メッセージが回ってきました。
哲也に続いて、校舎を残してほしいという仲間の言葉を是非聞いてください。
みんな哲也と同じ気持ちでした!
※ 拡散希望
石巻の知人の友人から回ってきた拡散希望のメッセージ
ハフィントン・ポストに掲載された記事へのシェア・拡散が広がっている。
石巻市では、被害を受けた大川小学校を解体する方向で検討を続けてきたが、遺族らの強い要望があって現在、解体の計画はペンディング状態にある。
その働きかけを行ったうちの1人は、津波が押し寄せてくるなか裏山に駆け上がり、大けがを負いながら助かった、当時小学5年生だった只野哲也くんだ。哲也くんはこれまでにも、津波からの生存者として多くのメディアにその体験を語ってきた。小学5年生だった彼にとって、この春中学3年に進級するまでの時間の意味は、想像することもできないほど重たいはず。
それでも「大川小学校の校舎を残してほしい」と声をあげた彼の言葉に、同じく当時大川小学校に在籍したこどもたちが賛同し、顔も実名も出して訴えている。
10代の彼ら彼女たちがどんな思いで声をあげたか。その年代を経験したことのある人であれば、その決断の意味がわかるはずだ。
大人はこの声にどう答えるのか。
津波をかぶり、意識を失いながらも、奇跡的に助かった只野哲也君。当時大川小の3年生だった妹を亡くした。只野君は、震災直後から周囲に校舎保存を訴えてきた。今回の意見表明会の実現は、こうした只野君の思いに、4人が「私も同じ」と応えたことがきっかけとなっている。
震災遺構と呼ばれるものの多くで、早期の撤去を求める声と保存を訴える声があった。しかし、大川小学校については個人的には、撤去を求める声は聞いたことがない。この場所は、震災遺構ではなく、町の中心だった場所。そして、たくさんの人たちがかけがえのない命を失ったことを、何度でも繰り返し心に刻む場所。
かつては小学校の建物が見えないくらい家が建ち並んでいて、その道沿いにはお店屋さんや、町を歩く人たちの姿があって、東に向かって道を行けば釣り餌の自動販売機とかもあって、休みの日には北上川の河口近くで釣りをする人の姿が、大人もこどももたくさんあって……。そんな姿の中心にあったのが小学校。大川小学校の建物のほかには、いまや何もなくなってしまった場所で、大川小学校までなくなってしまったら、町の面影がすべて失われてしまう。
今年の3月、「3.11を記念日に」と言った人がいた。
みんな深く傷ついた。「なにが記念日だ」という声が、ひとつひとつは小さな声ではあったけれど、どれだけたくさん語られたことか。
「無かったことになどできない場所」。◆哲也君たち5人の意思表示に賛同します。人口15万の石巻市を動かすには、日本中の人たちの賛同が必要でしょう。でもそれはパワーとしての数ではなく、この場所をこころに刻む1人ひとりの想いが結晶してこそなのではないかと思うのです。
写真と文●井上良太
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