人、六人手に手を取りて泣き叫び、東西南北に駈け廻り、父子兄弟互いに呼び、あるいは俯伏せに、あるいは仰向きに倒れ、二三間歩いてはまた倒れ、歩行自由ならず。

半時ばかりにて稍々小震となりたり。この時人々は宝永の大変の如く大潮溢れ来たらん、早く山に登るべしとて、我先にと取るものも取り敢えず山に駈け登る。稍々心豪なるものは布団等を携えて逃れたり。時しも大潮天を蹴て、海門に衝き入り来る物音凄まじく、乾坤崩るるかと思うばかりにて、光景うたた凄惨なり。堀川橋は皆地震に揺り落とされて、その上に潮水二三丈高く、数百の家または船を浮かし来ること実に目覚ましかりき。これを見て逃げ遅れし人々、すわ堀川橋は渡るべきすべなし。とく西の五紋中山へ登れよと叫び、叫びたれば皆々先を争いて刈谷の方へ走り行けり。しかるにまた二つの石の堤、推し破られて大木人家等池中に押し流される数百の人々は打ち渡らんと駈け入りて、水中の洲上に躍る様、誠に哀れに見えたり。されど幸いにも寛永の津波よりは潮嵩低かりしかば、潮の退く間を見て辛うじて西の山に登り、死するに至らざりき。

既にして日は暮れけるに、今宵は暗夜なり。地震は大小幾百という数を知らず。人々暁まで一睡だにせず、相引き合いて神を念じ、仏を祈りけるほどに、夜ふかくなるに随い、着衣に置き凍れる下は雪よりも白し。この夜山にて、親子はなればなれにて生死も知らぬ者多く、親は子を呼び、子は親を慕い泣き悲しむ声哀れなり。

夜は明け六日となりたるに、この日は晴天にも日光人を射る。地震はなお止まず。されど壮者は各家に帰り見れば、昨日昼の仕事をなせしままにて、戸障子は明け放し、たまたま閉ざし家ありても壁は落ち、柱はゆがみ、瓦は飛び、一軒として全きものなく、我が家に入りて衣類、布団、米、味噌等を手当たり次第に取り、後をも見ずしてまた山に逃げ行けり。

その翌七日も地震は止まず。総じてこれより四、五日間は昼夜四、五十回も大震あり、人々家に帰る能わず。何十日間も山にて暮らせしが、十二月の末にもなれば稍々震いも遠くなり、人々信念を迎える準備に忙わしかりし、その三十日にまた大地震ありて狼狽し、東西の山に駈け上がれり。越えてその翌年も時々震動止まざりしは左に記すが如し。

大震 十二回
中震 一一一回
小震 五九六回

計 七一九回

右の記録は高知市鷹匠町水門御万人嘉助(当時七十五歳)の調査せしものなり。

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