小学校の頃の友達ん家の玄関には、南極観測の2代目観測艦「ふじ」の模型が飾られていて、なんだかとてもうらやましかった。しょっちゅう遊びに行っていたのにほとんど会った記憶のない彼の父親は、後に聞いたところによると海上保安庁に勤めていたらしい。模型は「ふじ」ではなくて海保所属の初代観測船「宗谷」だったのかもしれない。
この季節になると、当時の少年雑誌の巻頭カラーページには、南極越冬隊のイラスト記事が載せられていたのも思い出す。そこには、テーブル型の氷山が浮かぶ海と真っ白な雪原の境にオレンジ色の船体の「ふじ」が描かれていた。空にはヘリコプターや車輪の代わりにスキーを着けたセスナ機、雪原の上にはモコモコの防寒着を着た笑顔の越冬隊員たち、もちろん犬ぞりを曳くカラフト犬やペンギンたちも描かれていた。
何より鮮明だったのは、南極観測船のその色だ。オレンジ色は初代ウルトラマンに登場する科学特捜隊の制服の色とも記憶の中でつながっていた。とにかくカッコ良かった。
南極観測隊、そして越冬隊は、こども達にとって「冒険」の象徴。憧れ以外の何ものでもなかったのだ。
こども百科事典でも南極越冬隊は欠くことのできないテーマだった。少年誌のイラスト記事とは違い、カラー写真付きで解説された記事の中の、色とりどりだけどどう見てもベニア板で作られたようにしか見えない粗末な基地の建物までもが、冒険の象徴のように思われた。それに、吹雪の中を疾走する雪上車がまたカッコ良かった!
高校のOBに、ごく初期の越冬隊に医官として参加した大先輩がいて、学校で話をしてくれたことがあった。雪上車が故障ばかりで大変だったことはその時に知った。南極から帰国後、越冬隊員の頭髪をサンプルとして成分を調べると、越冬期間中に伸びた部分では髪の毛の栄養状態が違っていたという。過酷な生活環境が毛髪に記録されたのだろうという話だった。南極観測がいかに困難な事業なのかを語ってくれたのだろう。そんなことを聞いてもやはり、南極観測隊、とりわけ越冬隊は憧れの冒険のシンボルだった。
1月29日は「昭和基地開設記念日」だ。1957年1月29日、基地の建設予定地すら決めないまま出発した長い航海の末、ようやくたどり着いたその土地に、第一次南極地域観測隊が初めて公式に上陸し、その地を日本の南極観測のベースとして「昭和基地」と命名した日。その記念日だ。
困難の末、南氷洋の嵐の海を乗り越えて
第一次南極地域観測隊、そして越冬隊を乗せた観測船「宗谷」の航海は、2カ月と3週間にも及んだという。南極探検の先人である白瀬中佐は、南極大陸にたどり着くまでに2年余の年月を掛けてはいるものの、砕氷船すらなかった時代、途中の港で待機していた時間の方が長かったのだから比べるべくもない。
宗谷は、かつて戦艦大和が沈没した海域で鎮魂の慰霊祭を行ったり(大戦中、宗谷は日本海軍に所属していた)、インド洋で未知の流星群に遭遇したりしながら、長い航海を続けて行ったという。しかし、宗谷出航のその前から、日本の南極観測は苦難の歴史の連続だったらしい。
国際地球観測年に合わせて日本は当初、赤道地域の観測を行おうと考えていた。ところがこのプランはアメリカに反対されてしまう。そこで南極観測を申し出たところ、国際社会からは敗戦後10年ほどの日本には無理だと猛反対される。敗戦国には資格がないとまで言われる。それでもようやく各国の了解を得ることができたところが、南極まで行く船がない。急遽、白羽の矢が立ったのが、第二次世界大戦で特務艦兼砕氷船として運用されていた宗谷だった。魚雷が当たっても沈没しなかった幸運の船、宗谷に急ごしらえの改造を施してようやく出航、幾多の困難を乗り越えて、やっとのことで日本としてのベースを定めたのがこの1月29日という日だったのだ。
それでも初期の南極観測隊は苦難の連続だった。タロとジロの物語でも有名なように、脱出困難な状況や越冬を断念したこと、そもそも観測隊を出さなかった年もあった。しかし昭和40年、1965年の第七次隊からは毎年途切れることなく観測隊を送り、越冬も続けてきた。もちろん、世界でもっとも過酷な自然環境の南極圏での観測・越冬だから、その困難はいささかも変わることはなかった。
苦難の中で半世紀にわたって観測を続けてきた価値
半世紀と一言でいうが、第1次観測隊からは58年、継続的な越冬観測が行われるようになった第7次からで50年が経過している。もちろん、参加した隊員たちは当時すでに成人であるから、初期の隊員で存命の人は少ないだろう。50年、半世紀という観測・研究の歴史は、人の一生にも匹敵する時間とも言える。
半世紀という長期間にわたる観測・観察・実験データの積み重ねには、極めて大きな意義がある。気象データについて考えても、人間社会から遠く離れ、人為的なバックグラウンドがない南極でのピュアなデータは大きな意味を持っている。大きな問題となっている地球温暖化のように、長期間の気象変動を考える際に欠かせないデータとなる。
地球をカバーするオゾン層の減少は、「オゾンホール」というシンボリックな言葉をイギリスの科学者が使ったことで有名になったが、最初に南極上空のオゾン濃度の減少を観測・報告したのは、当時気象庁気象研究所の研究員として、昭和基地に越冬隊に派遣されていた忠鉢繁(ちゅうばち しげる)さんだった。
2004年からは、昭和基地から1,000キロ離れた標高3,810メートルの氷床の頂上に設営された前進基地「ドームふじ」で、南極大陸を分厚く覆う氷床から柱状に氷を抜き取り、100万年前の氷を入手するための掘削が行われている。南極の氷には大昔からその時々の空気が閉じ込められている。その空気を分析することで、100万年の間の地球気象の変動を調べようという壮大な試みである。すでに70万年ほど前までのデータの解析が進められているという。
100万年前は、大雑把にいうと直立歩行する原人の時代だ。そんな大昔から現在に至るまでの気象の変動を知りうる手だてを、南極地域観測隊は南極の氷の大地から取り出しているのだ。
南極は冬期にはマイナス50℃を下回る厳寒の地。マイナス92℃という世界最低気温も記録するほどの大陸だ。しかも猛烈なブリザードが吹き荒れ、高緯度であるため太陽が昇らない時期も長い。そんな過酷な環境で観測や研究を続けるためのインフラづくりに貢献し続けてきた企業から派遣された設営隊員たちの存在も大きい。南極探検は半世紀以上にわたって続けられてきた、真の意味での国家プロジェクトだった。
南極観測は未来へ続く
2014年12月24日、クリスマスイブの日、第56次南極地域観測隊が4代目となる観測艦「しらせ」で昭和基地に到着した。現在、第55次の越境隊員たち、夏期観測隊員たちを合わせて、昭和基地は1年で最も人口密度が過密な、そして、にぎやかな時間を送っているという。
幾多の困難を乗り越えて、観測・観察・実験を継続してきた昭和基地の、そして南極観測隊の隊員たち。その活動や素顔をぜひ、極地研「南極観測」ホームページでご覧頂きたいと思う。
とにかく笑顔がまぶしい。髭ぼうぼうの隊員たちがアイドルなんて目じゃないくらいに輝いている。南半球にある南極ではもっとも温暖な時期とはいえ、素手で屋外活動する隊員の写真がある。ドラム缶で手作りされた年越しの除夜の鐘の写真がある。地球の本当の素顔を見つめるため、そして100万年の過去を調べることで100万年の未来を見つめるために活動している人たち表情が描き出されている。
熱がそのまま伝わってくる。1万4千キロという距離を感じさせないのだ。
こどもの頃、冒険の夢のシンボルだった昭和基地。そこには新しい時代の人間のドラマと希望への憧れが、色鮮やかに息づいている。
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