【明治三陸津波120年】息子へ。東北からの手紙(2016年6月16日)中島みゆきと寺田寅彦

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今年の6月15日は明治三陸津波から120年となる記念日だった。全国版の報道はいざ知らず、東北では新聞やラジオでも、明治三陸津波についてのニュースが流されていた。といっても、ほんのわずかだったが。

今回東北に来て、最初に立ち寄った釜石の石応禅寺で明治三陸津波の年号を見て120年になることを知った。明治の三陸津波は、干支から「丙申(ひのえさる)大海嘯」とも呼ばれる。120年目ということだから、今年の干支も丙申。明治の大津波から十干十二支が2回めぐったということになる。

6月15日には、丙申大海嘯で最も被害の大きかった釜石市に出かけた。たぶん、120年目の法要があるのではないかと石応禅寺を訪ねたが、法要は午前中に釜石大観音で執り行われたとのこと。本寺の方ではどなたかの葬儀が行われていた。

120年前の大津波の被害は大変なものだったそうで、釜石にも大船渡にも吉浜にも慰霊碑が建てられている。慰霊碑の多くは、惨禍の中で命を落とした人たちを追悼するとともに、その惨状と「繰り返さないように」との戒めを後世に伝えるものだ。

しかし、振り返れば明治の大津波の37年後には昭和の三陸大津波が発生し、多くの人々の命と生活が奪われた。5年前の東日本大震災でもそうだ。教訓がなかなか後世に伝わらないことを、繰り返される大津波の被害が物語っている。

まさに寺田寅彦がのこした言葉、「天災は忘れた頃にやってくる」だ。

ちなみにこの言葉は、寺田寅彦の著作のどこにもそのままのフレーズでは記されていないことから、別の人による作文ではないかと疑われたこともあった。しかし、少し前の日本地震学会広報誌「なゐふる」(2009年11月号)に、寺田寅彦の弟子だった中谷宇吉郎(世界で初めて人工雪をつくったことで有名な物理学者)が、「この言葉は文字通りの形で印刷には残っていないが、寺田が常々弟子たちに語っていたものである」と言っていたのが紹介されていた。「天災は忘れた頃にやってくる」は寺田寅彦の言葉だとしていいだろう。

話を戻すが、ここで伝えたいのは寺田寅彦が昭和8年に発表した、そのものズバリ「津浪と人間」というエッセイのことだ。

 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。

 学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」

 しかしまた、罹災者の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」

 すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。

寺田寅彦 津浪と人間 |青空文庫

明治の大津波から37年後の昭和7年3月3日、東北地方は再び大津波に襲われた。明治三陸地震に関連して発生したアウターライズ地震によって発生したといわれる昭和の三陸津波だ。

学者はもっとしっかり地震を予知すべきだと一般の人々はいう。学者は警告は発し続けていたという。80年以上も前に地震予知を巡って戦われていた論争が、80年後の現在もなんら変わらないということに驚かされる。

さすが寺田寅彦だ、と拍手喝采したくなるほどだが、東北に来て10日ほど。明治の三陸津波について調べたり、慰霊碑を捜し歩いたりしているうちに、寺田寅彦の文章に微妙な違和感を覚えるようになった。

今日伝えたいことの核心はここにある。

寺田寅彦の文章の特質は、達観と呼んでもいいほどの超越した視点にある。常人にはなかなか脱することのできない高みから、ズバリ指摘する太刀筋の美しさと、それでいてどこか飄々としたものを感じさせる文章のセンスが随筆家としての寺田寅彦を比類ない存在としているように思う。たとえば、「津浪と人間」にはこうも書かれている。

災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹藪の中に埋もれないとも限らない。そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことは相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎に埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。

寺田寅彦 津浪と人間 |青空文庫

二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼払われたのである。

寺田寅彦 津浪と人間 |青空文庫

内容はまさにその通りなのだが、どこか他人事というか、空の上から眺めているかのようなニュアンスが感じられてしまう。

寺田寅彦は言う。「それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである」とも。しかし、それでも違和感は払拭されない。

寺田寅彦の文章だけではない。明治の三陸大津波の頃に描かれた錦絵や瓦版、ビジュアルニュースやニュース速報とでもいった当時の報道に見られる言葉にも、同様の匂いのようなものが漂っている。

 【明治三陸津波120年】120年前はほんの昨日
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海岸沿いの集落を結ぶ道路もなく、津波の影響で船の航行もままならない状況を押して、津波の被害を受けた三陸海岸の実情をリポートしたそれらの報道が、なみなみならぬ熱意の産物であることはわかるのだが、何かが引っかかる。

昨日、気仙沼でショッピングセンターに立ち寄った時、その違和感が少し理解できたような気がした。

そのショッピングセンターは、地図で見れば東日本大震災で津波が遡上した川から続く平地にある。しかし、古くからの街道である東浜街道が上り坂に差し掛かる辺りにあって、しかも周辺には商店や住宅が建ち並んでいる。ショッピングセンターを訪れる人たちはみんな、笑顔で買い物を楽しんでいる。学校帰りの高校生たちが輪になっておしゃべりする。買い物カートを押したおばあちゃんが通り過ぎていく。小さな子どもが「買って、買って」とせがむ声まで聞こえてくる。もちろんいろいろな悩みを抱えた人もいるだろうが、そこには日常の時間が流れている。

そんなショッピングセンターなのだが、5年前の震災では1階が2m80cmも水没したのだという。店内には津波到達点を示す表示もある。この階段を上ればは屋上まで避難できると記されていたりもする。ここで生活している人たちは、震災の苦しみを経験し、その先に、震災の記憶とともに日々の暮らしを生きている。

そもそも大好きな随筆家である寺田寅彦の文章に違和感を覚えた理由は、おそらくここにあるのだろう。それは、現地の感覚。

流れ者のようなビジターのひとりである私に、現地の感覚などという大きなものが簡単に理解できっこないのは承知している。それでも、カーラジオから中島みゆきの「歌姫」が聞こえてきた時、歌詞の冒頭がこんな風に聞こえて目頭が熱くなったのは本当だ。

苦しいなんて 口に出したら
誰もみんな 疎ましくて逃げ出していく
苦しくなんかないと笑えば
辛い荷物 肩の上で なお重くなる

未曾有の震災。たくさんの失われた命。生き残った人たちの苦難…

平板な言葉など弾き返してしまうものがここにある。ここで生きていくことの意味を文字通り、肩に背負って生きている。そんな人の貫くような眼差しに何度も出会った。出会った眼差しから目をそらさずに、その眼差しの意味を受け止められるように、やって行こうと思う。

あの日、牙を剥いた三陸海岸の海。今は、沖合に牡蠣の養殖イカダが浮かぶ
あの日、牙を剥いた三陸海岸の海。今は、沖合に牡蠣の養殖イカダが浮かぶ
 寺田寅彦 津浪と人間 |青空文庫
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 息子へ。東北からの手紙(2016年6月10日)吉浜のおじさんとの5分間
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 ショッピングセンター 1階浸水高さ2.8m
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