安政の大地震と古老の実話
著者私の祖母は文政十二年二月生まれで、安政の大地震の時はちょうど三十二歳でした。私が未だ幼少の時、その祖母から、あるいは他の老人から度々気化された実話を左にご紹介する。さて曰く、安政の大地震のあったその日は、天気は良く今も変わらぬ正月の相撲気分で、朝から須崎の浜で蛭子相撲があって、近郷近在から出て来た見物人で浜は黒山の人でした。
夕方になって相撲は首尾より済んで、優勝した力士は贔屓の若者等とともに町を練って家に帰って来て、盛んに酒宴を催していた。日も暮れかかったので皆夕食の準備をしていた。いわゆる黄昏の時分でした。突如大地震となった。酒どころではない。それ地震だというので皆戸外へ飛び出した。見る見る大きな建物は次々と倒れていった。しかし人は皆津波が来るのを恐れたが、格別の事もないようでした。
地震はようやく済んだ。日も全くくれた。その時、どこでいう友梨に空の方から大声で潮が入るぞ、潮が入るぞと人の叫び声が聞こえて来た。ソラ津波が来るというので、皆衣類や食糧等を抱えて城山へ逃げた。地割れの所は雨戸を敷いて通った。
やがて津波は物凄い音をしてゴウゴウと押し寄せて来た。八幡宮の社内は潮が来なかった。しかし堀川の橋は全部落ちてしまった。町の東の方は家も船も皆流れてしまった。もちろん人もたくさん死んだ。我々は地震が済んでも毎日毎晩小揺れがするので恐ろしくて、一週間ばかり山にいたが、家のある人は地震の間に間に走って来ては、鍋釜等の日用品を取って来て、山で暮らしていた。
さて、大地震の後で夜空にどこで言うともなしに大声で津波が入るゾウー、とくり返し叫びましたのは実に不思議であるが、その叫び声が須崎中はもちろん、近郷近在は元より遠く斗賀野村方面にまで同じように聞こえ渡ったという。また、大地震の時、角谷の沖へ大きな火柱が立ったと言っていた。しかしこの声は確かに弘法大師のお告げの声だと噂していた。
さて今回の大地震も夜中であったが、かかる不思議な現象は少しもなかったのである。なお古老の言い伝えによれば、大地震後は必ず津波が来るが、その津波は地震後すぐ来るものではない。ゆっくり飯を炊くだけの余裕はあるから、慌てず落ち着いて十分の用意をして避難せよと云っている。しかし今回の津波は地震後わずか十五分足らずにやってきたのは何故か。この問題につき地震学者の言によれば、津波襲来の時間は震源地の遠近により相違するから一様にいえない。また地震の強弱の程度にも関係があると述べた。
宝永の大地震
宝永四年丁亥十月四日巳の上刻より東南方の大鳴音とともに、大地震起これり。この日天朗らかに暖かく人々単衣を纏いたりしが、変起こるにおよびてその騒動一方ならず。今こそ天柱の拆け(裂け)、地維欠くるかと思うばかりにて、如何なる丈夫も歩行しがたく、山岳の崩るる土煙、田方に漲りて、天地すなわち海冥稍々暫くは咫尺(しせき)を弁ぜず(近い物すらよく見えない)、ために方角を失いし老若男女、哭き叫ぶ様、実に悲惨を極む。しこうして大地の裂罅(れつか:裂け目)より潮水湧き出で、人家は倒れ、あるいは崩れ、無難にて存するものは一軒もなし。山里の樵夫は家業のため山に行きけるにこの難に逢い、落ち来る岩石に圧されて死する者数を知らず。未の上刻より大潮浸入し来たりて人家はことごとく流れ、死人筏を組たるが如く、牛、馬、犬、猫等、また皆死す。幸いにして山に逃げ上り辛うじて死を免るる者あり。親兄弟足下に流れ死するも、助くるに力及ばず。哭声山谷に響き渡り、惨憺たる光景はよく筆紙の尽くす所にあらざるなり。翌日の晩まで潮水の来たり侵すこと十二回。しかるに須崎の沖なる石ケ礁より沖は、海上すこぶる静かなりしと云う。あたかもこの時、角谷の山頂より眺めいたる人の話によれば、戸嶋と長者の鼻の間、潮全く干き、しばらくは沼の如く。ここに小舟に二人乗り、流れ来りしが、一人は船より落ちて沼に入り行方知れず。残れる一人は舟にありと見えしが、たちまち大潮来りて小舟とともにその影だに見えずなれり。その後聞けば一人は新町の何某、今一人は恵美寿屋五衛門にてありしと。
この地震には畿内紀州の海辺は言うに及ばず、東は豆州箱根より、西は九州の東南岸、いずれも大潮に侵され、阿波の国もまた潮高かりしと。当国のうち種崎より宿毛までの内浦には大潮浸入し、赤岡より東の灘辺は多少の浸水に止まりしとぞ。
須崎浦に入り来りし潮は半山川筋(新荘川)は下郷の中、天神の上四五丁の所に及び、多ノ郷は加茂宮の前、吾井ノ郷は為貞という所まで侵入せり。これらはいずれも川に沿いて侵入せしなり。土崎は財貨のことごとく流出し、押岡、神田はこれに継手人家の流失あり。池ノ内村は在家被害なく、須崎は死人四百余人あり。
かくも死人の多かりし所以を考ふるに、糺池より出づる堀川の橋は地震のために落ちしところへ潮入り来り、人々渡るべき便なく、後より大勢押し掛け先成る者堀川へ圧し込まれて、大半死したるなり。しかるに水練ある者あるいは天運に叶える物はたまたま死を免れたり。
この時このあたりに住居せし渋谷金の王と言える力士、大橋(今のメガネ橋)の元に来り、多くの人を援けて、その身はついに伊勢の松に登りて助かりしという。
この時も家屋を流されたる人々は皆山に仮住居し、縁を求めて流れざる家を頼み、飢寒を凌ぐなど、目も当てられぬ有様なり。大潮に家財道具、着物、食料等の流れたるを、流れざる在家の者ども、これ幸いなりと理不尽に拾い取り、罹災者の憂いを顧みず、賊徒同様の振舞いありしかば、官府より須崎庄屋年寄りに仰せ付け、きっと穿鑿(捜査)せしむ。しかるに隠し置きて出さざる徒多きにつけ、被害者等在家に入り込み、無断にて家宅を探し口論、闘争に及びたりしこと多かりき。
糺の池には死者流れ集まりて筏を組める如し。その中にて衣類その他に見覚えある者は、これを証に己が身内を尋ね出せり。さもなき者は、たとい父母兄弟といえども面影変わり果てて求めるべく便なく、かえって物凄き体となり。尋ねる術なしとて街道に泣き叫べどもその甲斐なし。池中に浮沈む死体は鳶、烏、これをついばむ。ああ、何という惨ぞ。これについては官府より指図に従い、長さ数十間(1間は約1.82メートル)大坑を二列に掘り、これにその屍を埋めたり。
のちに安政三年、その百五十年忌に当たり、古屋竹原(尉助)当町大善寺谷に碑を建て題して「宝永津浪溺死之塚」と云う。
この変災に家を流されたる者等は飢餓に及ぶにつき、官府より救米を定められ、男三合、女二合にて三十日、あるいは四、五十日の間その家業に就くまで給せられ、小屋掛け、木材等、手寄りの山より給付されたり。
この大変ありて人心洶洶(きょうきょう:おそれおののく様子)たるに乗じ、逃道の暴者、盗賊の類これあるべしと、官府に於いては詮議の上その役人・朝日奈忠蔵を須崎に遣わせたり。岩永より角谷までの間、往還道筋あるいは海となり、あるいは海水溢れ、往来する事あたわず。すなわち鳥越阪の峠より池ノ内村へ横道を作りて下分村岡本に越す。この外笹ケ峰という古道を往還の道として角谷山際に通ぜり。諸役人の送りの番所も当分池ノ内村にあり。送夫の者どもここに詰めたり。翌々年の秋、今在家本番所に帰る。
宝永津波溺死の塚
この塚は昔宝永四年丁亥十月四日大地震して津波起こり、須崎の地にて四百余人溺死し池の面に流れ寄り筏を組みたるが如くなるを、池の南面より長き坑を二行に掘り、死骸を集めありしを、今度百五十年機の弔いに、ここに改葬するものなり。その事を営まんとする。折しも安政元年甲寅十一月五日、また大揺りして海溢しけるが、昔の事を伝聞かつ記録もあれば人々思い当たりて我先にと山林に逃げ上りければ、昔の如く人の損じは無りしなり。ただその中に船に乗り、沖に出んとして逆巻き波に覆されて三十余人死したり。痛ましき事なり。何なれば衆に洩れてかくはせしにと云うに、昔語の中に山に登りて落ちくる石にうたれ死し、沖に出た者恙なく帰りしと云う事のあるのを聞き、誤認ししものなり。早く出で、沖にあるは知らず。その時に当たりて船を出す事、難しかるべし。誡むべき事にこそ。まさに昔の人は地震すればとて、津波の入ることを弁えず。波の高く入り来るを見るよりして逃げ出でたれば、おくれて加堂の如き難に逢いたり。げにもまた悲しまざらんや・地震すれば津波は起こるものと思いて油断すまじき事なり。されど揺り出すや否や波の入るにも非ず。少しの間はあるものなれば、揺り様を見斗い、食料。衣類等の用意をして、さて石の落ちざる高所を選びて遁るべし。さりとて高山の頂きまで登るにも及ばず。今度の波も古市神母の辺は屋敷の内へも入らず。昔も伊勢ケ松にて数人助かりしといえば、津波とてさのみ高きものにも非ず。これら百五十年以来二度までの例なれば、考えにもなるべきなり。今ここにこの営をなすの印は、まさに後世に若しかかる折の為に、万人の心得にもなれかしと衆議して意思を立て、その事をしるさんことを余に請う。よってそのあらましを挙げてに逢い、書きつけるものなり。
安政三年丙辰十月四日
古屋尉助識
附本願主
発生寺現住
智隆房松園
世話人
亀屋久蔵
鍛冶活助
橋本屋吉左衛門
附記 右石碑は大善寺の麓双又地蔵と軍人墓地との中央にあり
白鳳年間の大地震
今を去ること千二百五十余年、天武天皇の御世白鳳十三年甲申冬十二月十四日、発震。土佐の国田畑五十余万頃(頃は面積の単位で白鳳期には1頃が5ヘクタール強だったとされる)陥没して海となるとは歴史の語るところなり。しかれどもこの時の地震に、土佐は果たしていずれの地点が陥没せしか。歴史はその詳細を語らざるをもって諸説区々たり。あるいは云う我が須崎の南方陸地なりと。いまだその当否を知らず。今を去る一千二百余年前、白鳳年間当国大地震在り手広き陸地陥りて海となりきといえり。いまその後はこのあたり(須崎)の南ならんと云う(高知県地歴史)
古老の伝説によれば、白鳳以前、我が須崎付近に戸島、千軒、野見、十軒と云いて戸嶋と野見は当町一市邑にして、長者の鼻は長者の住居せし屋敷跡なり。海のよく澄たる天気の麗らかなる日、干潮を待ちてこの所に至れば、井戸、石垣等を海底に認むるを得べしと。いまだその真否を験する能わずと書きしあり(須崎町誌)
お伊勢の松について
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