【シリーズ・この人に聞く!第113回】7本指のピアニスト 西川悟平さん

kodonara

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ピアニストとして前途有望視されていながら、ジストニアという原因不明の病に突如冒され…。絶望の淵から這い上がり、「7本指のピアニスト」として再び脚光を浴び、4月には自叙伝も刊行されました。感動的なフレーズがいくつも飛び出してきた今回のインタビュー。6月はライブ&トークショーで来日予定!ミラクルを起こし続ける悟平さんに不可能を可能に変える術をお聞きしました。

西川 悟平(にしかわ ごへい)

1974年大阪府堺市生まれ。ピアニスト。JHC Foundation,Incグリニッチ国際音楽院ディレクター。米日財団会員。
15歳からピアノを始め、3年後にニューフィルハーモニー管弦楽団とピアノコンチェルトを共演。99年、巨匠、故デイヴィッド・ブラッドショー氏とコズモ・ブオーノ氏に認められ、ニューヨークに招待される。同年、リンカーンセンター・アリスタリーホールにて、ニューヨークデビュー。翌年より定期的にカーネギーホールにて演奏。05年、ジュリアード音楽院元ピアノ科主任教授オクサナ・ヤブロンスカヤ女史をJHC Foundation主催のもと日本へ招き、演奏会をプロデュースする。01年、両手の演奏機能を完全に失い、ジストニアと診断される。5人の医師に不治の病と言われるが、リハビリにより少しずつ右手の機能と左手の指2本を回復させ、現在に至る。08年、毎年イタリアで行われる「アレクサンダー&ブオーノ国際音楽フェスティバル」に招かれ、ヨーロッパデビュー。09年、ピアノ界の殿堂ニューヨークスタインウェイホールにてリサイタルを主催。同年、バンクーバーで行われた「国際障害者ピアノフェスティバル」で4位(クリスタル賞)を獲得。東京で行われた受賞者コンサートで、羽田総理(当時)より表彰状を授与される。12年、ニューヨーク市長公邸に招かれ演説と演奏をする。

 西川悟平オフィシャルホームページ
gohei.info  

意識的に物事をポジティブに捉える。

――自叙伝「7本指のピアニスト」をワクワクしながら読ませて頂きました!10年くらい前に悟平さんに別件でインタビューさせて頂きまして当時も素晴らしかったのですが、時間経てさらに磨きが掛かった気がします。今日は『不可能を可能に変える術』について、これまでの体験をふまえて悟平さんの哲学をお聞かせください。『最悪の出来事も最高の出来事に変わる。それぞれの出来事を生かすも殺すも、自分自身の考え方と行動次第なのだ。』 と著書でも語られていますよ。絶望の淵にあっても投げだすことなく好きなピアノを積み重ねてこられたのは、人との出会いが大きかったですか?

最愛のお母様は53歳という若さで病気のため他界。プリクラで撮った2ショットが最後の1枚に。

最愛のお母様は53歳という若さで病気のため他界。プリクラで撮った2ショットが最後の1枚に。

人との出会いに尽きます。もちろん、自分の信念はブレないよう常にキープします。英語の表現で「半分空っぽ、半分は満タン。」ということわざがあります。コップに水が半分入ってるのを見て、『半分も入ってる!』と見る人と、『半分しか入ってない。。。』と見る人の違いを表す、僕の好きな哲学的なことわざです。この教えは「物事は『半分も入ってる!』と、ポジティブな気持ちでいなさいよ。」というものです。僕は、ネガティブになりそうな時は、いつもこの教えを思い出します。ポジティブに物事を見ていると、不思議とポジティブに物事が動き出すんです。信じるとか信じないとかの問題ではなく、僕は今までこの捉え方で、最悪なシチュエーションも時間はかかりましたが、良い方向へ持っていけました。

――その英語のことわざ、コピーライターとしてキャッチコピーを考える方法で一番最初に習いました!物事の捉え方はたいせつですし、自分がそう意識することで変化が訪れるのですね。でも、最愛のお母様をお若くしてご病気で亡くされ残念でした。家族の死は私も経験があって辛いものですが、ポジティブな思考で越えられましたか?

最愛なる人の死や病気は、自分にはどうしようもできません。僕の場合は、母の闘病生活と死、それと父のうつ病です。こればかりは、最高の出来事にはなりかねます。ただ、僕はこの経験から、頑張って親孝行したい、と言う原動力にしました。

――悟平さんがいつでも前向きに、誰に対しても質問攻めにすることで運を引き寄せたのではないかと感じています。日本では目立つことが悪いこと、という風潮がありますが、悟平さんは早くに海外へ目を向けてラッキーだったかも。これからの日本人に必要なことはどんなスキルだと思われますか?

コミュニケーションスキルだと思います。そして、自分の夢や目標や想いを、言葉で表せること。上手に言おうとか、上手く表現しようとか思わず、とにかく「私/僕は、…が好きなんです。…になりたいです。…をやりたいです。」という感じで!
僕がアメリカの大学で一番驚いたこと、苦労したことの一つに「授業中に黙って聞いているのは、ダメだ。質問でも、自分の思いでも発言をバンバンしなくちゃいけない。」と言われ続けました。数学の授業や、歴史の授業ならともかく、文化や哲学や心理学などの授業では、生徒一人ひとりが「よくもまあ、そんなにしゃべることがあるねぇ!」というくらい、よく発言します。始めの頃、僕は静かすぎて、全然ダメでした。でも日本では、全く逆ですよね。

――もし、日本でピアニストを目指していたら…ちょっと違う展開になったかもしれませんね。やっぱり悟平さんはNYの前向きさが合っていると思います。

僕は日本にいたら、100000%ピアニストにはなれていませんでした。あまり褒めてもらった記憶がありません。「憧れの曲を、一生弾けないわよ」とか「ショパンは向いてないわね」とか「遅くからピアノを始めて、いくら頑張っても、上から塗ったメッキはいつかはげるわよ」とか「器用なだけで、音楽の才能がない」などと周囲からは言われ、とにかく心底傷つくことが多かったです。もちろん、時には褒めてもらったと思いますが、1褒めたら10けなされる感じでした。これは日本に限らずですが、とにかくキチンと正確に演奏することを徹底的にしごかれましたが、ニューヨークの器はでかく、僕のような荒削りな演奏をしても、その個性をいかして堂々と演奏させてもらえましたし、同時に厳しいレッスンで腕を磨かせてもらえました。
ちなみに僕の場合、海外に目を向けていたのは、音楽や映画の作品であって、まさか自分がニューヨークへ来るなんて思ってもなかったのですが、自然とそういう流れとなりました。

国際的映画スターを夢見た小学生時代。

――ピアノを始めたのが15歳ということで。ピアニストとしては超レアですよね。ものすごく努力されたと思いますが、幼少期の悟平さんについてお聞かせください。どんな大人になりたいと思っていました?

念願の音楽大学へ入学。大学構内の校庭にて19歳当時。

念願の音楽大学へ入学。大学構内の校庭にて19歳当時。

小学校の文集には「国際的映画スターになりたい。」と書いていて、小学校の先生が「諦めなければ、夢は叶う!」と言い続けてくれました。20年後に僕がカーネギーホールで演奏した時、その先生は気絶するほど喜んでくれました。

――国際的映画スターではなく、国際的ピアニストになったのですから!何をすることが一番好きで、どんな性格のお子さんでしたか?

『7本指のピアニスト』西川悟平著 朝日新聞出版

『7本指のピアニスト』西川悟平著 朝日新聞出版

小学生の頃から映画が大好きでした。ビデオデッキが欲しくて親にねだったら、ソロバンの検定試験で合格したら買ってやる、と言われソロバンを頑張って、ビデオデッキを手に入れた瞬間から、家で週末友達を呼んで映画パーティーを開いていました。周りからは「変わった子やなぁ~」とか「おもしろい子やなあ~」と言われていましたが、基本的には恥ずかしがり屋で、赤面症でした。

――ご自身の幼少期は、どんな習い事をされていましたか?印象深い出来事や、指導者との出会いはありました?

小学1年生の時から、柔道とソロバンと絵画教室に通算6年間通いました。柔道は小1から高校3年生まで習っていましたが、ずっと白帯(苦笑)。水泳は、小4の時に1年くらい通ったかな。絵画教室の先生が、ぶっ飛んでいて、先生の片付けが終わるまでいっつも待っていて、一緒に家まで自転車で帰っていました。先生の絵は最高にうまかったけれど、とても面白くて、いっつも笑わせてくれた上に、色々なお話を聞かせてくれました。当時から僕は、実力はすごいけど、気取らず気さくな先生に憧れていました。

――そういう憧れの存在が常にいらして、悟平さんは好きなことを通して学ばれていたんですね。ピアニストとして確立するまで、どんな努力が必要でしたか?ピアノを弾いている時以外は、何をしている時が幸せですか?

あまりに色々あり過ぎて一言ではまとめられないのですが、継続性、ポジティブ思考をキープする努力、そして、どれだけ自分の仕事を楽しくこなせるか、だと思います。数々の緊張に打ち克つためにはイメージトレーニングと、練習量と、リハーサル。僕の場合、どれが一つ欠けてもダメなんです。
僕は、ピアノを弾くことが大好きで、仕事が好きな時間です。仕事以外、夏は時間さえ許せば毎週のようにビーチに行きます。冬は、引きこもって曲をアレンジしたり、練習したり、料理をして友人にもてなしたりインドア派です。

うまくいかない時は、じっくり考えられる機会。

――たくさんのエピソードや偶然にしてはドラマチック過ぎる!というミラクルが悟平さんには常に起こっているように感じました。不可能を可能にするミラクルを起こすために、どんな言葉でイメージしていますか?

緊張を消すにはイメージトレーニング、練習量と、リハーサル。どれひとつ欠けてもダメ。

緊張を消すにはイメージトレーニング、練習量と、リハーサル。どれひとつ欠けてもダメ。

必ずポジティブ思考/言動/行動で、徹底します。時には、胃が下がりきるほど緊張し、引きこもる程ドッと落ち込む時もありますが、その時でさえ「あ、これを機に、後は上がるいっぽうだ。絶対に後は上手くいく!」と思うようにしています。実は、上手くいかない時の方が、習うことが多い気がします。物事がうまく運んでいる時は、じっくり考える時間が少なくなります。
何をやってもダメな時こそ「あ、じっくり考えられるチャンスが来て、僕は幸せ者だ!」くらいに思うようにします。何度も何度も自分にこう言い聞かせると、奇跡が起きてきます。時々、「悟平だから出来るんだよ!」とか言われる時があるけど、僕は誰にでも奇跡は起きると信じています。僕は無宗教ですが、いつも物事をポジティブに見たり感じたりしようとしています。

――夢が叶うとか成功するためには、どん底にいる時にこそ学ぶべきことが多いですよね。悟平さんは「自分にならできる!」とイメージすることも上手なのでは?

僕は、ありえない目標が出来た時は、いつももう既にその目標を達成したような気分で、楽しくワクワクしながら行動するようにしています。「叶うといいなあ!叶ったら楽しいだろうなあ!」と、想像しながらワクワクドキドキするんです。でも、想像しているだけではダメなので、それを得るためのリサーチや、練習や、準備などは、コツコツと続けます。
僕の一番の敵は、僕自身。なかなかコツコツ続けるのが難しい時もある。そういう時は「できるできる!」と自分に語りかけます。周りから見たら、馬鹿だと思われそうですが、僕は自分の気持ちを上げて、前進し続けられる気持ちを持ち続ける努力も、ある程度必要だと思っています。

――そういう思考が身に付いたのは仲良しでいらしたご両親の影響も大きいのでは?お二人から学んだことはどんなことですか?

かなり浮世離れした両親でした(笑)。父はいつも母を褒めて「美子(よしこ)ちゃんは、日本一美人だ」と讃え、母がインスタントコーヒーひとつ淹れても「美子ちゃんの淹れたコーヒーが、一番っ!美味しいわあ!」などと言い、いちいち母を喜ばせていました。笑いが絶えない家庭環境で、いつも「ありがとう」と言う感謝の言葉と、「綺麗やなあ」「美味しいなあ」と褒め言葉を発していました。この環境は、人とコミュニケーションを取り、自分の気持ちを素直に表現するのを自然なことだと思えるようにしてくれました。
褒め上手の父が一番嫌った言葉が、愚妻と愚息。「なんで、愛する妻と息子達を、仮に社交辞令だとしても、愚かと言うのはおかしい」とよく言っていました。これは、今考えると非常にアメリカ的だ、と感じます。

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