プロローグ
大津波の日、宮城県の大手地銀・七十七銀行女川支店で起きたことをご存じですか。走れば1分もかからないところに、山までつながる高台があったのに、行員たちは支店長の指示で高さ約10メートルの屋上に避難。そして、奇跡的に助かった1人を除く全員が犠牲になってしまったのです。
七十七銀行女川支店の跡地には、被害にあった建物が撤去された後も、遺族たちの手による慰霊の場がずっと設けられていました。
慰霊の場だったこの場所では、いまかさ上げ造成工事が進められています。今年3月8日、女川町地域医療センター(旧女川町立病院)脇の管理道路にモニュメントが造られたそうです。しかし、それで何かが変わったわけではないようです。一部の遺族は、企業の責任を問うため訴訟を起こしました。裁判は二審の仙台高裁でも和解がならず、遺族の訴えは退けられ、審理の場は最高裁に移されました。
助かる命が助からないようなことは、もう二度と起きてほしくない
共同通信の高橋宏一郎さんがヤフーニュースにアップした記事をぜひお読みいただきたいのです。七十七銀行女川支店で25歳の息子を亡くしたご両親をクローズアップした記事です。多くの人々が犠牲になったあの日から、残された遺族の方々に何があったのか。ぜひ記事をご覧ください。
被災された方、大切な人を失った方、心に傷を負った人たちが、どのような気持ちで、「防災」を語られるのか。その気持ちを私たちは、しっかりと受け止めているのか。
裁判で真相が明らかになればと、ほかの2家族と一緒に提訴しましたが、訴訟になると予見可能性と安全配慮義務が争点になってしまい「あれだけの津波は想定外で予見できなかった」「支店長の指示には一定の合理性があり、銀行が安全配慮義務に違反していたとは言えない」と、一、二審とも敗訴。田村さん夫妻の「なぜ」は明らかになりません。最高裁に上告しました。
「息子は七十七銀行で働くことを誇りに思っていました。信頼していた会社で、上司の指示を忠実に守った結果、命を落としたんです。指示に背いて自分だけ走って高台に逃げていれば助かったんだろうけど、そんなことをする子ではありません。銀行には『業務中の行員を守れなくてすまなかった』と心から謝ってほしいだけなんです」。弘美さんはそう話します。
記事にある田村さんご夫妻の話を噛みしめるほど、悔しさだけではなく虚しさのようなものまで感じてしまいます。思い出すのはヒロシマの原爆死没者慰霊碑の言葉。「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれていますが、戦争はなくなってはいません。同じように「防災」という言葉の背後にあったはずの悲しみや愛惜、悔恨と後悔、やり場のない憤り、割り切れない気持ちといった感情は、防災という言葉の表面で上滑りして、とても見えにくくなっている。命が還っては来ないという現実の前で「防災」を語るしかない遺族の気持ちを、受け止められなくなっている。
七十七銀行の遺族の方が、建てられた慰霊碑の言葉の中にこそ、防災のこころがあるのだと思います。
命を守るには高台へ行かねばならぬ
2011年3月11日七十七銀行女川支店行員13人は2階建て支店屋上に逃げました
約三〇分後津波は屋上まで到達し12人が犠牲になり8人が行方不明のままです
走れば一分で行けた高台堀切山があったのに
なぜ目の前の高台ではなく屋上への避難指示が出されたのでしょうか
津波避難は高台へ行くことが大原則
銀行には一言「山へ逃げろ」と言ってほしかった
どんなに怖かっただろう
どんなに悔しかっただろう
どんなに悲しかっただろう
どんなに無念だっただろう
東日本大震災を教訓に職場の「命」守れ
2015年3月11日
七十七銀行女川支店行員家族
七十七銀行女川支店行員慰霊碑の言葉
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