新潟地震から50年

iRyota25

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県営アパート(土木学会土木図書館所蔵/撮影:倉西 茂・高橋龍夫)| 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014
県営アパート(土木学会土木図書館所蔵/撮影:倉西 茂・高橋龍夫)| 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014

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地面に埋もれるようにして傾き、倒れた鉄筋コンクリートの県営アパート。新潟地震の被害の写真を初めて見たのがいつだったか覚えていないが、その時感じた恐怖はいまも忘れない。見るからに頑丈そうな鉄筋コンクリートの大きな箱が、それ自体はほとんど壊れることなく、ほぼ原形を残したまま、地面に呑みこまれていく。ありえないことが現実に起きている。かりそめにもそんなことが起きてしまったらと想像するだけで恐れ戦いてしまうような現実。おかしな譬え方かもしれないが、その写真が掻き立てたのは楳図かずおの漫画に描かれたような、あからさまな恐怖だった。

「倒れたアパートから荷物を出す人々」新潟県の地震(津波)災害 | 新潟地方気象台
「倒れたアパートから荷物を出す人々」新潟県の地震(津波)災害 | 新潟地方気象台

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6月16日で新潟地震から50年の時間が過ぎたのだそうだ。

地震から何年も後に、1枚の写真を見ただけでも、かつての少年を恐怖させた新潟地震の記憶は、新潟県にずっと暮らしてきた人たちの中に引き継がれてきたのだと思う。いまから10年前の中越地震の後、震源近くに知人を訪ねていったら、年長の人の多くが「新潟地震の時よりも」とか「新潟地震に比べて」と、地震被害がどれくらい酷かったかを比較する対象として、当時から40年前の新潟地震を引き合いに出していた。

新潟地震はどんな地震だったのか

新潟地震

1964年(昭和39年)6月16日13時01分40.7秒、震央:38゜22.2'N、139゜12.7'E(新潟県下越沖)、震源の深さ:34km、地震の規模(M):7.5
被害:死者26、住家全壊1,960、半壊6,640、浸水15,297 最大震度:5

新潟県の地震(津波)災害 | 新潟県の地震(津波)災害 | 新潟地方気象台

新潟地震はマグニチュード7.5、震度は「5」だったが、新潟県では県民の14%にあたる33万2000人が被災。実に「関東大震災後、最大級の地震」とも呼ばれたという。鉄筋コンクリートの県営住宅が倒壊したのみならず、新潟市や山形県の酒田市では、低湿地帯を中心に水と泥が吹き出す液状化現象が各所で発生。多くの建物が倒壊したほか、建物の1階部分が泥で埋まったりといった被害が出た。

新潟地震といえば液状化現象という印象があまりにも大きいが、この地震では液状化の他にも、地震の揺れによって石油タンクの中の液体がこぼれ出すスロッシング、地割れや陥没で道路がやられ橋梁が倒壊することで起こった広範囲にわたるライフラインの寸断など、現在もなお地震防災の課題とされる事象が数多く顕在化した地震でもあった。

落下した昭和大橋(右岸東側から)新潟県の地震(津波)災害 | 新潟地方気象台
落下した昭和大橋(右岸東側から)新潟県の地震(津波)災害 | 新潟地方気象台

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地震で生じた亀裂と噴出した土砂(気象台構内)新潟県の地震(津波)災害 | 新潟地方気象台
地震で生じた亀裂と噴出した土砂(気象台構内)新潟県の地震(津波)災害 | 新潟地方気象台

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気象台付近から八千代橋方向を望む 新潟県の地震(津波)災害 | 新潟地方気象台
気象台付近から八千代橋方向を望む 新潟県の地震(津波)災害 | 新潟地方気象台

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新潟地震で多くの被害が発生した時点では液状化は原因が必ずしも明らかではなく、当時の新聞などでは「流砂」といった言葉が使われていた。原因が究明されないままに現地再建が進められた結果、新潟地震の液状化被害地域は、今後の大地震で同様の被害が生じることが懸念されている。

明石通(写真/新潟日報社) | 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014
明石通(写真/新潟日報社) | 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014

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スロッシングでタンクから溢れた石油や、周辺に漏れ出た気化ガスにタンク側面と浮屋根式の上蓋がぶつかって生じた火花が引火し大火災が発生することが、広く一般にも知られるようになったのは2003年の十勝沖地震まで待たなければならない。

新潟地震で発生した製油所火災は、周辺の民家を巻き込みながら12日間燃え続けた。液状化による冠水が延焼を最小限に食い止めたという話もある。

昭和石油(写真/新潟日報社) | 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014
昭和石油(写真/新潟日報社) | 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014

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インフラが寸断して避難が困難になったり、緊急車両や支援車両が立ち往生する危険性についても、認識はされているものの十分な対策がとられているとは言えない。

山の下橋(写真/新潟日報社) | 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014
山の下橋(写真/新潟日報社) | 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014

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上に気象台からの写真でも紹介した昭和大橋は地震の1カ月前に開通したばかりだったが、地震の揺れで橋げた5つが落橋したとか。犠牲者が出なかったのは奇跡以外のなにものでもない。

新潟国体に合わせて開通したばかりの昭和大橋は、橋脚が傾いたりしたために、12あった橋桁のうち5つが落ちました。証言によると、揺れが起こって間もなく「ドラム缶が転がるような騒々しい音」がして、その後次々と落ちていったそうです。この時橋の上には人も車もおらず、奇跡的に犠牲者は出ませんでした。

8.昭和大橋|新潟地震記憶マップ|防災・減災 新潟プロジェクト2014

昭和大橋(写真/新潟日報社) | 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014
昭和大橋(写真/新潟日報社) | 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014

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さらに、この地震では津波も発生している。信濃川の流域を中心に最大4メートルの高さだったとされる。地震による液状化、地割れ、陥没、落橋が起こった場所に追い打ちを掛けるように襲い掛かった津波。同じような状況が「次の地震」で起こったら、災害に見舞われた地域はどうなるだろう。「公助」による救援はおそらく時間を要することになるだろう。「自助」で乗り切る備えと覚悟はあるだろうか。

八千代橋(写真/新潟地方気象台) | 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014
八千代橋(写真/新潟地方気象台) | 新潟地震記憶マップ | 防災・減災新潟プロジェクト2014

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 新潟地震記憶マップ|防災・減災 新潟プロジェクト2014
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新潟地震の被災状況を写真とマップで紹介するページ

 新潟県の地震(津波)災害 | 新潟地方気象台
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気象台による新潟地震の記録ページ

50年という時間は長いか、短いか

今年は新潟地震から50年に当たるだけではない。新潟焼山火山災害から40年、中越大震災から10年、そして7.13水害10年の節目だ。新潟では、自然災害から得られた貴重な教訓を、風化させることなく後世に語り継ぎ、防災・減災に生かすために「防災・減災 新潟プロジェクト2014」が立ち上げられた。北陸地方整備局、新潟県、新潟市など国、県、市による実行委員会に商工会議所や地元企業などが参加しての一大キャンペーンだ。

 ライブラリー|新潟地震|防災・減災 新潟プロジェクト2014
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時間の経過とともに、記憶や経験、教訓を伝えていくことは困難になる。だからこそ、節目の年に継承の機運を盛り上げようということなのだろう。

しかし、というわけではないのだが、数日前まで北陸地方整備局のWebに『新潟地震から30年「未来への記憶」へ』という記事が掲載されていた。題名のとおり、新潟地震30年を記念して、復興の足跡を未来に伝えようという趣旨で1994年に制作された冊子のPDF版だった。

そこには震災時の経験、被害の状況、復旧から復活への道のりなど、地元の人たちの体験談が盛りだくさんに掲載されていた。建設省(国土交通省)の地方機関が作成した冊子だから、「復興」を強調する色合いが濃いものではあったが、紙面には町の復活に向けて時代を走ってきた人たちの「息づかい」が溢れていた。どこか、斜め上方に未来を指さすといった雰囲気すらあったけれど。

新潟地震が起きた1964年、日本は高度成長期の最中だった。年表をめくると同じ年には本田技研が小型スポーツカーS600を発売、東京モノレール開業、新幹線開業、10月10日の東京オリンピック開幕といった出来事が並ぶ。日本の総人口は約9700万人で、まだ1億人に達していない。伸び代があった時代。右肩上がりの勢いがあった時代。

そんな時代に現役として被災した町の復興からその後の発展までを駆け抜けてきた人たちの言葉だから、自信がみなぎっているのも当然だろう。

でもそこには「30年後」に編まれた冊子だったからという時間の問題が確かにあるだろう。単純な計算だ。新潟地震当時30歳だった人は、冊子がつくられた頃には60歳。社会の真ん中で活躍していた人たちが、ちょうどリタイアした年頃だったことになる。しかしその人たちもいまでは80歳だ。

震災の記憶と教訓の伝承は、時間経過とともにどんどん難しくなっていく。

これから先の50年

新潟地震から50年という節目に思うのは、阪神淡路大震災、そして東日本大震災の記憶と経験と反省が、この先どのように受け継がれていくのかということだ。

新潟の町が蒙った傷は50年という時間の間に癒され、再生したようにも見える。しかしもはや右肩上がりの時代ではない。神戸や東北の被災地がこれからたどる時間が、新潟でのこれまでの50年と同様のものであるとは想像し難い。

これまで町がなかった場所に、新たな町並みをつくり、そこにコミュニティを根付かせていく。経済活動としてのなりわいだけでなく、ご近所づきあいや地域イベントをとおして、町の文化をつくっていく。数千年の歴史を刻んできた伝統と、新しい時代の人たちのくらしを結び付けていく。もちろん、そこには防災と減災の経験と反省と知恵を織り込んで。

人口減少、経済規模の縮小といったマイナス要因を乗り越えて。

陸前高田で知り合った方が「100年の仕事だね」と言ったのを思い出す。植樹活動を続けている人たちは「千年の希望」という言葉を使う。

まずは、長い時間をこえてバトンタッチしていくということから、私達はもう一度学び直す必要があるように思えてならない。

文●井上良太

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