早稲田大学ラグビー部の監督として、日本一連覇に導いた。いつも沈着冷静な清宮監督が、目を赤くして優勝インタビューでは男泣きした。大阪府立茨田高等学校で主将、進学した早稲田大学ラグビー部でも主将を経験し、サントリーへ就職。常にラグビーというフィールドで闘う第一線に身を置き、リーダーシップを発揮してきた。スポーツを指導する立場として、そして一人の父親として、力を発揮させるには、どのような導き方をすればよいのかをお聞きしました。
清宮 克幸(きよみや かつゆき)
1967年7月17日 大阪生まれ。大阪府立茨田高校でラグビーを始め、3年時に花園の全国大会に出場。高校日本代表にも選出される。1986年に早稲田大学入学。1年からレギュラーになり、2年時に日本選手権優勝。4年時には主将として大学選手権優勝に導く。大学卒業後、1990年にサントリー(株)に入社とともに、サントリーラグビー部に入部、1992~94年には主将を務めるなど中心選手として活躍。2001年に引退後、早稲田大学ラグビー蹴球部監督に就任。就任後は全国大学選手権優勝3度、準優勝2度、関東大学リーグ対抗戦では5年連続全勝優勝し、早稲田ラグビー復活の原動力となる。2006年に5年ぶりにサントリーラグビー部へ復帰。より高度で専門的なチーム育成のため、サントリーラグビー部では初めてのプロ監督として就任。
ありあまるエネルギーを買われラグビーを勧められた
――早稲田大学ラグビー部の選手時代から、私はずっと清宮さんに注目してきました。幼少の頃から、スポーツ万能で?どんな習い事をされていましたか?
母が習字教室で先生をしていたもので、幼稚園から小学5年生まで習字を。それと、そろばんも。小2から4年生までの2年間、少年野球チームにも入っていました。父が野球をしていたので、僕には野球を続けてほしかったと思いますが、チームのコーチと合わなくてやめました。たった10歳くらいの子どもでしたが、コーチだった大人の理不尽さが許せなかったんですね。でも、やめる理由を正直に親にいって、とめずにやめさせてくれた両親に感謝しています。
――きっとご両親に信頼されていたんですね。やはり昔からリーダーシップがあった?
よくいえば、子どもの自主性を重んじていたし、悪くいうと放任されていましたね。自分がこうと考えたら、それを曲げない頑固さはありました。少年野球チームを辞めてから、新しくソフトボールのチームを立ち上げました。勉強もやれば、そこそこできた。同学年の子の中でも体が大きかったし、僕の育った大阪の町は当時、遊ぶ場所がたくさんあって、異年齢での遊びができた。そういう中で人との関係づくりや、社会で何が必要なのかを揉まれて身につけてきたんだと思います。
――皆よりいろんな意味で目立っていたのかもしれませんね。中学時代にもてあました時期があって、ラグビーの恩師に出会ったと聞いていますが……。中学からラグビーを?
中学ではサッカー部でした。とはいえ、きちんとフォーメーションをつくれるようなサッカーではなかった。おもしろいことに首を突っ込みたくなるタチで、一時期悪い方向へ流されて、喧嘩も遊びも派手にしました。腕力が強く、エネルギーがありあまり気味の僕に、学級担任から「ラグビーで天下とらへんか?」と誘われて、「ラグビーをするなら茨田(大阪府立茨田高等学校)へ行け」と強く勧められたのがラグビーを始めたきっかけです。当時の茨田は創立9年目にして全国大会に2回出場していた。テレビドラマの影響もあって、その頃はラグビー人気でした。
――高校へ進学されてからはラグビー一色?
茨田高校ラグビー部監督の吉岡隆先生は、1年次から僕をレギュラーとして起用した。体格もメンタリティーも、すべてラグビーに向いていると見抜いていました。練習内容も選手が考えるんですよ。3年次には主将となって、茨田高校3度目の全国大会出場。その上、高校日本代表主将も務めました。
――その後、早稲田大学に進学されてラグビー部でさらに大活躍。10代後半のはやい時期に自分を発揮できるものを掴めたのは幸せですね。逆に、つらくてやめたい……と思うようなことは?
ありませんね。好きでしたから。練習が厳しくて体が疲れても、心が萎縮して後ろ向きになってしまうことはなかった。僕は中学時代にラグビーではないフィールドでリーダーシップを発揮したけれど、ちょっと間違えた方向に引っ張ってしまって、皆が離れてしまった経験をした。その時の孤独感、無力感。二度と同じ過ちは繰り返すまいと心に誓った。そういう失敗があったから、ラグビーという15人で展開するスポーツで、どうしたら皆がいいプレーをできるか。一人ひとりの役割が果たせるのか。心がひとつになれるかを考えられるようになった。
――ラグビー早稲田大学日本一に導くまで、どんな信念で練習を指導されていましたか。
自分のイメージ通りに進めることです。絶対に勝てる。勝つためにはどうすればいいか。それだけです。「もしも…」というような余計なことは考えません。そういう考えを排除して、集中するだけです。明確なイメージがあれば、力もひとつになれます。
指導者に何が必要か見極めるのも、親の役目
――ところで監督のお子さんは、ラグビーをされているんですか?その他にも何か習い事は?
――お子さんは習い事を楽しんでいます?よい指導者にめぐり合っていますか?
僕は、指導者がもっと力を伸ばすような指導のしかたを考えたほうがいいと思う。今、通っているスイミングクラブは2箇所目で、泳ぐ力もついた。でも、以前のスイミングクラブは、1ヶ月に1度進級テストがあって、それにパスしなければまた最初から練習やり直し。息子は1年間も同じクロールのコースから、なかなか上の級にあがれなかったんですね。せっかく身についた力があっても、不合格だと低いレベルから再スタートしなければならず上達できないし、本人もどこが駄目なのか納得できない。ボランティアなら、そういう姿勢でも仕方ないけれど、対価を払って習っているのだとしたら、払われる側はその対価に指導力で答えてほしいと思います。漫然と教えるのは怠慢です。
――結局、一箇所目のスクールはおやめになって他のスクールへ通われることを選択された。
そうです。その前にきちんと説明をしてほしいな、と思ってスクールの代表と話しました。分野は違いますが、僕も一指導者として、能力を伸ばせない指導方法は違うのではないか?と。先方は、驚いて謝罪していました。子どもだからといって、僕は全部相手に指導方法を委ねたくない。疑問があれば、親が尋ねて然るべきでしょう。その子に合った指導が受けられる場所や環境を見極めるのも、親の役目だと思っています。実際、他のスイミングクラブへ行ったら、あれよあれよという間に上達したので、今は変えてよかったなと思っています。
――そういう強くて頼りがいのあるお父さんのこと、息子さんは大好きなんでしょうね。
お母さんのほうが長い時間一緒にいるので、お母さんのことのほうが好きでしょう(笑)。
――いまの子どもたちには、どんな指導が必要だと思われますか。
自分で何かを見つけ出す作業のできる場が無くなっているから、遊びのできない子が増えているのではないでしょうか。ぼくらの子ども時代は、空き地や原っぱとか危ない場所がたくさんあって、そこに行けば誰かがいて遊べた。環境が失われているのでしょうが、遊びはすべての基本。徹底的に楽しめない子は、勉強もできません。テストで良い点を取って受験に勝ち抜く技術を身につけていたところで、社会に出れば、たくさんの引き出しをもっている人のほうが強い。まず、好きなものを自分で選べること。そして、好きなことを伸ばすにはどうしたらいいかを考えたいですね。たとえ好きなことが同じ人がいても、一人ひとり顔も性格も違うのですから、指導のマニュアルはありません。
点差で負けても、マインドで勝てれば気持ちがいい
――ところで、子どもがラグビーをすることで、どんな変化がみられますか。
まず、その子たちに合った役割や責任が生じます。その中で、仲間の信頼、大切さを知る。例えば自分がやらねばならないことをしないことで、迷惑を掛けると気づくことができる。そういう社会に出てから身につくことって、スポーツからしか学べない。勝ち負けを経験することで成長できる。僕は、子どもたちに平等意識を植え付けるつもりはないんです。勝つためには努力が必要だということを身をもって知ってほしい。芝生の上でスポーツをする楽しさを知ってほしいですね。
――小学校の運動会では、勝負する種目が減っているように感じます。
リレーでもスターターがいて、アンカーがいて、そして応援する人がいる。誰もがリレーの選手になれるわけでないけれど、バトンがもてない人だからといって、何もやらなくていいわけじゃない。自分の役割を見つけてほしい。僕がチームの信念にしているのが、alive=生き続ける、そこにプライドをもつこと。点差で負けても、マインドで負けなければ気持ちがいいじゃないですか。
――現在、サントリーラグビー部「サンゴリアス」の監督ですが、清宮監督が就任してからチームが強くなったのでは?
まだシーズン始まったばかりで結果はこれからです。でも、勝ち続けるための戦術を考えています。練習時間は毎日午後2時間集中します。今シーズンはトップリーグ13試合、トーナメント2試合、その後のトーナメントで3試合のゲームを控えていますので。
――監督として必要なマインドや、資質みたいなものはありますか。
チャンピオンになるという雰囲気をもって、その気にさせ、流れをつくっていく。勝ち負け経験することで、いろんなことを身につけて、引き出しの数を多くすることですね。
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