戦争が廊下の奥に立ってゐた

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標題は渡辺白泉の有名な俳句。思わずどきっとしてしまう。

薄暗い廊下を歩いていくとその先に突然か、あるいは仄暗い中から浮き上がるかのようにそれが見えてくる。見えてきたときにはもう後には戻れない。

渡辺白泉は昭和11年(1936年)、慶応大学を卒業する。二・二六事件が起きた年だ。大学時代から若手俳人として注目される存在だった。昭和13年(1938年)にはこんな句もある。

銃後と言う不思議な街を岡で見た

赤の寡婦黄の寡婦青の寡婦寡婦寡婦

「渡辺白泉全句集」

「寡婦」が戦争で夫を亡くした人をさすのは言うまでもない。この頃にはすでに、出征兵士を万歳で送り出し、無言で帰国する英霊を迎える光景も当たり前のものになっていたのだろう。そして昭和14年(1939年)に詠まれたのがこの句。

戦争が廊下の奥に立ってゐた

「渡辺白泉全句集」

この句の恐ろしさは、描き出された情景の不気味さだけにあるのではない。

満州事変が始まったのは昭和6年(1931年)。翌年には五・一五事件があり、昭和11年には二・二六事件。軍部の暴走は止まることなく昭和12年(1937年)には戦火が中国各地に拡大していく。日中戦争と呼ばれる泥沼の戦争だ。この句の2年後、昭和16年(1941年)にはアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアなど世界中を相手とした戦争に突入する。

そんな歴史の流れの中にこの句を置くと、まったく別の恐ろしさが見えてくる。句が詠まれた昭和14年はすでに戦争の真っ最中。廊下の先に戦争が立ってたなんて悠長なことを言っているような状況ではない。ましてや渡辺白泉は「銃後」とか「寡婦」の句も詠んでいる人なのだ。

それでも新進気鋭の俳人は「戦争が廊下の奥に立ってゐた」と詠んだ。歴史の動きに敏感であったであろうこの人をもってしても、戦争はまだ廊下の奥にあるものとして描かれた。世の中の多くの人は果たして戦争をどう感じていたのだろうか。

イメージ写真(防大の校内に展示されている米国製のM4戦車。オープンキャンパスで撮影)
イメージ写真(防大の校内に展示されている米国製のM4戦車。オープンキャンパスで撮影)

この句を詠んだその年に、俳人自身が災禍に巻き込まれることになる。その災禍とは戦争と直結するものだった。渡辺白水は、『京大俳句』への弾圧に端を発した新興俳句弾圧事件で、執筆活動停止の処分を受けることになったのだ。悪名高い治安維持法による思想弾圧だった。

廊下の奥にあると思っていた戦争に、気づいた次の瞬間、自分自身が絡げとられてしまったのだ。

戦死者の子に軍刀を買うべしや

新興俳句弾圧はアジア太平洋戦争中も続き、多くの俳人が検挙され投獄された。戦後も活動を続けた秋元不死男(戦前は不二雄、または東京三 あずま・きょうぞう)は昭和16年(1941年)2月に検挙され、18年(1943年)2月までの2年間にわたり獄につながれていた。彼の昭和13年の句。

或る日(昭和十三年)
戦死者の子と街にあり軍歌湧く
戦死者の子と投擲の鬼を鳴らす
戦死者の子に軍刀を買うべしや
戦死者の子と見るシネマ人斬らる

「句集 街―亡き母に」

逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ

渡辺白泉や秋元不死男とも交流があった西東三鬼(さいとう・さんき)は、新興俳句のリーダー的存在だった。その句は芭蕉や一茶、子規の俳句のイメージから遥かに遠い、「前衛的」という言葉がぴったりくるものだった。

おそるべき君等の乳房夏来る
雪国や女を買はず菓子買はず
水枕ガバリと寒い海がある
ハルポマルクス神の糞より生まれたり
黒人の掌の桃色にクリスマス
びびびびと死にゆく大蛾ジヤズ起る

時代が恐れるほど斬新な作風だった、新興俳句の旗手。彼の「禍々しさ」近代の俳人Vol.3(福田 和也) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

三鬼もまた戦争を詠んだ。

機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク 
逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ
砲音に鳥獣魚介冷え曇る
占領地区の牡蠣を将軍に奉る

西東三鬼、検挙される(京大俳句事件) - 今日の馬込文学/馬込文学マラソン

彼は戦地に赴いてはいない。しかし、映像をメスで切り取るかのような物凄い句だ。彼が参加したことで『京大俳句』に戦争を描く句、厭戦的な句が増えたとも言われる。そして、西東三鬼も検挙され、執筆活動を禁止される。

サーフィンの若者徴兵を知らぬ

新興俳句の弾圧は文芸や言論のみならず、大学での研究など幅広い分野に及んだ思想統制の一部だった。そんな歴史を忘れまいと建てられた石碑「俳句弾圧不忘の碑」の除幕式が、2月25日に行われた。石碑の建立を呼びかけたのは金子兜太(とうた)。

戦時中に投獄された先輩俳人たちのことを、そしてこんな歴史があったこと、繰り返してはならないというメッセージを伝えようとした俳人の若い頃の句。

海に青雲(あおぐも)生き死に言わず生きんとのみ

金子兜太全句集「生長」より、トラック島にて

兜太は昭和18年(1943年)日銀入行後、海軍の短期現役士官として、南洋における連合艦隊の一大拠点だったトラック島(チューク諸島・ミクロネシア連邦)に渡る。海軍主計中尉として数百人を従える将校だったが、トラック島は昭和19年(1944年)2月に大規模な空襲を受けて基地機能は壊滅してしまう。トラック島時代を詠んだと見られる句には、「生き死に言わず」という「生」への意志や、戦争とはまるで無縁なように思わせる島の光景が描かれている。

足につくいとど星座は島被う
ふる里はあまりに遠しマンゴー剥く
魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ

金子兜太全句集「生長」より、トラック島にて

両手挙げて人間美し野の投降

「暗緑地誌」

米軍は爆撃で壊滅した島には上陸せず、さらに先へと軍を進めたため、トラック島は敵中に取り残された飢餓の島となった。終戦後、生き残った将兵はアメリカ軍の捕虜となり、兜太が日本に帰る船に乗ったのは昭和22年(1947年)だった。

水脈の果て炎天の墓標置きて去る

金子兜太全句集「生長」より、トラック島にて

爆撃に斃れ、あるいは飢えて死んでいった多くの人たちを残して国に還る気持ち。

北へ帰る船窓雲伏し雲行くなど

金子兜太全句集「生長」より、トラック島にて

金子兜太がトラック島にあった同じ時期、この島では海軍生体解剖事件と呼ばれる捕虜虐殺が数次にわたって行われた。短期現役士官というのはいわば臨時の軍人ではあるが、中尉という地位の将校であったわけだから、この事件のことは必ず耳に入っていただろう。あるいは東京帝大卒で英語ができる士官として、事件の調査に当たる米海兵隊員から詳しい情報を求められたこともあったかもしれない。「雲伏し雲行くなど」という言葉に、南洋の明るい空とは対照的な深淵が感じられないか。

戦後73年を生き、多くの俳句を残してきた金子兜太にとって、戦争を繰り返してはならないというのは理屈とかポリシーといったものではなく、深く生に根ざした感情だったのではないかと思う。

だから、「俳句弾圧不忘の碑」の呼びかけ人となった。だから「アベ政治を許さない」と揮毫した。

有名なこの書は2015年夏、安保法制反対デモのプラカード用に澤地久枝の依頼で書かれたものだ
有名なこの書は2015年夏、安保法制反対デモのプラカード用に澤地久枝の依頼で書かれたものだ

「サーフィンの若者徴兵を知らぬ」は数年前の句らしい。戦争に行くことになるのは「徴兵」という言葉もその意味も、そこからつながる現実も知らないサーフィンに興じているような君たちなんだよ。「知らぬ」と突き放す中にも、そんな語りかけが感じられる。

金子兜太は2018年2月20日、永眠した。98歳だった。「俳句弾圧不忘の碑」は俳人にとって大きな仕事となった。石碑の近くには兜太の意思を継ごうと「平和の俳句」投句箱が設けられたそうだ。

 昭和俳句弾圧事件記念碑の会 (Association for the erection of a monument to the haiku poets persecuted during WWII)
showahaiku.exblog.jp  

「戦争が廊下の奥に立ってゐた」と呟くような未来を私たちが招くことにならないように。

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