【遺構と記憶】伝えていくということ

iRyota25

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広島の原爆ドームで思い起こす日付といえば、原爆が投下された8月6日でしょう。しかし原爆ドームにはもうひとつの記念日があります。それは12月5日。1996年に原爆ドームが世界遺産に登録された日です。

解体するか保存するのか

爆心地近くに建っていた旧産業奨励館の残骸(広島ドーム)をどうするか、解体するか保存するかについては長い間にわたって議論があったことが知られています。

当時、原爆ドームについては、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方がありました。

散発的に出ていたこの存廃論議は、市街地が復興し、被爆建物が次第に姿を消していく中で、次第に本格化し、原爆投下をどう考えるか、被爆体験や肉親などの惨事をどう伝えるか、核兵器をめぐる世界の情勢をどう考えるか等の議論と重なりをみせていきました。

原爆ドームの保存へ|歴史|原爆ドーム | 広島市

遺跡として残すのか解体撤去するのか。この問題は東日本大震災の被災地に残された津波遺構の保存についても、各地で議論されてきました。そのたびに、原爆ドームを巡る過去の経緯も繰り返し取り上げられてきました。

広島ドームの保存が市議会で決議されたのは昭和41年、保存に向けての工事が始まったのは昭和42年のこと。原爆投下から20年以上が経過した後にようやく「保存」という方針が固まったのです。

その後、平成4年に日本が世界遺産条約に加盟したのを受けて、原爆ドームを世界遺産に登録しようという声が上がります。しかし当初、国は世界遺産に推薦するための要件を満たしていないとして拒否するスタンスをとっていました。これに対して世界遺産化を誓願する署名運動が全国に広がります。全国的な人々の声を受けて国は文化財の指定要件を変更し、ようやく世界遺産委員会への推薦が実現します。(この経過も広島市が開設した原爆ドームのホームページに詳しく紹介されています)

 世界遺産一覧表への登録|歴史|原爆ドーム | 広島市
www.city.hiroshima.lg.jp  

このような紆余曲折を経て、平成8年(1996年)12月5日、人類にとっての大きな負の遺産ともいえる原爆ドームが世界遺産に登録されたのです。それは、昭和41年に原爆ドームを保存するという判断が行われたのと同様に、人類にとって伝えていくべき重要な遺産として、世界が決意した日と考えることができるでしょう。

しかし、形ある物は必ずいつかは壊れてしまいます。まして爆心地のすぐ近くで猛烈な爆風を受け、遺構の材質にも放射線化学的な影響が及んでいることが懸念される原爆ドームです。未来永劫、その姿を私たちに見せ続けてくれるとは考えにくいでしょう。

原爆ドームが失われた時、戦争の悲惨や核兵器の非人道性をどのように伝えていけばいいのか。私たちは、いまから「その日」以後のことを考えておかなければならないのではないかと思うのです。

福島で聞いた驚きの言葉

福島の海辺の町で地震と津波と火災と原発災害によって故郷の町を破壊され、その直後から町の復活のために頑張ってきた、尊敬する若い友人がいます。先日再開した時、町を見下ろす高台で彼が語った言葉に衝撃を受けました。

「もう震災なんか、まるでなかったことのようになっていますからね。住民もそうですが、とくに企業などの事業者には防災についての考えがないのかと思うほどの人もいます。いま何とかしておかなければ、今度大きな災害が繰り返された時に大変なことになりますよ」

彼の暮らす町では、市の中心部はさておき、海辺沿いの地域に行けば東日本大震災の爪痕が今も色濃く残されています。中心部に暮らす人たちも、3年9か月前には寒空の下何時間も給水車に並ぶなど、辛い経験を持っている人がほとんどのはず。しかも、原発事故の影響に怯えながら。

被災地から離れた都会で、震災の記憶がどんどん薄れているというのなら理解できますが、震災で大変な経験をした人達の間でさえ風化がどんどん進んでいるという言葉は、うまく返答できないくらいに驚きでした。

津波被害を受けた場所に会社や工場が再建されたという話は、町の復興と絡めて「明るいニュース」として伝えられます。しかし、彼が親しくしている人たちの中にも、避難計画すらない事業所が少なくないといいます。これはどう考えればいいのでしょうか。

大きな漁船が町を破壊したあの場所で

東日本大震災の後、まるで津波被害のシンボルのように取り上げられてきた「第18共徳丸」を覚えていますか。気仙沼では、港に停泊中だった数多くの大型漁船が津波に流されて市街地に押し寄せ、多くの家々を破壊していきました。鹿折地区には15隻以上の漁船が流れ込んだそうですが、鹿折駅前で擱座した全長約60メートル、330トンの大型巻き網漁船第18共徳丸は最後まで解体されずに残されていました。

この船を巡っても、解体するか保存するかについての長い議論がありました。震災の翌年、鹿折の町でいち早く店舗を再開した人に話を聞くと、保存には反対とのこと。

「たくさんの船が渦巻く津波に乗って、家を潰し、町を破壊していったんです。その様子を自分たちは山の上からじっと見ているほかなかったんだ。あの船は見たくもないという人がほとんどですよ」

昨年(2015年)、第18共徳丸は解体されました。あの船があるから被災地に見学にくる人がいるということを、第18共徳丸がまだ残されていた頃には、船の側を通りかかるたびに感じていました。去年になっても、向かいのコンビニの駐車場はいつもいっぱいで、船の周辺にはカメラを構えた人、業務用の大きなビデオカメラで撮影するクルーの姿が見られました。しかし、地元の人の気持ちを思うと、船が解体されたことでやっと復興に向けて進めるという気持ちも理解できます。

「震災の教訓を語り継ぐことはもちろん大切ですよ。でも、今の時代、方法はいくらでもあるでしょう。今度の震災ではたくさんの映像が撮影されている。津波の恐ろしさ、避難することの大切さを伝えていくなら、たとえば一般人が撮影した映像も含めて見ることができるような施設をつくるという方法もあるでしょう。風化させないためには船を残すしかないというのは暴論ですよ」

地元の人の言葉が忘れられません。

モニュメントとして残すことの意義とは

いささか極端な論になるかもしれませんが、遺構をモニュメントとして残すことそれ自体は目的ではないはずます。広島の原爆ドームであれば、戦争の悲惨さや核兵器の問題を風化させることなく次の世代に語り継いでいくこと、それが目的で、原爆ドームの保存はそのための手段です。経験していない世代の人たちに、自分のこととして戦争について考え、行動してもらうことこそが大切なことです。

震災の遺構でも同様でしょう。1000年に一度とも言われる大震災による辛い経験を、次の世代、さらにその先の世代へと、1000年先までも伝えていって、二度とこんな悲しい思いをしてもらいたくない。遺構を遺跡として残したいと考える人も、そうでない人も、その思いに違いはないと思います。

しかし現実には、福島の友人が言うように、3年9カ月の時間の中で風化がどんどん進んでいる。経験した人たちまでもが、まるで忘れることが復興への道だというような感じになりつつあるというのです。

モニュメントがあれば、その日、その時間に集まって、当時の出来事に思いを致すことができるかもしれません。形あるものが残っていれば、目にするたびに思い起こすことにもつながるでしょう。

しかし、何かが残ってさえいればいいというものでないのはもちろんです。セレモニーはやがて儀礼化し、そこで語られるどんな言葉も、時間とともに実感を失っていくかもしれません。原爆の日に語られる言葉に人によって大きな温度差があることを感じるのは私だけではないでしょう。

関東大震災の記憶は受け継がれているか?

静岡県の伊豆半島に位置する伊東市に宇佐美という町があります。大正時代にあった関東大震災で大きな津波に襲われた町です。

津波は家々を呑み込み、多くの住宅が破壊されたり流失したりしましたが、この集落では命を落とす人はなかったそうです。そのことは、震災直後に編まれた雑誌にも特記されています。

宇佐美の町の海辺の集落で、そのことがどんな風に語り継がれているか、もしかしたら防災のための言い伝えなどがあるのではないかと話を聞きに行ったことがあります。しかし、残念ながら、話を伺った70歳という漁師さんの答えは次のようなものでした。

「関東大震災といえば、あれは大正12年だったっけ。91年前かぁ。もちろん俺は生まれてないし、父親にしても7歳くらい。おやじから津波の話を聞いた記憶はないな」

しかし、いろいろ話していくうちに、「おやじからは聞いてないけど、隣の家の人が津波はどの辺りまで来たかとか、津波の前には海がずっと引いていったとか言ってたな」など言葉が出てくるのです。驚いたのは、見たことのない津波のはずなのに、漁師さんの言葉にはまるで自分が経験したことのような雰囲気が感じられたこと。

漁師さんに津波の話を聞かせたのは、隣の家のおじいさんとか、他の家の人たち、漁師の先輩の人たちだったようです。津波の話を聞きにいったのに肝心の津波の話は最初のうちにはほとんど出てこなくて、それでも港の昔の様子や漁の仕方、船の話などをする中で、ぽつりぽつりと津波の話が出てくるのです。

時々は避難訓練とかあるんですかと尋ねると、「そんなのはないな」と笑っていましたが、漁業の生業の中で伝えられてきたものがあると確信しました。

「関東大震災の津波の話を聞かせてください」と正面切って質問されると口ごもってしまうけれど、もしも相模湾沿岸で大きな地震が起こったら、きっとこの漁師さんは集落にふれて回ってみんなを避難させるだろうなと、なぜかこれも確信させてくれるような雰囲気が、言葉の中ににじんでいました。

モニュメントがなくても、特別な施設がなくても、生業を受け継いでいく中で、生きていく上での「知恵」として伝えられていくものはある。そう信じることができたのは宇佐美を訪ねた大きな収穫でした。しかし、生業を受け継いでいくという生き方は今の世の中では難しい…。

大切なことを伝えていくためにどうすればいいのか。これからも考え続けていきたいと思います。

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