息子へ。被災地からのメール(2012年11月2日)

iRyota25

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2012年11月2日◆大久町小久(福島県いわき市)

前回、久之浜の浜風商店街で出会った農家の方と待ち合わせ。落ち合ったのはやっぱり浜風商店街。2回目の来訪ですが、お店のみなさんが覚えていてくれて、「こんにちは」と挨拶したり、「料理頼まなくてもいいからお茶して行け」とか、普通に話ができるのが不思議で、そしてうれしい気分でした。

とはいえ、今日の目的は「放射能に負けない農業」の取材。日中に水田などを見せてもらいたかったので早速“現場”に向かいます。

常磐自動車道の高架をレタッチで消すことができれば、絵に描いたような典型的な山あいの田園風景が広がっていました。地域の農家のほとんどがJAを通さず、個人事業主として通販でお米を売って生計を立ててきたという、豊かな土地だったということです。

しかし、“目には見えないものが振ってきた”せいで、これから先も農業を続けられるかどうかという問題、集落の中での意見の対立、同じ地域の別の集落との確執など、取材のスタート初っぱなから、ハードパンチの連打を喰らってしまいした。

美しい風景と話の内容のギャップは、かなり強烈です。

さらに、よき理解者であり、大先輩でもある農家の方も招いていただき、日が落ちるまでは現地で、日没後はお宅の茶の間にお邪魔して、農業のこと、集落のこと、行政のこと、町と農村地域の意識の違いなどについて聞き取りをしました。

18:00からは放射線量の測定や、線量を下げるための技術提供などで地元の農業を支援している企業での会合に出席。最初は勉強かたがた、最後にはフリーディスカッションという形で、話し合いに参加させてもらいました。

会合の参加者のほとんどは、久之浜地区とその周辺地域の農家の方々。彼らの「静かで、しかし挑戦的な闘志」を感じさせられる時間になりました。

日本人の創意工夫の原点がある

原発事故で農業がピンチになることは、これまで日本中の誰も経験したことのないことです。お上に明確な指針があったわけでもありません。行政が示したのは、あまりにもおおざっぱ過ぎる調査による「稲作してもいいよ」というオッケーサインくらいなものでした。

お墨付きをもらったのだから、そのまま稲作をしてもよかったのでしょう(そうした人もいるそうです。しかし自分たちが食べるお米は他県産のものを買っている人もいるそうです)。

しかし、取材させてもらった方々は「ほんとうに大丈夫なのか?」と行政の指針を疑います。チェルノブイリの情報も入ってきていました。政府の指針とか、基準値で大丈夫なのかという自然な疑問があったそうです。

自分たちが安心して食べることができるものが作れるのか?自分たちが食べられるものを作って、自信を持って消費者に届けられるのか?

そんな思いから、自分たちの手での測定が始まりました。ただ測定するだけではなく、自分たちが食べられるもの、自信を持って売れる作物を育てるための試行錯誤もスタートしました。

今日の会合は、彼らが今年行った多くの試験、実験をおさらいし、来年につなげるための課題の洗い出しといった重要なミーティングでした。

原発から30キロほどの場所での農業です。生易しいものではありません。でも、前人未到の「高線量地域での極低線量農業」に挑戦する人たちに感動しました。

朴訥な、しかしやっていることは実はすごいという彼らの姿に、日本人の原風景を見たような気がしました。

日本のイノベーションの雛形は、こういうことだったんだろうなとも思いました。たぶん間違いないでと思います。

国の基準はもちろん、大手スーパーなどが購入の目安としているとされる10Bqを下回り、精密な測定装置で長時間量っても「検出限界以下」の数値が出る。そんな米作りを彼らは実現したのです。

次は風評との闘いです。でも、父さんは彼らと話していて少し楽観的にも感じています。なぜなら彼らは、検査をしてたとえ悪い結果が出ても、次の改善に向けてのベースとして、情報を公表しているから。取り組みがしっかり見えるから、説明を聞いていて納得することができるのです。

『自分たちが食べられるものを作って、自信を持って消費者に届ける』

そんな彼らの生き方は、必ず理解してもらえるでしょう。

どんな仕事にも“誠実さ”が大切だということを教えられた一日になりました。  

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