中浜小学校で出会った「ひと」

iRyota25

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仙台市から海沿いの道を南へ走っていくと、こんもりとした丘がいくつも見えてくる。巨大防潮堤の代わりに、丘とそこに植えた樹木で津波被害を軽減しようという千年希望の丘の群れだ。そこからさらに南に向かってどんどん走って宮城福島県境あたりまで来ると、荒涼というほかないような景色が広がる。360度、見渡す限りのとまでいうとオーバーだが、少なくとも海に向かっての270度くらいは、造成や農地改良、新しい道路や橋の建設現場。むき出しの赤土が連なり、その所どころには津波で浸水して芦原になったままの土地が点在する。

「復興」が進められている土地の「荒涼」を日常的に目にしていても、この地域の光景を前にすると何とも表現のしようのないものを覚える。自然の力と人間のせめぎ合いがあって、あまりにも膨大な自然によって押し切られてしまった後の光景。敗残の土地とまで言うと地元の人たちに対して失礼ではあるが、人間と自然の関わりという視点からはそう表現するほかない。人は自然の力になどかなわないのだ。ハンドルを握りながら、そんなことを延々と考え続ける。

荒野の果てに見えてくる人の暮らしの残骸

そんな景色の中に、ひとつの建物が残されている。その近くには黄色いハンカチを連ねたモニュメントもある。

山元町立浜中小学校——。

昨年、震災遺構として残されることがほぼ決まった場所だ。6年前、この小学校に在籍した児童たちは、地震の大きな揺れで山側の中学校へ避難して無事だったのだそうだ。小学校の近くの人たちも多くが避難した。しかし被害は甚大で、この土地で亡くなられた方もたくさんいる。幸せの黄色いハンカチのモニュメントが建てられたのが、被害の深さを物語っている。

この場所に来たのは二回目だ。その日、小学校のポーチに地元の方らしい人影を見かけた。前に来た時には校舎の近くには入れないように虎ロープが張りめぐらされていたのだが、この日は規制線がずいぶん緩和されていて、校舎の中を直接見ることができるくらいだった。校舎の、ポーチとか犬走りまで入れるようになっていたのだ。震災遺構としての保存がほぼ決まったことで、対応が変化したのかもしれない。

校長室と思しき場所、職員室なのかなという場所、そしてたぶんここは1年生たちの教室だったのかという場所。ポーチから校舎の中を見て回りながら東へ向かって行くと、教室から犬走りに下りる段のところに男性が腰を下ろしてタバコを喫っていた。

「ようこそ。こんなところまでようこそ」

とその人は言った。60代くらいだろうか、とてもとても小柄な男性だった。元々は茶色だったんだろうと思えるジャンパーに垢がにじんで黒光りしていた。袖口は別の種類の汚れでテカテカだった。ズボンもまたオイルで染めたかのようにテリテリと光っていた。まずい人に出会ってしまったのではないか、とさえ思ったほどだった。

「あん時はさ、ほれ、ここから見えるあの海がさ、目に見えて盛り上がるようになって、海に段差がついて、それがここから福島県の方まで連なっていて。いやもうおっかなかった。逃げねばダメだって、みんなして走ったんさ。だからみんな命失わずにすんだのさなぁや」

逃げたって、どちらへ?

思わず質問が口を吐く。

「ほれ、山の方の中学校さ走ったんさ。いやあ、しんどかったとかそんなこと覚えてねえくらい、必死だったんだよぉ。とにかく逃げたのさ。そこの町の方さには妹がいたんだけどな、ダメだった」

言葉がとまった。小学生たちはどんやって避難することに決めたの、とか、地域の人たちと子どもたちの連携は、とか、避難するのに自動車を使ったのかどうかとか、たくさん聞きたいことがあったのだけど、

「いやまあ、ホントにこんなところまで来てくれて、ありがとうね」

小さな小さな男性はそう言い残すようにして、さっと校舎の裏側、芦原が広がる海の方へ去っていった。びっくりするくらいの足の速さで。まるで逃れようとするかのように。

「行ってしまわれた」と、遠いむかしナウシカで覚えた台詞が口を吐いた。

いったいどこへと思って芦原を見渡すと、彼方に軽ワゴンが一台停められていた。でもぬかるみの芦原の真ん中だった。しかもその車はサビだらけで、遠目にも動くのかどうか不安なくらいなものだった。葦の葉が風に揺れて光を乱反射する中、考えられないくらいの速さで移動していく、小さな小さな男性の上半身だけが時々見える。

「コロボックル?、まさか…」

しばらく彼の行方を追っていたのだが、やがて葦の葉の輝きの中にその姿は消えてしまった。

浜中小学校は、大川小学校や同じく石巻市立の谷川小学校と並べて紹介されることがよくある学校だ。児童たちが無事だったかどうかという点での比較対象として。「釜石の奇跡」と呼ばれる岩手県釜石市の小中学生たちの体験も広く知られている。

だけど、同じその場所でたくさんの命が奪われた。小学生たちの命が奪われた、あるいは助かったという話はたくさんきくけれど、同じ地域での被害が話題に上ることはあまり多くはない。失われた命は6年後の冬の日差しのなかで何を思っているのだろうか。

ここで、なにが、あったのだろうか?

海鳴りが聞こえる。空はおそろしく晴れ渡り、まるで砦のような小学校を照らしていた。

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