年末年始の休暇中、久しぶりに訪れた女川の町で驚いた。女川町立病院(現・地域医療センター)の駐車場から道を隔てた目の前にあった、津波で倒されたビルの姿が消えていたのだ。
12月11日から始まった解体工事は、年末の時点でこの進捗状況。すでにビルがあったとは思えないほど片付けられていた。
遺構として残されるのは「旧・女川交番」だけに
高さおよそ20メートルの巨大津波に襲われた女川の町では、鉄筋コンクリート造を含む6棟以上の建物が横転したり、津波によって流されたりした。そのうち3棟は「震災遺構」としての保存が検討される対象とされてきたが、港の埠頭近くにあった「女川サプリメント」は2014年3月にすでに解体された。そして今回、女川町立病院の前に横倒しになっていた「江島(えのしま)共済会館」も解体工事の終盤を迎えている。
江島共済会館は、女川沖の江島への船便が欠航した際などに島の人たちが宿泊できるように造られた施設。近年では事務所や船員の宿舎として使われていたという。この建物は鉄筋コンクリート造ではなく鉄骨造だが、横転したのみならず元々建っていた場所から10メートル以上も押し流された。
大震災の前までは、建築の専門家の間でも「鉄筋コンクリート造の建物は津波で流されることはない」と考えられていたという。その考えが女川で覆された。しかも津波で流された建物は一様な向きにではなく、ばらばらな方向に移動していることから、津波の破壊力について研究する上でも意義深い遺構という意見もあった。
千年に一度といわれた今回の巨大津波。津波の恐ろしさを千年先のこどもたちにまで伝え、悲しみを二度と繰り返さないためにも、何とか遺構として残してほしいという中学生たちを含む地元の声もあったが、新聞報道によると、
町は保存も検討したが、費用や付近のかさ上げ工事への支障も考慮して「旧女川交番」のみを残し、会館など2棟の解体を決めた。
という。当時を思い起こすから見たくない、撤去してほしいという地元の声も大きかったと聞いている。
解体工事中の破片などの飛散を防ぐために設置されている仮囲いの隙間から覗いてみると、解体は9割以上進み、がれきの搬出を待つばかりといった状況だった。
震災を風化させない為…
横転した江島共済会館の向かい側は、13人のうち12人が犠牲となった七十七銀行女川支店の行員たちを悼む慰霊の場となっている。江島共済会館の解体工事はほどなく終了するだろう。終了すればかさ上げ工事の対象地域となるのも時間の問題だ。
七十七銀行で犠牲になった行員たちへの慰霊の場はどうなるのだろうか。
プリンターで打ち出された「私たち家族の思い」は、風雨にさらされる追悼の場に、何度か取り替えられながら、いまも掲示されている。
私たち家族の思い
2011年3月11日、七十七銀行女川支店行員
13人は2階建て支店屋上に避難しました。
約30分後、津波は屋上まで到達し、12人が犠牲になりました。
なぜ、屋上への避難指示が出されたのでしょうか。
支店は浸水地域で海より100m、屋上は高さ10mです。
走れば1分で行けた町の指定避難場所高台があります。
なぜ、目の前の山へ避難しなかったのか、納得できません。
この行動を『やむを得なかった』ものだとしてしまえば、
今後、日本各地で予想される津波災害が起きた時に
また同じ悲劇が繰り返されてしまいます。
二度とこのようなことが起きないように、
原因をしっかり究明し、改善策を示すことが重要と考えます。
ぜひ、震災を風化させない為、
再発防止の為にもこの事案を教訓とし
七十七銀行は元より皆様にも、企業防災のあり方を
一緒に考えて頂きたいと願っております。
被害者家族有志
七十七銀行女川支店被災者家族会が慰霊の場で訴えている言葉
この場所で亡くなられた多くの方々のご家族が、江島共済会館の解体についてどのように感じられているのは分からない。しかし、「震災を風化させない為」「二度とこのようなことが起きないよう」との思いを少しでも伝えていくために、横転した江島共済会館がこの場所にあった頃の写真を掲載することを許して頂きたい。
浦宿からの坂道を下りながら女川の町を目にした時、軽はずみにも「廃墟」という言葉を思い浮かべていた。
女川町立病院の駐車場から初めて江島共済会館を目にした時の衝撃は忘れようがない。最初にこのビルを見た時には、自分の目か頭がどうかしてしまったのかとさえ思ったほどだった。ビルの壁面に取り付けられた非常階段や窓の位置を確認しながら、4階建てのビルが横倒しになっていることや、建物が倒された向きについて、まるでパズルを組み合わせるようなもどかしさの中で理解していったのを憶えている。状況が呑み込めていくにつれて、言葉に表しようのない恐ろしさが湧きあがってきた。
辺りを見渡すと、女川の町にはまだたくさんのガレキが残されていた。ガレキ集積場へ向かうダンプカーは引きも切らずに走り回っていたが、いくら運んでも追いつかない状況だった。坂道からざっと見渡しただけで、軽率にも思い浮かべた「廃墟」という単語が、実は何も言い表していない事に気がついた。
女川で被災した知人が、津波の後の町の様子を「まるで爆心地」と言っていたのを思い出す。大量のガレキが残る町なかに横倒しになったビルは、彼の話を実感としてそのまま伝えてくるものだった。この町で起きてしまった事。そしてそれを自分がどこまでいっても理解できないだろうという事。
それは言葉をこえたもの。ただ、いまそこにある存在として迫ってくるもの。その光景を目の前にしている自分が、倒れたままのビルの上を流れていくのと同じ時間の中にいるという事実を通してしか、感じることができないもの。
自分にとってこのビルは、津波被害の残酷さのひとつのシンボルだったのだと思う。まさに負の遺産。しかし、その負=マイナスが失われていくことで心が乱されてしまうのはなぜだろうか。
津波を身をもって経験した人たちにとって、町に残された負の遺産は心の中のマイナスにさらにマイナスを重ねていく辛いものだろう。それに、負の遺産分のマイナスが無くなったとしても、震災そのもののマイナスが全て消えてしまうわけではない。
震災の恐ろしさや辛さを我が身で感じていない自分は、撤去されることそのこと自体に喪失を感じてしまう。この喪失感は、「これでタガが外れて、風化が一気に進んでしまうのではないか」という、別の恐れにつながっているのかもしれない。
今と未来と、負の遺産
マイナスにマイナスを重ね続けるような存在だったこのビルが撤去され、町づくりの一歩となるかさ上げ工事が進んでいくのなら、そのことで少しでも町が負った傷がいやされていくのなら、このビルの撤去は良いことに違いないだろう。
負の遺産がこれまで果たしてきた役割は、津波に備えることをしなければ、たいへんな悲劇を招くことを身をもって示し続けてきたことだ。
このビルを目にし、衝撃を受け、心に焼き付けてしまった私たちは、これまで江島共済会館が果たしてきたことを肩代わりして、伝えていく仕事をずっと続けていかなければならない。
震災を風化させないため。
二度と同じような悲劇を起こさないため。そして、
ビルの解体撤去が女川の町のために「ほんとうに良かったこと」となるように。
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