大川小学校と門脇小学校、震災遺構として保存へ【石巻】

iRyota25

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3月25日、「門脇小 大川小 被災2校舎とも保存へ 亀山市長 あすにも表明」と石巻日日新聞が伝えた。記事の冒頭を引用すると――

大川小学校2016年1月
大川小学校2016年1月

 石巻市の亀山紘市長は、東日本大震災で被災した門脇小学校と大川小学校の校舎を保存する方針を固めた。26日午後にも記者会見を開いて表明する。亀山市長は両校舎の保存の是非について、今月末までに最終判断することにしていたが、「保存する方向で国と調整を進めている」という一部報道を受けて、会見を前倒しする。

門脇小 大川小 被災2校舎とも保存へ 亀山市長 あすにも表明 - 石巻日日新聞

記事中にある「一部報道」とは、3月25日午前4時2分に配信されたNHKニュースウェブが伝えた「宮城・石巻市 大川小を震災遺構で保存で調整」とのニュース、さらにそれを受けて25日午前に配信された毎日新聞WEB版などをさすものと思われる。NHKニュースウェブは次のように踏み込んで伝えていた。

石巻市は、犠牲者を悼む鎮魂の場所であり、震災の教訓を伝承し将来の防災にも役立つなどとして、震災遺構として保存する方向で国と調整を進めていることが分かりました。石巻市は津波と火災の被害を受けた門脇小学校の旧校舎についても保存したい考えで、保存費用の問題などについて国と調整を進め、来週、この2つの学校について結論を公表する方針です。

宮城・石巻市 大川小を震災遺構で保存で調整 | NHKニュース

校舎のカバーが進んでいた門脇小(2014年8月)
校舎のカバーが進んでいた門脇小(2014年8月)

国の方針では震災遺構の維持に対する補助はひとつの自治体につき1カ所を原則としているとされる。ニュースを読む限り、そのような状況の中で石巻市は門脇小と大川小の2カ所を残すため、国に対して交渉を行なってきたが、今年度末までの方針発表に先立って、全国メディアがすっぱ抜いたため、発表を前倒しにすることになったということらしい。

地元紙である石巻日日新聞はもとより、全国紙でも校舎の保存について、震災の教訓を伝える場として残すべきという意見がある一方、多くの人が犠牲になった建物を見るのが辛いという住民意見が多いことも伝えている。

大川小学校を震災遺構として残すことについては、解体の基本方針が示される中、当時の在校生たちによる保存の訴えが行なわれてきたこともよく知られるところだ。とはいえ、遺族感情として見るのが辛いという心情も理解できる。さらに、大川小学校もそうだが震災遺構として残すか解体するかの議論の対象となっている場所の多くで、家族の誰かがそこで亡くなり、誰かが生き残ったという苦しい状況があるのも事実だ。

3月25日夕方になって読売新聞WEB版は、遺族への配慮を含めての保存という方針であることを報じている。

被災校舎を保存へ…遺族に配慮、樹木で囲い

 保存か解体かを巡り議論されていた石巻市立大川小の旧校舎について、同市は保存する方針を決めた。

 校舎周辺を樹木で囲むなどして公園化し、外から見えにくくする計画で、亀山紘(ひろし)市長は25日、「遺族に配慮しながら保存していきたい」と述べた。26日に記者会見を開いて正式に表明する。

大川小旧校舎 樹木で囲い保存(2016年3月25日(金)掲載) - Yahoo!ニュース

木立で囲うというのは、震災遺構の存続の是非が問題となっているそのほかの場所でも参考になる手だてのひとつかもしれない。

しかし、そんな単純な問題ではないのではという思いもある。原爆ドームの保存運動が盛り上がったのが被爆十数年を経てだったことを受けて、仮保存とその後の判断を提唱している人たちもある。南三陸町の防災庁舎が現在おかれているのは、そんな経過措置の期間と考えることもできる。しかし、それでいいのだろうか。

震災遺構を保存するか解体するかについては、これまでも地元紙がアンケート調査を行ってきた。震災遺構の候補となっている建物がある場所の近くの住民には反対意見が多く、同じ市内でもそれ以外の場所の人たちには保存に賛成という意見が多い傾向が示されている。

そんなアンケート結果から敷衍すると、おそらく被災地以外の人たち、震災をテレビの中で見てきた日本中の多くの人たちの中にも震災遺構を残すことに賛同する人が大半なのは間違いないだろう。でもそこには、当事者でないからこその「残すべき」という側面がありはしないか。

震災を伝えていくために震災遺構が持つ意味は非常に大きい。しかし、その場所を目の当たりにするたびに、日々心を激しく波立たされてしまう人たちがいることを忘れてはならない。

気仙沼市で遺構として残すかどうか議論になった第18共徳丸(2012年)
気仙沼市で遺構として残すかどうか議論になった第18共徳丸(2012年)

まったく非論理的だが、残してほしいという思いと、残してもらいたくないという心情を両立することはできないものなのだろうか。そんな無茶なことを思わずにはいられないのは私だけではないはずだ。

当事者の方々には酷い言い方になるかもしれないが、残すか撤去するかで揺れている状況こそが現在の被災地の実状だ。そのことをひとりでも多くの人に感じ取ってもらい、理解してもらい、ともに考えていってもらうことこそが「遺構を残す」ことの意義につながるのではないかと思う。

個人的には震災遺構を残すことの意義は大きいと思う。しかし、そのことが心の傷に塩を塗り込まれ続けるように感じる人がいることを直視する必要がある。

広島産業奨励館(広島ドーム)が、核戦争の悲惨さを後世に伝える重要な場所となっていることは確かだが、広島産業奨励館を残した経緯をすべて「良きこと」であるかのように考えるのは、一面的に過ぎるのではないか。気仙沼の鹿折駅前にずっと残された第18共徳丸の撤去を心から喜んだ地元の人たちがいたことも忘れてはならない。

大川小学校(2016年1月)
大川小学校(2016年1月)

もうひとつ、ともすれば忘れられそうな話をもうひとつだけ。

ほんの1回、設置作業を手伝っただけだけだが、その時の仲間は今もずっと仲間。その仲間が今回の保存方針固まるのニュースにコメントした。残してもらうのはありがたいけれど、公共の管理ということになるとイルミネーションをやらせてもらうこともなくなるのかな、と。

仲間たちは震災の年のクリスマスから、大川小学校にイルミネーションのプレゼントを続けてきた。大川小学校を訪ねたことがある方ならお分かりと思うが、小学校の回りには家など一切ない。だからもちろんクリスマスのイルミネーションを楽しんでくれるようなこどもはほぼいないと考えていい。

だけど、仲間たちはこの場所で天に召されたこどもたち、そして大人たちのために、大川小学校のイルミネーションを続けてきた。設置を行なった後にみんなで写真を撮ると必ずだれかのカメラにオーブが写った。

非科学的な現象だと笑うなら笑えばいい。でも仲間たちは、この大川小学校で亡くなったたくさんの人たちの魂がいまもまだいることを信じている。

小学校の入口の中に飾られたイルミネーションを見て、多くの人はあら綺麗ねと言ってくれる。だけど、悪いけど、仲間たちはあなたたちに見てもらうためにイルミネーションをつくってきたんじゃないんだな。

こどもたちの命を大人たちが守れなかった現場のすぐそこに大川小学校はたっている。お子さんやご家族を亡くされた遺族の方々がいる。ご家族のうち数人だけが生き残られた方々(すみません、直接的に言うと、ご家族のうち生きた人、亡くなった人がいるご家庭ということ)がいる。ご遺族の間を切り裂くようなさまざまな事情が存在する。そんな中でも、あの津波を生き延びたほんの数人のこどもたちが、今や青年といってもいい年齢になりながらも、校舎の保存を訴えてきた。

「遺構として残した方がいいんじゃないの」なんて、東京とか神奈川とか静岡とかの人たち(私自身そうだ)が言うのとは意味が違うということを知ってほしい。主張する彼女たちや彼が、ご家族を津波に奪われたにも関わらず訴えてきて主張なのだ。

そしてその場所には2011年のあの日以降、もう年をとることのなくなった魂たちが、目には見えない姿だけれど「あそぼ!」っていいながら、そこにたしかにいるのを信じている人たちがご遺族の他にもいる。イルミネーションの飾り付けを終わった後に記念撮影して、「あ、よろこんでくれているのかな」ってカメラのハレーションの像にしかすぎないかもしれない白い斑点を見詰めて泣きながら、「ありがとうな、また来るからね」って言い続けてやり続けている奴らがいる。

震災遺構って、そんな場所なんだよなと、今日の石巻日日新聞を読んで思った。

そんな場所をオブジェクトとして扱ってスクープ合戦みたいなことしてるメディアの人たちって何なんだろう。メディアの人たちの中にも素晴らしい人もいるし、仲間もいるから、大括りにして批判するつもりはないけどね。

もうひとつ指摘しておきたいのは、全国的なメディアが報じたのが大川小学校のことばかりだったということだ。石巻南浜・門脇地区の津波と火災を一身に受ける形で多くの人たちの命を救い、それと同時に学校周辺でたくさんの人たちが亡くなられた場所でもある門脇小のことをほとんど伝えなかったことには疑義を呈したい、強く。

震災遺構をどうするか――。行政的にはある期限を定めての結論が求められる問題なのだろうが、遺族や住民にとっては簡単に答えを出せるようなものではない。

それと同時に、被災していない人たち、私を含めて大切なのは、保存か撤去かというどちらかの意見に対する賛否を述べることではなく、双方の思いを受け止めて共に「揺れ動く」ことなのではないか。被災していない私にでも、第18共栄丸の姿を鹿折の造成地に思い浮かべることができるように、私たちは東日本大震災を忘れたり風化することなど、本来できようがないはずなのだ。

最近私は思う。もちろん人は忘れる。だけど必ず覚えているし、きっかけがあれば記憶は目の前のものを見ているのと同じくらい鮮明に蘇る。忘れちゃいけないんだろうけど忘れるんだろうなとか、見たこと自体忘れたいとか、状況はさまざまなれど、忘れることができない「その」場所から、1人ひとりが1人ひとりで歩いていけば、たぶんほとなく日本中が仲間だらけになるのではないか。

それこそが遺構を遺構として存立させるベースだ。たくさんの人たちの思いがあってこそ「それ」は、震災遺構としての命を得る。私はそう思う。

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