町を浸した黒い水に映った月

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あの日は満月ではなく三日月だったんだ。気仙沼の自分が住んでいた辺りは、直撃こそ逃れたが津波で浸水した。ただただ逃げるのに懸命だった。腰まで水に浸かりながら、近所のアパートに逃げ込んだ。2階の部屋の女性が引っぱり上げてくれた。その人の部屋の玄関先でその晩は過ごしたんだ。

服も何もかもびしょぬれだったから、避難した部屋の旦那さんのパジャマを貸してもらって着替えた。靴はなかった。翌日、またびしょぬれになりながら高台の避難所を目指すことになったこと、市の職員に長靴をくれないかと頼んだら、ぶかぶかのを渡されたこと。サイズの合わない長靴を履いて、しかも水の中を歩いて行ったものだから、くるぶしが擦れて、その傷が化膿してしまって、避難所生活の最初の頃は歩くのも容易でなかったこと。水産加工会社の倉庫から流れてきた魚で、猛烈な臭いだったこと。見たことのないくらい巨大なハエが大量発生したこと。震災後のことで思い出すことはたくさんある。忘れられないことばかりだ。

しかし、特別に印象的だったのは、アパートの玄関先で過ごした夜に見た月。あの日は雪が降って寒い夜だった。寒い夜の町に津波の水が溜まったまま、なかなか水がはけないでいた。湾が深い気仙沼だから、ヘドロまじりの真っ黒な水だ。その真っ黒い水に月が映っていた。満月じゃないよ、三日月。水面は波もなく、黒くて大きな鏡のようだった。その黒い水の鏡に、くっきりと三日月が映っていた。

雪が舞う寒い夜。黒い水面に際立つ三日月。その風景がとても美しく見えたんだ。体はびしょぬれ、これからどうすればいいのかも分からない。そんな状況なのに、月を見て美しいなあと思っていたのを忘れることができないんだ。

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