2011年3月11日(金)14時46分に発生した東日本大震災。この日、宮城県石巻市の日和幼稚園の5人の幼い命が失われました。
亡くなった佐藤愛梨(あいり)ちゃんのお母様である佐藤美香さんにお話を伺い、現地を歩いてまわりました。
日和幼稚園バスの被災場所
地震発生直後、日和幼稚園のバスが12人の園児を乗せ家路につきます。
そしてこの場所でバスは津波にのまれます。
津波の到達地点は白い家のあたりまでで、あと数メートルで助かることができる場所だったようです。左側の土の部分でバスは、家に押しつぶされた状態でした。
津波にのまれた後、残された園児は「助けて」と叫んでおり、子供たちの声は夜中12時ごろまで聞こえたそうです。普段子供のいないこの場所で、子供の声がするのはおかしいと思いながら近所の人が辺りを探しますが、どこにいるかわからなかったようです。
その後、製紙会社と門脇小学校の方面から火災がじわじわと近づいてきます。
この場所で、3人の子ども達が車の前の部分で抱き合うように亡くなっていました。そして1人の子どもが後ろに。もう1人が電柱に潜り込むように亡くなっていたそうです。
震災後に発生した火災により、愛梨ちゃんの遺体は下半身と腕がなくなり上半身だけで、皮膚もなく黒焦げで、脳や内臓も出ており、人だとわからないような状態だったそうです。
しかし、お母様たちはその日何を着せたかなど、ちょっとしたことで自分の子どもがはっきり分かったそうです。そして子ども達はそれぞれの親の元へ戻っていきます。
お父さんが愛理ちゃんを探す
地震発生時に製紙工場で働いていた愛梨ちゃんのお父さんが、保育園に娘を迎えに行きます。
実は幼稚園バスの運転手はバスから投げ出されて、その後幼稚園に戻っていたようです。
しかし迎えに来たお父さんに幼稚園側が言ったのは「愛梨ちゃんは被災したかもしれません」という言葉で、情報を正確に伝えることはありませんでした。
お父さんは愛梨ちゃんを探しに山の上へ行きますが姿が見当たりません。
19時に幼稚園へ行きバスと連絡が取れたか確認しますが、園長は首を振るだけ・・・。
もし教えてくれていれば、仕事仲間に土下座しても探し出したけれど、それすら叶わなかった。愛梨ちゃんと近かったのに助けられなかったと今でも思うそうです。
新しい避難道について思うこと
バスの被災場所(地図①)から門脇小(地図②)に行く途中、避難道が作られました。この避難道は震災後につくられたそうです。
この道を見て美香さんは「残念に思う」とおっしゃっていました。
理由はスロープがないため。これでは車いすの方が登ることができない。優しさを持った避難道を作ってほしいとおっしゃっていました。
門脇小学校での行動
子ども達を乗せたバスは、途中で保護者に引き取られた子が数名下車し、園児の家へ。最後の子の家で「小学校か幼稚園に行きます」という張り紙を見て、門脇小学校へ向かいます。
門脇小では、幼稚園からの電話が奇跡的につながります。そこで待機命令があり、先生たちが幼稚園から降りてきて、バスを戻す指示があります。
車がごった返し信号も停電の中、先生たちは子どもを全員連れていきません。理由は「バスが安全だと思った」からなのだそうです。
門脇小で数名園児が下車し、その後残された5名の園児が犠牲となります。
門脇保育所の話
門脇保育所
石巻には海の近くに門脇保育所があります。地図を見てわかるように、被災した門脇小学校よりもさらに海に近い保育所です。
この保育所では、震災時はお昼寝の時間でした。大きな揺れのため、急いで園児を起こし、山の上にある石巻保育所へ向います。
子どもの命を守ることを第一に考え、地震になったら子どもに最適の環境である石巻保育所へ行くことが、先生たちの中で暗黙の了解としてあったようです。
子どもの命を優先した行動が子供の命を守ることにつながりました。
しかし、保護者との事前の情報共有ができておらず、子供を迎えに行った保護者が津波に襲われて亡くなっているそうです。
暗黙の了解ではなく、事前に情報を共有することが、いざというときには大切なのだと感じます。
実は保育所と私立幼稚園では、避難訓練の回数が異なるということを今回教えていただきました。保育園は毎月訓練をやっていますが、私立幼稚園は年に2回以上の訓練さえやっていれば、どんな内容の訓練でもよいそうなのです。
日和幼稚園はというと、火災と地震の訓練が年2回のみだったそうです。子供を預かる以上はしっかり訓練をやってほしい。改善してほしいと佐藤さんは話していらっしゃいました。
保護者に知らせていなかったずさんな運行管理
日和幼稚園では大きいバスと小さいバスの2台を所有しており、愛梨ちゃんたちの乗る小さいバス(子供の定員12名)は1日3便の運行となっていました。
愛梨ちゃんは内陸に住んでおり、通常は3便目に乗車します。
しかし3月11日は2便の子と3便の子が合わせて12名の為、海側の2便の子ども達と一緒のバスに乗せられ、行く必要のない海ルートを通って家路へ帰ります。
2便と3便を合わせて送迎するることは保護者には知らせておらず、常日頃からそのようなルールを無視した管理を幼稚園はされていたようです。
幼稚園の利便性だけで、子供のことを考えない対応をしていたことをうかがい知ることができます。
日和幼稚園
門脇小学校(地図②)から歩いて5分ほどで、日和幼稚園(地図③)に到着しました。階段を上るとはいえ、小さな子どもでも苦も無く歩ける距離です。
地震発生後にバスを運行した理由について幼稚園側は、「子ども達が寒そうで不安そうだった。そのため早く親元に帰したかった。」とおっしゃっていたそうです。
子供の命を優先していたら、バスで暖をとったり、昼寝用の布団を利用したり、子供を励ましたり、やれることはほかにもあったと思います。
しかし、早く親元に返して責任から逃れたいという思いがあったのではないかと考えてしまう、無責任な行動に感じられてなりません。
園は当初、防災無線から流れる「ただいま大きな地震が発生しました。沿岸部に近づかないで高台に避難してください。」という避難誘導が「聞こえなかった」と答えていたそうです。
しかし園長は証人尋問の中、初めて園舎の中で聞いていたことをぽろりとおっしゃいました。
こういう本当のことを言わない弱さが、ご遺族を苦しめているのだと感じました。
園舎から被災場所までの距離
幼稚園から被災場所までの距離は、歩いて5分もかかりませんでした。にもかかわらず、幼稚園からの助けはありませんでした。
そして、被災現場を先生方が知ったのは、翌日だったそうです。
幼稚園は運転手から状況を聞こうとせず、把握しておりませんでした。被災したのは分かっても「子ども達はどこだ」とは残念ながらならなかったのです。
慰霊碑
ご遺族は子供たちの亡くなった場所に慰霊碑を立てることを計画されていました。
しかし、都市計画で実際の被災場所に慰霊碑を立てることが叶わないため、少し離れたこの場所に建てることを石巻市と交渉しているそうです。
この場所で何が起きたかを伝承していきたいとのことでした。
佐藤さんに語っていただいて思うこと
佐藤さんはお話をされている中で、「私は人災で子供たちが亡くなったと今も思っている」とお話しされていました。
地震発生後のバス運行指示や、ずさんな運行管理、危険に対しての意識の低さは震災のせいだけでは片づけられないお話に感じました。
誰か一人でも子どもたちのことを考えていたら、できることはたくさんあったと思わずにはいられません。
東日本大震災による裁判は、大川小や七十七銀行などありますが、どの裁判も建物が被災しています。建物が被災していないのは日和山幼稚園だけだと佐藤さんは言われました。
日頃からのずさんな行動によって、子ども達が命を落とすという最悪の結果となりました。避難しなくてもよい子供たちが犠牲になるのは、おかしいとしか思えません。
話を聞くだけでなく実際に歩くことで、なぜ助けられなかったのかというご遺族の悔しい思いが伝わてきます。
お子さんを亡くした記憶を語るということは、私には理解することのできないつらい時間だと思います。
しかし、それでも多くの人に知ってもらうために語っている佐藤さん。私ができることは、すこしでも多くの方に知ってもらう為の行動をすることだと思いました。
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