伊豆を走る私鉄電車のことを書くことが多いけど、今日の主役は電車じゃありません。
いつも歩いている線路脇の道。湧水から流れる川とほとんど同じくらいな高さの道の横を走って行く電車は、まるで小さな丘の上を駆けて行くように見えるのです。川をまたぐ小さな鉄橋を越えて、ゴーと大きな音をたたて。
電車が走り抜けて行く時には、巻き起こる風に丘の上の草がいっせいに揺れて、電車に乗ってる人たちにまるで手を振っているようにも見えるのです。
そんな草が何なのかなんて思ったこともなかった。しかし、ある日よく見てみると、それはミントの葉。どうりで電車が通るたびに、不思議と爽やかな雰囲気になっていたわけだ。
向いのお家の人が植えたのか、あるいはひとりでに増殖したのか、線路脇の幅3m、長さ10mくらいにわたって、一面がミントの葉に覆われていたんだ。
葉っぱをちぎるとフィトンチッドが空気を満たす。まぎれもなく上質なミントだった。
それから何本か、電車がこの場所を走り抜けて行くのを眺めながら、ミントの香りの中で思ったこと。それは、人間って知ったような顔をして、ここは俺の土地だとか、俺の土地に勝手に入って来るなとか、まるですべてを所有しているようなふうに考えたりするけれど、そんなのは人間の間だけでの決めごとに過ぎなくて、太郎さんの土地にも次郎さんの家の庭先にも、当人たちが知りもしない草花が咲き乱れる。
人は自分の縄張りの中に、小さな他者が当たり前の顔してどれだけ同居しているのか知っているのだろうか。たとえば、自分の家の庭でもベランダのプランターでもいい、そこにどれだけの生き物が生活しているか知っているだろうか。どこからともなくやってきた雑草の小さな芽、人はそれが何であるかも思わずに雑草としてむしって棄ててしまったりするけど、雑草の方は雑草の方で生え続ける。それは、彼らの方にしてもそこで生えるべき正当な理由があるからに違いない。
鳥や小動物が運んで来る種子をシャットアウトすることなどできない。それはあたかも日の光や雨と同じく、地表にあまねく降り注ぐ。
この地上で生きて行くということは、そういう関わりをふかく受け入れて、いっしょに生きていくことに相違ない。
たぶんミントの香りが鼻先をくすぐったせいだろう、そんなことを思った。
太郎さん、次郎さんといえば三好達治の『雪』だろう。
雪
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
初雪のように爽やかなミントの香りが線路沿いの小さな丘に立ちのぼる。よろこびも悲しみも、憎しみも怒りも、それらの感情が生まれ出るよりももっと前の大きな感情の中で自然は生きている。人もまた、その中に生きている。
ミントの葉っぱをちぎり過ぎて香気が鼻腔を刺激したのか、夕暮れの丘に広がるミントの冷たい香りにそうしたことを考えた。
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