いよいよ「南海大震災記録写真帖」の第三回目。今回は23ページ以降34ページまでの記事部分をご紹介します。記事の内容は記録、経験者の実話、過去の震災との比較、そして復興に向けての意見と多岐にわたります。記事部分をテキストとして転記するとともに、記事ページの写真を掲載させていただきます。
記事を書き写しながら、竹下増次郎さんの仕事がいかに貴重なものであるか、また、この大巻をまとめ上げる原動力となった「子孫のために伝えなければならない」という使命感の尊さがひしひしと伝わってきました。
南海大震災記録写真帳は、高知県須崎町を中心とした非常にローカルな記録ですが、全巻と通して貫かれている精神は、地域や地方を超えたユニバーサルなものです。たいへん長い記事ですが、ぜひお読みいただき、70年近く前にこの記録をまとめ上げられた人物がいたことの意義を感じ取っていただきたいと思います。
私たちは、ひとりひとりが竹下増次郎さんの後継者であることを忘れてはなりません。
南海・大震災記録
昭和二十一年十二月二十一日
須崎町の被害とその思い出
昭和二十一年十二月二十一日即ち旧暦十一月二十八日であった。この日こそ我々が永久忘れんとして忘れ得ない大震災の日なのだ。
さてその日は季節柄まだ酷寒というほどでもなかったが、年末の寒さは例のごとく、我が南国土佐の野山にもすでに冬は訪れていて、相当身に滲むものがあった。ちょうどその十日ほど前から天気は快晴で毎日照り続いていた。そして人は皆迫り来る新春の喜びとお正月の準備を進めていた。さて二十日の日もすでに暮れた。身を切るような津野山降ろしの西風も夜に入ってピッタリと凪いだ。しかもそれはよく晴れて、月はなかったが星は美しくダイヤのように碧白く光々と輝いていた。夜は次第に更けて、芝居やシネマ帰りの人足もようやく途絶えて、世はまさに静かな眠りへと入った。しかしさすがに眠り切れなかった宵の寒さもいつしか忘れたのか、皆ぐっすりと暖かき夢をむさぶっていた。
さて、時計は二十一日午前四時十九分を指していた。いわば冬の真夜中の事である。グラグラと来た大震動に一同眼を覚まし、スワ地震だというので寝巻のまま床を飛び出したのであった。地震はなかなか大きい――、その瞬間電灯はパッと消えた。視界は一切暗闇だ。もちろん一寸先も見えない。方角も立たない。地震はますます強くなってきた。上下左右に揺りまくるので立っていようにもヒョロヒョロして全く足が立たない。さて私の家は洋館の二階建てであるが、家族七人のうち五名は二階に寝ていたが誰も降りて来ない。しかし降りてくることはとてもむつかしかろう。また、階下にいた者も戸外へ出ることさえ容易でなかった。
この場合、人を顧みる余裕はない。ただ自分の逃げ場を探すのに困難であった。私は星明りを頼りに横門の方へ走った。しかし暗闇に加えて家の動揺でつかまえる物はなく、ヒョロメク足をようやくにして戸外へまろび出ることができた。
この間、危機一髪私の通った後へセメントで造ったボロツコの山が崩れ落ちた。さて外へ出たものの家の近くにいるのは危険ゆえ、すぐ前の八幡宮の社地に逃げのびた。最初鉄筋コンクリートで作った藤の棚の柱に取りすがっていたが、激しい振動のために幾度も振り放されて立っておれず、ようやくにして知覚の桜の木へぎっしりと組みつくことができた。
しかし地震はますます強くなるばかり。世はたちまち阿鼻叫喚の巷と化してしまった。人の叫ぶ声、家の倒壊する音、塀の斃れる音、石垣の崩れる音、瓦やガラスの破れ落ちる音等にて、世はたちまち大修羅場と化してしまった。
さて普通の小さい地震ならば永くて一、二分もすれば停止するのに、なかなか止みそうもない。大小波状形にいくらでもやって来る。私は桜へ組みついたまま、今はじめて家族の安否に気付いたのである。私はまず大声で子供達の名を呼んでみた。何らの答えがない。地震の怖さも忘れてなおも執拗く(しつこく)読んで見たが一向答えがない。次に妻を呼んだ。これまた何らの答えがない。
地震はますます激しい、いつ止みそうにもない。遠方からカアカアと人の叫び声が聞こえて来る。私も思わずその声に合わしてカアカアと連呼した。しかし、もう止みそうなものよ、あんまり事じゃないかと私は無中になって人に言うようにつぶやいた。
そのとたんに町側に添うたセメントの塀が大音響とともに倒れた。とその瞬間幽かな星明りに私の眼に映ったのは、高い洋館建ての私の家であった。ある、ある、我が家は確かにまだある。まだ倒れていない。大丈夫だ。ヨシ頼むぞ、我が家よしっかり頼む。倒れちゃいかんぞ。私は個々のうちで祈りつつ、なおも力一パイ桜の木へしがみついていた。
震動時間九分余(後日判明)、さすがの大地震もようやく停止し、あたかも大暴風の後の静けさに立ち返ったのであった。しかし電灯は消えたまま相変わらず真の闇である。かてて加えて寒さがヒシヒシと身に滲むのを覚えて来た。着のみ着のままであるが、それかといってすく家に戻るのも何だか恐ろしくて、松原の木の下でただブルブルふるえていた。
そのうちようやく一同が戸外へ出て来たので、一同の無事を喜び合ったのでした。さて家族達はアノ地震最中、どこでどんなんいしていただろうか。私は第一それを聞きたかった。
さて家族の話に、妻は地震となるやすぐさま今を飛び出したが真っ暗で方角を失い、ようやく廊下の柱に取りついたまま立ち上がることもできず、そのまま最後まで組みついていたという。一方子供達五人は皆二階にいたが、地震となるや家の振動で立つことができず、そのまま各自の部屋に臥していたというのであった。
さて私の家は二階建ての洋館で高さ三十五尺(約10.6メートル)、須崎でも高い方だが建築の場合基礎工事を厳重にし、木骨なれどラス張り(金網張り)の上に三分径の鉄筋を入れ、なお筋違を充分に用い、金物は遺憾なく使ってあるので頑丈なれば壁1つ破れず、また一枚の瓦さえ落ちなかったのは幸いであった。
時はまさに四時半ごろと思うた。地震後の静けさに星は気味悪く冴え、残月は細長く弓のように箕越の山の端からのぞいていた。フト東野法を見るに須崎駅の方角に当たって暗夜の空が真っ赤にやけていた。アッ火事だ。アレは火事に違いない。火の手はますます大きいらしい。一方の城山は避難民の提灯や焚松で一パイの人に見える。町には警防団の人が三々五々日の用心を連呼して廻っていくのを見た。
津波の襲来
さて、故人の伝説によれば大地震の後は必ず津波が来るという事を聞いていたが、私はとっさにそれを思い出して、真っ暗の中を次男に海を見に行かした。また長男を火災の方へ視察にやった。
やがて次男が帰宅しての報告に、波は静かで平常と変わりはないようだ。塩炊き小屋もそのままとの事であった。そのうち長男の報告に東の方は津波が来て大騒ぎだ。しかも青木の辻より東はどこの町もヌカルミと大きな材木が一パイで通れない。しかし火事はやはり駅前の付近だというのであった。
そのうち海岸地帯に住む人々は皆、荷物を担いで糺町(ただすまち)の方へ続々避難するのであった。その中、知人が私のうちへ荷物を持ち込んできた。人の話に、津波が来て鍛治橋はすでに通れない。中橋も危険になったとの事である。もしそうなれば古市辺も安心できないというので、ボツボツ避難を始めた。しかし盗難のおそれがあれば家を明の巣にして行けないので、私はまず女子供を北の国民学校の校庭まで避難させて、自分は家に最後まで踏みとどまる事にした。
そのうち夜は次第に開け始めた。冬の夜明けの寒さは実に厳しい。しかし東の白むにつれて、人の心にも落ち着きが出来て来た。また明るくなるに従い、八方から種々の状報が次から次へと聞こえて来る。何町の何某の家が倒れて家族が何名下敷きになって死んだとか、あるいは何某の家族の死骸は今掘り出し中だとか、また何某の家族は津波にさらわれて行方不明になったとか、いろいろの噂が聞こえて来る。
ようやく夜は明けはなたれた。人の往来は次第に繁くなった。行く人は皆先ほどの大地震の事を話し合いながら、被害の状況を視察に行くらしい。
さて、ふと思い出したのは自分の釣り船の安否である。一本松の下海岸へ引き上げてあったので、長男とともに見合わせに行った。すると自分の船はおろかその付近にあった船はただの一隻もいない。すでに津波に浚われて跡形もなかった。
さて津波は引いたが、まだ潮の動きはなかなか遽しい(あわただしい)。あたかも大川の流れの如く、ゴウゴウと白波を立てて差し込んできては、また急流となって港外へ引くのであった。その流れはウカバエ(ハエは岩礁のこと)、高礁等に突き当たって真白く渦巻いて見えた。その潮の早さに機帆船や小機船などは錨を入れたまま矢のように引きずられていた。中には津波のために既に海岸へ打ち上げられている大船もあった。また海上見渡す限り一面に家屋や木材その他あらゆるものが夥しく漂流しているのに驚いた。さて津波に襲われた人の話によれば、津波は地震がすむと十五分くらいしてやって来た。その時はゴウゴウと大きな波音を立てて押し寄せて来た。その波は一度は引いたが再び物凄いうなりを立てて第二回目の波が来た。二回目の波は最初の波よりもっと大きかったとの事である。
さて漂流物の中には埋立付近の造船所、製材所、営林貯木場等に山積してあったたくさんな木材と、なお大間の造船所や貯木場等にあった巨材は津波のために一トたまりもなく押し流されてしまった。しかもその木材は須崎町多くの郷村一帯の田も畑も町の中も容赦なくゴロゴロガラガラと百雷の音を立て、押し流されてきたので、その木材のために船も家も突き破られ、押し潰され、しかも暗夜の事故、数多の人は逃げ場を失い、その木に挟まれて溺死した者が無数であった。
また、大間の付近に碇泊中の機帆船数隻は、多ノ郷、土崎の近辺まで流れ込んでいた。もちろん松林のあった桐間の大堤防や鉄道線路並びに土崎街道等は一瞬にして破砕され、西は庄中部落より、東はシヤク丈越、土崎、押岡方面まで大海と化してしまった。そのため汽車はもちろん、一般交通は杜絶し、汽車は吾桑駅より徒歩にて、途中シヤク丈越より大間橋の間は渡船をもって連絡した。渡船係の談によれば、海になった多ノ郷村一体でエソ、チヌ、スズキその他いろいろの魚を毎日一人が六七貫(22.5~26.25キログラム。1貫は3.75キログラム)捕獲したと話していた。
また新荘方面の津波の被害もかなり物凄く、津波は下郷付近まで来たので、たくさんの漁船や機船などが遠く長竹付近より高沖辺の田畑や道路の上へノコノコ坐っていた。また、この辺でも魚をたくさん拾ったものがあった。また、西町入り口と新庄駅方面の堤防ならびに角谷天皇池の堤防が切れたので、その辺一帯が海となった。また、一方糺の池は堀川のユル(取水口の栓)が崩れたため海水が浸入し、山から山の間は一面の海となり、大昔の糺池を想わしめた。さて糺池は昔より大鯉が棲むので有名であるが、今回の津波のため鯉は潮に酔いて捕獲せられ、ほとんど全滅したという。
地震の被害に就いて
さて、今度の地震は上下水平に揺すったようであるが、主として南北に強く揺すったのは事実である。その証拠には倒壊した家のほとんど全部が、南北いずれかに倒れていた。そして南北に長く建てられた家屋はおおむね倒壊をまぬがれ、被害の程度も低いようであった。
また、家財道具のうち箪笥や水屋(食器棚)の如き背の高いものを南北いずれかに向けて置いたのは皆倒れていたが、東西に向けて置いたのはそのままでいたのを見ても証拠づけられる。
次に、暴風と火災等に備えるために造った昔風の土蔵造り、いわゆる富豪連の住宅や酒蔵等の如き大きな建築物は、ほとんど全部と言いうるものが莫大な被害を受けていた。あるいはあながち土蔵造りでなくとも、家に重荷を負うた建物で数十年も経過した家屋は、いかに大きな木材を使ってあっても、皆倒れたり、柱のホゾが折れたりして半壊となり、あるいは瓦の全部がずれたり傾斜したりして、ほとんど満足なものは一軒もなかった。
ここに不思議に強かったものは洋風の建物であった。銅板張り、竹張り、ラス張り、鉄筋入り等いずれにせよ、その上をセメントで堅めたいわゆる西洋風に建築した家は、たいがい倒壊をのがれた。ことに私の家は最初記した通りの建て方であるが、かの大地震に壁ひとつ落ちず、破れず、また家に少しの狂いも出来なかったのは、確かに洋館建てのおかげであると思う。
次になお一つ不思議に思う事柄は、今回の大地震はその揺り方に筋道があったように想う。もちろん素人考えではあるが、被害の箇所が軒並みに、しかも規則的筋道を作っていた。例えば、電光の如く地震の通り道といったように被害の道が出来ていた。すなわち横町筋、中央は青木の辻の南北筋、東は旧桟橋通りより真っ直ぐ駅前通りに至る筋。かくの如く西から順に五百メートル位ずつ離れて南北に流れて強く被害を受けていたのは事実である。
さて、顧みるに横町から東へ行くにつれしだいに被害が大きく、反対に横町より西へ行くに従い被害が少なくて、西町の家は一枚の瓦も落ちなかったというのさえあった。また堀川の南側より北側の糺町、池山、池の内方面の家の損害が少なかったのは南側の如く砂地でなく、山土で地盤が堅いためではないかと考えた。また、地割れの行ったのは主に堀川通りと新、旧桟橋と埋立地の路面であるが、これは要するに砂地であるのと掘り上げた土の関係で土地が軟弱なるが故であろうが、いずれにせよ以上の被害状況については、相共に将来大いに注意を要する問題ではあるまいか?
次に震災後中央より派遣されたる専門家の調査
調査の結果によれば、安芸郡室戸岬方面は今回の大地震によりて四尺(約1.21メートル)ばかり地面が隆起して、室戸港はために浅くなり、船の出入りに支障を来すに至ったという。
しかるに西方高岡郡須崎方面はこれと反対に地面が四尺ばかり陥没して、須崎港内は深くなり、地震前まで桟橋に横着け出来なかった七千トン級の支那通いの貨物船春祥丸は、港内陥没のおかげでその後自由に桟橋へ着くようになったのである。また旧桟橋ならびに埋立付近の岸壁は陥没により満潮の場合は岸の表面を洗うに至ったので、復興工事は従来よりなお一メートル以上高くせねばならなくなった。
かくの如く須崎方面の陥没は今後の風水害の発生する場合、従来より以上の被害を受くること必至なれば、大いに警戒を要するであろう。
須崎市街地浸水の程度
青木ノ辻黒岩付近は町の溝まで来た位であった。それより東に行くに従い深くなり、津野神社の通りを南海岸通りまで、その辺一帯はまず四五尺(1尺は約30.3センチメートル)の程度で、新町通りの森光付近は六七尺位、旧桟橋通り一帯は家の軒が浸かった。また須崎港より北方、駅前古倉一円も同じく軒まで浸水したのである。
さて、青ノ辻より西方で家の倒れた所はたくさんあるが、津波の襲来した下町方面は、倒壊した家の下敷きにされたまま、生きながら無惨な溺死を遂げたのは、実に同情に堪えない次第であった。私は翌日駅前を視察した場合、広場に並べられた溺死者の残骸を見たが、さすがに同情と哀悼の念に堪えず、その写真だけは撮れなかった。
次に津波の際、鍛治橋以東の橋は全部沈下してしまったことを附記しておく。
JR須崎駅
現在の須崎市には当時の町名が多く残っています。記事にしばしば登場する堀川は現在暗渠となり、かつての川筋は川端シンボルロードとして整備されています
被害者の実話
(1)ある船員の話
その日私は百トンばかりの機帆船で幡多郡下田港を出帆して高知へ行く途中でした。須崎沖に差し掛かった頃がちょうど午前四時過ぎと思うた。私は当番でブリッジに立って同僚と二人で見張っていたその時、東方室戸岬方面に当たって、海上がちょうど雷光のように細長く筋を引いて青白くピカピカと光った。すると本船が暗礁にでも乗り上げたようにゴツゴツと気持ちの悪い振動がした。するとまたピカピカと光った。また同じ感じがした。それが何回も続いた。しかし船は相変わらず進んでいる。これは変だぞ、地震ではないかと二人が話したが、急に高知行を変更して須崎港へ避難した。しかし須崎へ入稿して予想外の大震災に驚いたのでした。
(2)ある漁師の話
私は良いから出漁して夜のうちはイカを釣り、明けたらガシロでも釣るつもりで神島の近くを漕いでいました。空はよく晴れていてモウ夜明けも近いと思う頃でした。遥か東野沖合で雷光のように空がピカピカと筋になって光りました。また何回も同じように光った。その光が何となく不思議に思えた・そして漕いでいる船が乗り心地も異様に感じた。その瞬間、峰ケ尻の山の石がガラガラと崩れ落ちる音が聞こえて来た。私はその時に初めて大地震だという事に気付いた。それから私は早く帰るつもりで中の嶋の戸合いを抜けましたが、常なれば岩の間をようやく通るだけしかない広さの所が、こは如何に。島の間は一面の海となって岩は見えず、どこでも自由に通れるのに驚きました。私はこれはただ事ではないと思い、一生懸命になってようやく高礁の辺まで漕ぎつけました。
夜はほのぼのと明けそめてウドノクチの大きな山の崩れた所も見えまして、地震であった事がよく判りました。そのうち船は潮流に乗って、恐ろしく速く旧桟橋の前まで流れ込みました。私は力一パイ漕いで港へ入ろうとしましたが、また逆流になって再び野見岬押出しまで押し流されました。その流れの速い事は例えようのない恐ろしい速さでした。船は潮流に任せて出たり入ったり幾度も押し流されて、何とあせっても浜へ漕ぎ寄せることが出来ない。そのうち機械船が来て漕いでくれてようやく入港する事が出来て命拾いしました。
それから上陸して須崎の被害の予想外大きいのに実に驚きました。また私の家も津波にやられていました。
(3)ある婦人の話
私の家は新町通りですが、地震がすむと早や津波が来るよと云うので、大勢の人とともに須崎橋の方へ逃げました。私たちの近辺は本通りの外は、どこに行くにも小さな路地ばかりで、こういう場合とても逃げ延びることは出来ません。また、青木の辻の方へ行くのも危険だと思いまして、皆さんの行く方へ一緒に走りました。須崎橋を渡ればどこからでも城山に登ることが出来ますので、そのつもりで北へ北へと無中で走りました。もちろん真っ暗がりで何が何やらさっぱり判りませんでした。
ようやく吉本商店の付近まで行った時分に、南から来ると思うた津波がこは如何に、反対に北から大きなうなりを立てて逆巻いて来たではありませんか。
その波は家の高さほどで、大きな材木をゴロゴロガラガラと立てかやして来ました。その勢いで家はベリベリバリバリと物凄い破れる音が聞こえて来ました。また、子を呼び、親を呼び、助けを求める悲痛な叫び声も手に取るように聞こえました。私は一度は流されていきましたが、家の軒に手が掛かったのを幸い、一生懸命これをつかまえて助けを呼ぶうちにやっと二階から人に引き上げてもらって命拾いをしました。しかし他の人々、ことに女子供さんたちは今の瞬間に皆波に呑まれていきましたが、私はアノ時の事を考えますと、怖いとも何んとも形容の言葉がありません。ただ夢のようであります。
●新町より城山へ避難した人の話
私は地震の際は家族三名がすぐ裏庭へ飛び出して、皆ぎっしり抱き合っていました。ようやく地震がおさまりますと津波が来ることに気付いたので、何物をも手にする暇もなく、城山を目的に町へ出ました。最初は津野神社の前を極楽橋の方へ逃げるつもりでしたが、あの橋は非常に弱くてしかも橋台が低いので危険だと思い、方向を変えて新町を西に走り、鍛治町橋を渡ることにして、無中でその方へ走りました。
橋は自由に通れると思いの外、橋の付近は一パイの避難民と車などで身動きも出来ませんでした。また橋を渡るのに行列になって、後ろから押す人の勢いで自然に体を運ばれて行ったという有様でした。この場合、幾くらい気があせっても、橋は狭いし人は後から後から増える一方で、どうすることも出来ませんでした。
なぜにこの橋でかくも混雑したかといいますと、これより下の橋は全部潮が来て、数尺沈下し、すでに渡れなくなっていたということが後で判りました。
さて今は呑気に話もできますが、あの時もしも宝永の津波くらい潮が高く来て、橋が流れたならば、昔と違い夥しい死者を出しただろうと思います。しかし現在の状態で堀川を置くことは町民の生命を無視するも甚だしいと思います。この【貴重な経験を生かして一日も早く子孫のために安全な事にせねばならぬと思います。
(4)多ノ郷村大間の人の話
私は大地震が止むとモウこれで大した事はあるまい。寒いから皆内へはいって休もうかと思ううたが、フト思い出したのは地震後の津波である。――昔の人の話に津波の入ると前は必ず海近くの川の水が無くなるから気を付けよと聞かされていたので、さっそく近くの大間川へ見に行った。すると暗の中にも川の水が一切無いことが判った。これは大変が、津波が来るに違いないと思い、大急ぎで駈け戻って大声でこの事を付近の者に知らしてやった。私は家族を急き立てて、何物をもとるひまなく、二丁(約220メートル。1丁は約109メートル)ばかり西の山を指して走りました。津波は早や大波の音を立ててゴウゴウと真っ白に押し寄せてきました。何様真っ暗な道を川端づたいに逃げるので捗らず、津波は既に私どもの脛のところまで来ましたが、ようやく山に駈け登る事が出来ました。
(5)汽車に乗った人の話
私は九州から汽車で名古屋へ向かう途中でした。ちょうど広島県に差し掛かった頃と思う時、何だか汽車がグラグラと揺れるではないか。その揺れ方が不通の記者の揺れ方と異なっている。アラおかしいぞ、変だな――私は商売柄、家にいる方より旅行の方が多いので、汽車には乗り馴れている関係上、うたた寝の中にも変な揺れ方にすぐ気がついた。やがて汽車は途中停車してしまった。しかし箱はまだグラグラ揺れているので初めて地震という事が判った。それから十五分くらいして発車したが、私はどこかに大地震のあったことを想像した。
(6)今回の大地震と異様な海上の光り
今回、大地震のする毎に土佐の東方海上にピカピカと雷の如く光って見えた事は、土佐沿岸至るところから目撃する事ができたのは事実である。また、遠く九州の東岸からも土佐の会場が光ったのがよく見えたと九州から来られた人の実話であった。
土佐の五大地震の記録
一、白鳳十三年甲申冬十二月十四日
二、寛文元年十一月十九日
三、寛永四年十月四日
四、安政元年十一月四日(午前九時頃)五日(午後五時頃)
五、昭和二十一年十二月二十一日(午前四時十九分)
白鳳より寛永まで――千二百八十年目
寛永より安政まで―― 百四十六年目
安政より昭和まで―― 九十三年目
安政大地震(古書・須崎史からの引用)
安政元年甲寅十一月四日朝五ツ時(午前八時)地震あり。敢えて強きにあらざるも長震にして、尋常に異なれり。(一部脱落か?)否や潮狂いて堀川に逆流すること夥しく、港内に碇泊せる船を東へ流し、西に引くこと終日なりき。この日、八幡磧に例の蛭子祭相撲興業ありて人々群衆せしが、この有様を見て一方ならず心配し、早くも山に逃げ上がり、夜半に家に帰りしもあり。
翌五日は天晴れ渡りて、一片の雲なく、風なく、人々安堵の思をなせり。しかれども暑きこと夏の如し。相撲の翌日の事とて酒宴を張れる家も多かりしが、夕七ツ半時(午後五時頃)に大地震起こり、漸次強くなり、忽ち暗夜の如く、大地は所々に二、三尺、四尺、五尺、六尺と裂け、中より潮を吹くあり。土煙を飛ばすあり。一開一合山崩れ、谷湧き居宅土蔵皆倒れて算を乱せり。人々五人、六人手に手を取りて泣き叫び、東西南北に駈け廻り、父子兄弟互いに呼び、あるいは俯伏せに、あるいは仰向きに倒れ、二三間歩いてはまた倒れ、歩行自由ならず。
半時ばかりにて稍々小震となりたり。この時人々は宝永の大変の如く大潮溢れ来たらん、早く山に登るべしとて、我先にと取るものも取り敢えず山に駈け登る。稍々心豪なるものは布団等を携えて逃れたり。時しも大潮天を蹴て、海門に衝き入り来る物音凄まじく、乾坤崩るるかと思うばかりにて、光景うたた凄惨なり。堀川橋は皆地震に揺り落とされて、その上に潮水二三丈高く、数百の家または船を浮かし来ること実に目覚ましかりき。これを見て逃げ遅れし人々、すわ堀川橋は渡るべきすべなし。とく西の五紋中山へ登れよと叫び、叫びたれば皆々先を争いて刈谷の方へ走り行けり。しかるにまた二つの石の堤、推し破られて大木人家等池中に押し流される数百の人々は打ち渡らんと駈け入りて、水中の洲上に躍る様、誠に哀れに見えたり。されど幸いにも寛永の津波よりは潮嵩低かりしかば、潮の退く間を見て辛うじて西の山に登り、死するに至らざりき。
既にして日は暮れけるに、今宵は暗夜なり。地震は大小幾百という数を知らず。人々暁まで一睡だにせず、相引き合いて神を念じ、仏を祈りけるほどに、夜ふかくなるに随い、着衣に置き凍れる下は雪よりも白し。この夜山にて、親子はなればなれにて生死も知らぬ者多く、親は子を呼び、子は親を慕い泣き悲しむ声哀れなり。
夜は明け六日となりたるに、この日は晴天にも日光人を射る。地震はなお止まず。されど壮者は各家に帰り見れば、昨日昼の仕事をなせしままにて、戸障子は明け放し、たまたま閉ざし家ありても壁は落ち、柱はゆがみ、瓦は飛び、一軒として全きものなく、我が家に入りて衣類、布団、米、味噌等を手当たり次第に取り、後をも見ずしてまた山に逃げ行けり。
その翌七日も地震は止まず。総じてこれより四、五日間は昼夜四、五十回も大震あり、人々家に帰る能わず。何十日間も山にて暮らせしが、十二月の末にもなれば稍々震いも遠くなり、人々信念を迎える準備に忙わしかりし、その三十日にまた大地震ありて狼狽し、東西の山に駈け上がれり。越えてその翌年も時々震動止まざりしは左に記すが如し。
大震 十二回
中震 一一一回
小震 五九六回
計 七一九回
右の記録は高知市鷹匠町水門御万人嘉助(当時七十五歳)の調査せしものなり。
安政の大地震と古老の実話
著者私の祖母は文政十二年二月生まれで、安政の大地震の時はちょうど三十二歳でした。私が未だ幼少の時、その祖母から、あるいは他の老人から度々気化された実話を左にご紹介する。さて曰く、安政の大地震のあったその日は、天気は良く今も変わらぬ正月の相撲気分で、朝から須崎の浜で蛭子相撲があって、近郷近在から出て来た見物人で浜は黒山の人でした。
夕方になって相撲は首尾より済んで、優勝した力士は贔屓の若者等とともに町を練って家に帰って来て、盛んに酒宴を催していた。日も暮れかかったので皆夕食の準備をしていた。いわゆる黄昏の時分でした。突如大地震となった。酒どころではない。それ地震だというので皆戸外へ飛び出した。見る見る大きな建物は次々と倒れていった。しかし人は皆津波が来るのを恐れたが、格別の事もないようでした。
地震はようやく済んだ。日も全くくれた。その時、どこでいう友梨に空の方から大声で潮が入るぞ、潮が入るぞと人の叫び声が聞こえて来た。ソラ津波が来るというので、皆衣類や食糧等を抱えて城山へ逃げた。地割れの所は雨戸を敷いて通った。
やがて津波は物凄い音をしてゴウゴウと押し寄せて来た。八幡宮の社内は潮が来なかった。しかし堀川の橋は全部落ちてしまった。町の東の方は家も船も皆流れてしまった。もちろん人もたくさん死んだ。我々は地震が済んでも毎日毎晩小揺れがするので恐ろしくて、一週間ばかり山にいたが、家のある人は地震の間に間に走って来ては、鍋釜等の日用品を取って来て、山で暮らしていた。
さて、大地震の後で夜空にどこで言うともなしに大声で津波が入るゾウー、とくり返し叫びましたのは実に不思議であるが、その叫び声が須崎中はもちろん、近郷近在は元より遠く斗賀野村方面にまで同じように聞こえ渡ったという。また、大地震の時、角谷の沖へ大きな火柱が立ったと言っていた。しかしこの声は確かに弘法大師のお告げの声だと噂していた。
さて今回の大地震も夜中であったが、かかる不思議な現象は少しもなかったのである。なお古老の言い伝えによれば、大地震後は必ず津波が来るが、その津波は地震後すぐ来るものではない。ゆっくり飯を炊くだけの余裕はあるから、慌てず落ち着いて十分の用意をして避難せよと云っている。しかし今回の津波は地震後わずか十五分足らずにやってきたのは何故か。この問題につき地震学者の言によれば、津波襲来の時間は震源地の遠近により相違するから一様にいえない。また地震の強弱の程度にも関係があると述べた。
宝永の大地震
宝永四年丁亥十月四日巳の上刻より東南方の大鳴音とともに、大地震起これり。この日天朗らかに暖かく人々単衣を纏いたりしが、変起こるにおよびてその騒動一方ならず。今こそ天柱の拆け(裂け)、地維欠くるかと思うばかりにて、如何なる丈夫も歩行しがたく、山岳の崩るる土煙、田方に漲りて、天地すなわち海冥稍々暫くは咫尺(しせき)を弁ぜず(近い物すらよく見えない)、ために方角を失いし老若男女、哭き叫ぶ様、実に悲惨を極む。しこうして大地の裂罅(れつか:裂け目)より潮水湧き出で、人家は倒れ、あるいは崩れ、無難にて存するものは一軒もなし。山里の樵夫は家業のため山に行きけるにこの難に逢い、落ち来る岩石に圧されて死する者数を知らず。未の上刻より大潮浸入し来たりて人家はことごとく流れ、死人筏を組たるが如く、牛、馬、犬、猫等、また皆死す。幸いにして山に逃げ上り辛うじて死を免るる者あり。親兄弟足下に流れ死するも、助くるに力及ばず。哭声山谷に響き渡り、惨憺たる光景はよく筆紙の尽くす所にあらざるなり。翌日の晩まで潮水の来たり侵すこと十二回。しかるに須崎の沖なる石ケ礁より沖は、海上すこぶる静かなりしと云う。あたかもこの時、角谷の山頂より眺めいたる人の話によれば、戸嶋と長者の鼻の間、潮全く干き、しばらくは沼の如く。ここに小舟に二人乗り、流れ来りしが、一人は船より落ちて沼に入り行方知れず。残れる一人は舟にありと見えしが、たちまち大潮来りて小舟とともにその影だに見えずなれり。その後聞けば一人は新町の何某、今一人は恵美寿屋五衛門にてありしと。
この地震には畿内紀州の海辺は言うに及ばず、東は豆州箱根より、西は九州の東南岸、いずれも大潮に侵され、阿波の国もまた潮高かりしと。当国のうち種崎より宿毛までの内浦には大潮浸入し、赤岡より東の灘辺は多少の浸水に止まりしとぞ。
須崎浦に入り来りし潮は半山川筋(新荘川)は下郷の中、天神の上四五丁の所に及び、多ノ郷は加茂宮の前、吾井ノ郷は為貞という所まで侵入せり。これらはいずれも川に沿いて侵入せしなり。土崎は財貨のことごとく流出し、押岡、神田はこれに継手人家の流失あり。池ノ内村は在家被害なく、須崎は死人四百余人あり。
かくも死人の多かりし所以を考ふるに、糺池より出づる堀川の橋は地震のために落ちしところへ潮入り来り、人々渡るべき便なく、後より大勢押し掛け先成る者堀川へ圧し込まれて、大半死したるなり。しかるに水練ある者あるいは天運に叶える物はたまたま死を免れたり。
この時このあたりに住居せし渋谷金の王と言える力士、大橋(今のメガネ橋)の元に来り、多くの人を援けて、その身はついに伊勢の松に登りて助かりしという。
この時も家屋を流されたる人々は皆山に仮住居し、縁を求めて流れざる家を頼み、飢寒を凌ぐなど、目も当てられぬ有様なり。大潮に家財道具、着物、食料等の流れたるを、流れざる在家の者ども、これ幸いなりと理不尽に拾い取り、罹災者の憂いを顧みず、賊徒同様の振舞いありしかば、官府より須崎庄屋年寄りに仰せ付け、きっと穿鑿(捜査)せしむ。しかるに隠し置きて出さざる徒多きにつけ、被害者等在家に入り込み、無断にて家宅を探し口論、闘争に及びたりしこと多かりき。
糺の池には死者流れ集まりて筏を組める如し。その中にて衣類その他に見覚えある者は、これを証に己が身内を尋ね出せり。さもなき者は、たとい父母兄弟といえども面影変わり果てて求めるべく便なく、かえって物凄き体となり。尋ねる術なしとて街道に泣き叫べどもその甲斐なし。池中に浮沈む死体は鳶、烏、これをついばむ。ああ、何という惨ぞ。これについては官府より指図に従い、長さ数十間(1間は約1.82メートル)大坑を二列に掘り、これにその屍を埋めたり。
のちに安政三年、その百五十年忌に当たり、古屋竹原(尉助)当町大善寺谷に碑を建て題して「宝永津浪溺死之塚」と云う。
この変災に家を流されたる者等は飢餓に及ぶにつき、官府より救米を定められ、男三合、女二合にて三十日、あるいは四、五十日の間その家業に就くまで給せられ、小屋掛け、木材等、手寄りの山より給付されたり。
この大変ありて人心洶洶(きょうきょう:おそれおののく様子)たるに乗じ、逃道の暴者、盗賊の類これあるべしと、官府に於いては詮議の上その役人・朝日奈忠蔵を須崎に遣わせたり。岩永より角谷までの間、往還道筋あるいは海となり、あるいは海水溢れ、往来する事あたわず。すなわち鳥越阪の峠より池ノ内村へ横道を作りて下分村岡本に越す。この外笹ケ峰という古道を往還の道として角谷山際に通ぜり。諸役人の送りの番所も当分池ノ内村にあり。送夫の者どもここに詰めたり。翌々年の秋、今在家本番所に帰る。
宝永津波溺死の塚
この塚は昔宝永四年丁亥十月四日大地震して津波起こり、須崎の地にて四百余人溺死し池の面に流れ寄り筏を組みたるが如くなるを、池の南面より長き坑を二行に掘り、死骸を集めありしを、今度百五十年機の弔いに、ここに改葬するものなり。その事を営まんとする。折しも安政元年甲寅十一月五日、また大揺りして海溢しけるが、昔の事を伝聞かつ記録もあれば人々思い当たりて我先にと山林に逃げ上りければ、昔の如く人の損じは無りしなり。ただその中に船に乗り、沖に出んとして逆巻き波に覆されて三十余人死したり。痛ましき事なり。何なれば衆に洩れてかくはせしにと云うに、昔語の中に山に登りて落ちくる石にうたれ死し、沖に出た者恙なく帰りしと云う事のあるのを聞き、誤認ししものなり。早く出で、沖にあるは知らず。その時に当たりて船を出す事、難しかるべし。誡むべき事にこそ。まさに昔の人は地震すればとて、津波の入ることを弁えず。波の高く入り来るを見るよりして逃げ出でたれば、おくれて加堂の如き難に逢いたり。げにもまた悲しまざらんや・地震すれば津波は起こるものと思いて油断すまじき事なり。されど揺り出すや否や波の入るにも非ず。少しの間はあるものなれば、揺り様を見斗い、食料。衣類等の用意をして、さて石の落ちざる高所を選びて遁るべし。さりとて高山の頂きまで登るにも及ばず。今度の波も古市神母の辺は屋敷の内へも入らず。昔も伊勢ケ松にて数人助かりしといえば、津波とてさのみ高きものにも非ず。これら百五十年以来二度までの例なれば、考えにもなるべきなり。今ここにこの営をなすの印は、まさに後世に若しかかる折の為に、万人の心得にもなれかしと衆議して意思を立て、その事をしるさんことを余に請う。よってそのあらましを挙げてに逢い、書きつけるものなり。
安政三年丙辰十月四日
古屋尉助識
附本願主
発生寺現住
智隆房松園
世話人
亀屋久蔵
鍛冶活助
橋本屋吉左衛門
附記 右石碑は大善寺の麓双又地蔵と軍人墓地との中央にあり
白鳳年間の大地震
今を去ること千二百五十余年、天武天皇の御世白鳳十三年甲申冬十二月十四日、発震。土佐の国田畑五十余万頃(頃は面積の単位で白鳳期には1頃が5ヘクタール強だったとされる)陥没して海となるとは歴史の語るところなり。しかれどもこの時の地震に、土佐は果たしていずれの地点が陥没せしか。歴史はその詳細を語らざるをもって諸説区々たり。あるいは云う我が須崎の南方陸地なりと。いまだその当否を知らず。今を去る一千二百余年前、白鳳年間当国大地震在り手広き陸地陥りて海となりきといえり。いまその後はこのあたり(須崎)の南ならんと云う(高知県地歴史)
古老の伝説によれば、白鳳以前、我が須崎付近に戸島、千軒、野見、十軒と云いて戸嶋と野見は当町一市邑にして、長者の鼻は長者の住居せし屋敷跡なり。海のよく澄たる天気の麗らかなる日、干潮を待ちてこの所に至れば、井戸、石垣等を海底に認むるを得べしと。いまだその真否を験する能わずと書きしあり(須崎町誌)
お伊勢の松について
須崎町北横町の堀川にメガネ橋と云う石橋がある。その橋の袂にお伊勢の松と呼ぶ大松が最近まであった。幹の周り二丈(約6メートル)余り、樹齢四百余年と云う巨木であった。なぜにその松をお伊勢の松と名づけたか、ここに面白い伝説がある。かの宝永の大地震の節、堀川の橋は全部落ちて流れ、川より南に住む人々のうち逃げ遅れたるものは、西へ西へと駈けこの松の辺りまで殺到してきた。津波は容赦なく押し寄せて来る。人の命も危うく見えた。とっさの場合、この松に登れるだけのものは登った。しかし女子供は意の如くならない。ただ救いを求めて泣き叫ぶのであった。
この時現れたのが、その当時、村でも有名な大力のお伊勢と呼ぶ大兵怪力の男である。(あるいは女とも云う)。みるみるうちに泣き叫ぶ人々をその大松の辺より、片っ端から向う岸へ放り投げて数多の人々を助け、最後に自分はその松に攀じ登って命を拾った、と云うのでそれよりこの松をお伊勢の松と名づけ、その伝説と共に有名になったとのことである。
惜しいことには昭和二十一年の秋頃より、土佐の海岸松に流行した松の枯るる病菌に侵され、ついにこの松も枯死するに至り、昭和二十二年五月下旬、この由緒深き記念の松を伐採するに至りしは、須崎町としての町の宝を失い、誠に残念である。しかし私は、この有名なる松を例い枯れ木とは云え、せめてその実物を写真に残しておくことは地震誌上大いに必要と考え、その伐採中を撮影し、本写真帳へ掲載した次第である。(写真参照)
大震災に対処する須崎町 今後の対策
故寺田寅彦先生の名言…曰く
●災害は忘れた時にやって来る
我が四国の東南沖の海底には、世界的大地震帯が通っている故に、将来百年内外毎に定規的に必ず起こると云う。南海の大地震については、今後いかに科学が進歩してもこれを適確に予知することは困難であろう。しからば何日何時やって来るのか、知れないと云うのならば、我々人類にとってこれほど不安な恐ろしい事はない。故に我々は生あるうちは常にこの不慮の大災害に対処する準備と覚悟をしておかなければならない。想うに我が須崎町は港あるが故に発展するが、一方また港あるが故に大震災の苦衷を嘗めなければならない。いわゆる我々須崎町民はあたかも休火山上に住居していると同様であって、実に不安極まる状態である。
さて、我が須崎町はかくの如き条件にかてて加えて、街の中央を堀川が流れていて、一朝事ある場合この堀川あるがために町を両断せられ、川より南の人は避難通を失い、みすみす貴重な生命を奪われる事になる。この事実は今我々の知るところにおいて、宝永安政の両震災ならびに今回の大地震によって立派に経験することが出来たのである。しかし、我が須崎町はかくの如き歴史を有しながら、なぜか町当局は今日まで平々凡々として、その対策を講じないで来たか。要するに咽喉通れば熱さを忘るる例の如く、「次の大地震はまあ百年先だから、そのうち何とかするだろう」くらいに放任して来たからである。
さて、我が幼少の頃、古老の話を聞くに、曰く、安政の大地震があって最早六十年近くになるから、お前たちのあるうちにまた大変があるかもしれないと。と言ったことが今に頭に残っているが、古老の話が今度事実となって現れたのである。かくの如く百年内外に必ず起こるという事がハッキリ判っているのに町当局はなぜにその対策をしなかったのか。実に遺憾に堪えないのである。
しかし我が須崎町としては、この際一日も早く子孫のために万難を排して、安全の策を講じておかなくてはならないと思う。
さて、その方法として識者間に二つの意見がある。その第一として堀川をトンネルとし、その上を立派な町にすると云うこと。また第二の意見は堀川を全々埋め立ててしまい、その代わり鳥越坂をトンネルにして堀川を大間の方へ流すと云うのである。しかし、何れにしても町の事業としては大きな事業である。
さて、我々の考えは第二の方法が適当だと思う。何となればトンネルにするには莫大な資材と費用を要し、かつ工事上にもいろいろ面倒な問題が持ち上がって来ると思う。しかし第二の鳥越坂トンネルは堀川トンネルの約九分の一に止まり、しかも堀川を埋立する土を取った城山の跡は立派な公園となり、また万一の避難所ともなって、一挙両得の役をする。要するに経費の問題故に堀川トンネルの約半分位の費用で完成するなれば、第二案を採択すべきであると思う。
しかし何れにせよ我々町民は、この問題をいつまでも等閑に付す訳にはならないのである。次に考えられるのは、我が須崎町は全面的に町幅を広げなければならないと思う。中にも新町、浜町方面の裏町へ行くと、わずか一メートル位しかない小路がたくさんある。しかも今度の津波により、ことごとく浸水し、四、五尺位より軒以上来たところもあった。そのため逃げ遅れて溺死した者が多数あったのは実に遺憾である。要するに昔そのままの町なるが故であった。
しかしこの問題は須崎町としては速やかに解決し、海岸通りより城山に通ずる少なくとも五間幅くらいの町を五筋以上造る必要がある。また現在のままでは一朝火災の場合にも、みすみす大損害を招く事になり、かつ衛生上から見ても甚だ危険だと思う。想うに我が須崎町は将来四国南岸の要港として対外的にすばらしい大発展する事を予想するが、家の激増するに従い市区改正はますます困難となるであろう。我々は敢えて町当局の御考慮を切望して止まない。
良い教訓(アメリカ新聞記者の談)
伊太利のナポリ湾あたりを旅行した人達の話に、ヴェスヴイアス山(有名な休火山)麓のイタリー農民が火山の脅威下にありながら、併記で暮らしているのにあきれる。
彼等はヴェスヴイアス山が死火山でないことを百も承知しており、いつ爆発するかも知れず。一旦爆発すれば家はこわされ生命もなくなることをよく心得ているのだ。
しかも永い間こういう危険の中に暮らしているとなれっこになり、あまり心易くなって無関心になってしまう。「昨日起こらなかったことは今日も起こるまい、と独りぎめにしているのだ」とこれと同じように我が須崎兆民は地震体の上に起居しながら今まであまり無関心であったからである。
他山視してはならない。私は敢えて町民諸君に訴うるとともに、このアルバムを後世子孫に伝え残し、次にくるべき大震災対策の為に、我が須崎町民は元より、県下同胞全体の人々がいささか利するところあらば欣幸と致します。
次回は、今回紹介した記事部分の若干の解説を行い、「南海大震災記録写真帖」の紹介記事の締めくくりとさせていただきます。
◆ご協力いただいた竹下写真館の竹下雅典さんに重ねて感謝の意を表します。
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