ヒロシマからの道「原爆の子の像に畳み込まれたことばの意味」

iRyota25

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「原爆の子の像」という名称に私は衝撃を受け続けています。最初にその存在を知ったのは小学生の頃。ショーワノートの口絵か、教科書の副読本ででした。折り鶴を掲げた少女が乗ったドーム型の記念碑の印象もさることながら、キャプションとして付けられていた「原爆の子の像」という言葉そのものがショックでした。

原爆の子の像――。

「原爆の子」って何なのか。原爆という言葉と子という言葉の間にある「の」が何を意味しているのか。被爆から71年、自分がこの像を知ってから40数年。いまでも、ここに「原爆の子の像」という言葉を書きながら、やはり衝撃を受けています。

禎子さんが生きた4675日。そしてその日々を受け取った同世代の若者たち

禎子さんが生きた4675日
佐々木禎子さんは1943(昭和18)年に生まれ、2歳の時に被爆しました。
運動の得意な元気な少女に成長しましたが、被爆から10年後に突然
白血病であると診断され入院しました。
千羽鶴がお見舞いに贈られたことをきっかけに、
「生きたい」という願いを込めて折り鶴を折り始めます。
8カ月の入院生活の末、家族が見守る中亡くなりました。

「禎子さんが生きた4675日」平成13年度 第1回企画展 | 平和記念資料館

原爆の子の像は、原爆投下から10年後にひとりの少女がたった12歳で亡くなったことを契機に建てられたものです。

「原爆の子の像」建立へ
禎子さんが通 っていた幟町小学校の同級生は、
友達を亡くしてショックを受けました。
禎子さんのために何か自分たちにできることはないだろうかと思い、
お墓か記念碑のようなものを建てられないかと考えました。
そんなころ、禎子さんをはじめ原爆で亡くなった
すべての子供の霊を慰めるための
記念の像を造らないかという話を持ちかけられ、賛成し運動を始めます。
同級生たちの素朴な思いから始まった運動は、
やがて市内の小・中・高校を巻き込んだ大きな運動に発展しました。

「原爆の子の像」建立へ 平成13年度 第1回企画展 | 平和記念資料館

誰か大人が言い出したのではなく、禎子さんの同級生たちを中心に、病床にあった頃の禎子さんのために鶴を折ってきた人たちがあげた声が全国の同じ世代の共感を得て、大きなうねりのような活動となって原爆の子の像は形になっていったのです。

かけっこが速く、将来は中学校の体育の先生になりたいと思っていた佐々木禎子さんのこと、そして禎子さんの死を契機に原爆の子の像がつくられた物語は、平和記念資料館の資料でお読みください。ぜひお読みください。

 「禎子さんが生きた4675日」平成13年度 第1回企画展 | 平和記念資料館
www.pcf.city.hiroshima.jp  

原爆の子の像が建てられた時代

こどもたちが像建立のために募金などの活動を始めて2年半、1958年(昭和33年)に原爆の子の像は完成。こどもの日である5月5日に平和記念公園で除幕式が行なわれました。原爆投下、そして太平洋戦争から13年が経っていました。

敗戦後、アメリカなど連合国に占領されていた日本では、原爆のことはほとんど報道されていませんでした。被害の実像が伝えられるようになったのは1951年(昭和26年)にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本がふたたび独立を取り戻してからです。この時代、「原爆症」の報道はたびたび行われ、ヒロシマやナガサキに暮らす人々は、次は自分が原爆症で「体調が悪くなったと思ったらそのまま死んでしまう」のではないかという不安と、原爆被害が広く知られることになったがゆえの「周囲の無理解」に苦しめられていたといいます。

ビキニ環礁で行なわれた水爆実験で、日本のマグロ延縄漁船「第五福竜丸」の乗組員全員が被爆したのは1954年(昭和29年)。無線長だった久保山愛吉さんの闘病や全国からの応援の声を、禎子さんはおそらく知っていたのです。彼女が体調を崩した時期と、久保山さんが亡くなったのは同じ年の9月なのですから。

小学6年生だった彼女が、どんな思いで鶴を折ったのでしょう。

私は涙を止める方法を知りません。

その頃、大人たちは

像の除幕式の写真の右奥には原爆ドームの姿が写っています(http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0107/exh01074.html)。

しかし、像が建立されたとき、原爆ドームは保存されるかどうか決まっていませんでした。戦争の、原爆投下で死んでいった人たちの、そして原爆症のシンボルである「広島県産業奨励館(原爆ドーム)」は撤去すべきという意見が根強かったのです。

禎子さんの死を契機に建てられた像が建立された頃、後に世界遺産に登録される原爆ドームを解体撤去すべきか保存すべきか、大人たちは対立していたということ。このことを私たちは覚えておくべきだと思います。

(像の台座がドーム型をしているのは、もしも原爆ドームが撤去されてしまっても、その記憶をとどめるためだったのかもしれません)

像が建立された2年後、禎子さんより1歳年下だった楮山(かじやま)ヒロ子さんが原爆症で亡くなります。高校1年生になったばかりでした。彼女が残した日記がきっかけとなって、禎子さんの像を造るために立ち上がった同世代の若者たちが再び行動を起こします。その活動が、原爆ドームを「保存」という方向に向かわせる原動力となりました。

「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるのだろうか」

原爆ドームが、もう思い出したくもない戦争の痕跡から、未来に伝えていくべき「遺構」へと歩み出したのは、原爆投下時、物心もつかない1、2歳だったこどもたちが成長し、世界平和のために上げた叫び、そして祈りだったのです。

世代をこえて、時代をこえてということの意味を

当時、像の建立やドームの保存のために声をあげ、署名活動を行った若者たちは、いまではもう70代前後になっています。100年後、200年後の人たちが歴史を振り返ったときには、原爆投下の頃1、2歳だったこどもたちが、人類の遺産を残していく上で重要な役割を果たしたことは伝えられたとしても、その人たちが70歳になっても同じ思いを持ち続けていることまで、「肌身」の感覚として伝わっていくかどうか。

原爆が投下されたとき、マイナス10歳、マイナス30歳、もしかしたらマイナス60歳くらい(?)だけど、当時1、2歳だった70代の人たちと同世代を生きている私たちは、禎子さんやヒロ子さん、そしてもちろん名前としては広く知られてはいないけれど、たくさんの人たちのことを「肌身」の感覚として伝えていくことができるのかどうか。いえ、いまこの同じ時代に生き、同じ地球の空気を呼吸している私たちは伝えていかなければならないのです。(伝えていくことができるのは、いまを生きている私たちだけなのだから)

原爆の子の像というあまりにもストレートな名称の持つ意味、そしてその名前に畳み込まれている言葉を。

原爆の子の像という名前には、原爆で亡くなった禎子さんやヒロ子さんを悼むための像なんだという言葉が――

原爆の子の像という名前には、原爆で亡くなったたくさんの、あまりにもたくさんのこどもたちの名前が――

原爆の子の像という名前には、原爆で亡くなったたくさんの、あまりにもたくさんのこどもたちの親たち、そして子を父を母を友人を失った人々。あまりにも多くの人々の名前が――

原爆の子の像という名前には、原爆で亡くなったたくさんの同世代の人たちの人生を自分のこととして痛み苦しみ、何かをせねばと行動に移した若者たちの名前が――

原爆の子の像という名前には、核兵器の惨禍を知った私たち1人ひとりの名前が――

見えない形で刻み込まれているのです。

いま、同じ時代を生きている人類すべての人たちの名前が。ひとり、ひとり。

原爆の子の像には毎日多くの人たちが訪れます。海外から訪ねてくる人もたくさんいます。そして鶴を折るのです。「繰り返してはならない過ち」の意味を言葉だけではなく、指先をとおして体全体に記憶させるために。

これはぼくらの叫びです

これは私たちの祈りです

世界に平和をきずくための

1955年の頃、ティーンエイジャーだった人々の思いに呼応する人たちが、私たちのまわりにたくさんいます。年齢や国籍はもちろん、あらゆる不幸や差別的状況をこえて

世界平和は、私たちが。

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