亡くなった人たちの無念を追体験する場所。人と防災未来センター【神戸市】

iRyota25

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震災後の神戸の新しい都心として灘・摩耶エリアの海辺に建設されたHAT神戸。HATとは「Happy Active Town」の略で、公募で決められた名称なのだという。大規模複合商業施設や広々とした海辺の公園、震災被災者を対象としたURの住宅や大型マンション、WHOやJICAのビル、震災後移転した県立美術館などが立ち並ぶ美しい街の一角に「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」がある。ガラスで覆われたキューブ型の建物の壁面には、「7.3 Magnitude」と記されている。

「人と防災未来センター」は、阪神・淡路大震災で起こったことや、子どもたちに伝えなければならないことを体感できる防災と減災の拠点として2002年から2003年にかけてオープンした。

その内容はたいへんなものだった。有意義とか衝撃的とか胸に突き刺さるものがあるとか、様々なことばで表現することはできるかもしれないだろう。しかし「人と防災未来センター」とにかくたいへんなもの。人生観が変わるような経験だった。

そのすべてを伝えることは困難だが、「人と防災未来センター」にあるもの一部を写真を中心に紹介したい。

最初の映像で意識が一変してしまう

展示は映像と震災での被災物や震災後の状況の写真やパネルなどでの説明で構成されている。エントランスを入ると、最初の映像の開始時間までロビーで待機。ロビーの壁面には縦長のバナー。そこに記されているのは——

過去の東海・東南海・南海地震による津波高さ。吹き抜けのロビーの天井まで達する津波高さに圧倒される。このロビーが完全に水没してしまうような津波。しかも大量のがれきを含んだ泥水で空間が埋め尽くされることを想像すると、恐怖という言葉ではとても表現できない底知れない感覚が呼び起こされる。

待ち時間はほんの数分なのだが、広いロビーに放置されることで、そこに展示されているものを自分から見ようという形になる。そこで目に見えるものが、たとえばこの縦長のバナーだったりするわけだ。情報が一方的に与えられるのではなく、自分から取りにいこうとする心理状態になるという点で、「人と防災未来センター」の経験はロビーからすでに始まっている。

最初に案内される映像ホールでは、1995年1月17日午前5時46分、そのとき起きたことが多面体のスクリーンに再現映像で映し出される。

淡路島で家屋が倒壊する。神戸で西宮で芦屋でも建物が倒れていく。高速道路が引ちぎられて倒れる。走行中の列車が急停止し脱線。ビルが隣のビルに倒れ掛る。火の手が上がる……。

ナレーションもなく、登場人物の台詞もない。ただ、地震発生時の状況が再現される。起震装置があるわけでもないのに、床から音が振動となって伝わってくる。自分自身がその時、その場所にいるような感覚。ほんの数分の映像と音声の渦巻きの中で追体験が進む。

映像が終わって案内された通路は、震災直後の街の様子が再現されたジオラマ。

路地に家屋が倒れ掛っている。潰れた家がある。半分壊れたベランダには洗濯物がぶら下がっている。声こそ聞こえないものの、そこかしこから助けを求めるうめき声が聞こえてくるようだ。

地震発生の瞬間と直後を擬似的に追体験することで、すでに自分がいる場所と時間が1995年のあの日の被災地になっているような感覚。そして不思議なことに、東北と同じなのだとという感覚に包み込まれている。もちろん激震によるものと津波によるものとでは起こったことは違うだろう。それでも、その時その場所にいなければ感じることのできないだろう、焦燥と混乱にみちた「呆然」の中、被災直後のジオラマを歩いていった。

東北の2年目、ボランティア団体が引き上げていく中、個人的に現地に残り生活していくことを選んだ人たちがいた。そんな1人が言っていたことを思い出す。

「被災地で1年以上生活して、地元の人たちにとてもよくしていただいているけれど、私たちには絶対に理解できないことがある。それは地震、津波、被害が発生したその時間を私たちは知らないということ」

テレビカメラが入ったのも、ボランティアが現地に入ったのも、それは地震や津波の被害の時間が終わった後でしかない。私たちは「その時」を知らない。

その当たり前のことがもう一度、疑似的な追体験を通して思い知らされた。

震災直後のジオラマ通路を通って案内された次のホールでは、震災後の人々が日常を取り戻すまでを描いた短めのドラマが放映された。1995年1月17日に地震が発生した後、今日までずっと「震災は続いている」ことを教えられる。

震災の遺物と写真が物語るもの

時計は地震発生の時刻、午前5時46分を示していた。ガラスが融けた電飾看板は鷹取商店街に掲げられていたもの。理解できない形に壊れていたゴルフクラブ、立ち入り禁止の張り紙、焼け跡から身内の遺骨とともに見つかった硬貨……

映像の部屋に続いて、地震発生から今日までの時間が、遺物と資料で紹介される。圧倒的なその数が、震災の甚大さを物語る。しかし実際には、この場所におさめられた物の数百、数千倍の出来事や感情が被災した土地にあったのだということを思う。

遺物と写真、そして言葉に加えて、震災後の時間を発震直後、避難所、仮設住宅、街の再建といったフェーズごとに紹介するミニチュアもあった。下の写真はほぼ再建がなった街の様子。

通りには商店が並ぶ。遠くに高いビルも見える。集まって楽しげに話している人たちがいる。元気な犬の姿もある。しかしよく見ると、買い物袋を下げて1人であるく女性の表情は浮かない。道に座る老人の表情もそうだ。ポケットに手を突っ込んで歩いている若者もいる。「テナント募集」と掲げられているのは、復興を示すのか、建物の復興が成った後も入居する店舗がないことを象徴しているのかよく分からなくなる。

ここに紹介したのは人と防災未来センターの展示の数百分の1でしかない。少なく主まる1日かけて見なければ、分かったような気持ちにすらなれないだろう。

見学に訪れていた中学生の団体の姿もあった。しかし、施設内は来場者よりもスタッフやボランティアの人数の方が多かった。

元々「防災未来館」と「ひと未来館」という2つの施設だったものを、現在はひとつの施設としてオープンしているのだという。その背景には入場者の減少があるという。

人と防災未来センターのまわりには震災後に建てられたマンションやURによる賃貸住宅が立ち並んでいる。建設された時期が揃った高層住宅が並ぶ景色は美しくもあるが、生活はどうなのだろうか、と考えさせられた。

人と防災未来センターの別の壁面には「5:46 1995」の文字。その前をこども肩車した初老の男性が歩いていく。

震災から21年。阪神淡路の「震災後」は終わったのだろうか。

(人と防災未来センターの展示については、別記事としても公開します)

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