息子へ。東北からの手紙(2013年10月23日)中越地震から10年

iRyota25

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中越地震から10年。ネットでは「亡くなられた68人の方のご冥福を祈ります」というコメントがたくさん発信されていた。

宮城県石巻市にある「がんばろう!石巻」看板の黒澤さんは、この日、次の短いコメントを上げた。

「石巻でもあっという間に10年がたつのかな。」

震災から経過していく時間の重みを感じさせられた。この言葉の中には、立ち上がっていくことのもっている意味(自分たちにできることを続けていくんだという決意とか、亡くなった人々への思いとか、苦しみとか、何かが前に進むことで得られる喜びとか、挫折とか、それでも頑張ろうという気持ちとか、感謝とか、震災後の時間とともに積み重ねられていく思い)が込められているように感じる。

10年前

10年前、中越の地震が起きた後、関越自動車道がようやく片側だけ開通したばかりの頃に、新潟の知人や友人を訪ねた。その後も雪が降る前までの間だけでも2~3回くらい行ったと記憶している。保育園を休ませて一緒に行ったよね。

覚えているかな。関越トンネルを抜け、小出インターを過ぎたあたりから、ぽつりぽつり屋根にブルーシートを掛けた家や、やはりブルーシートを掛けられた崩れた崖地が現れた。高速道路は舗装された部分が全体的に沈下してしまったようで、路盤の継ぎ目や橋の部分は、50センチ位あるんじゃないかという大きな段差できていて、アスファルトで応急処置されてはいるものの時速30キロも出せないほどだった。

小千谷インターの先の田んぼが広がるあたりでは、高速道路から見てもはっきり分かる亀裂や、田んぼの土の色が変わっているところがあって、「あれは液状化の跡かなあ」とか話したように思う。

震源に近い小千谷の友人は、地震の時には長岡の勤務先にいて、その後すぐに自宅に戻って家族が無事なのを確認すると、十日町の実家に向かったんだと教えてくれた。「確かその道、通行止めになったんじゃ」と尋ねると、でも、不思議とあの時は走れたんだよなという返事。実家の人たちも無事でとにかく安心した。でも余震が怖かった。そんな話だった。

震源から40キロくらい離れた所に住んでいる知人は、その頃電気工事の仕事をしていたけれど、「毎日、長岡の方の現場だから行き帰りに時間がかかって大変」と話していた。2回目か3回目に行った時には、「県外からの支援ってのも考えものだよ。地元の業者の仕事が取られてしまう」と言っていたのを思い出す。

小出に実家がある友人は、実家のおばあちゃんの話として「とにかくおっかなかった。でもこの辺の家は雪に耐えれるように作ってあるし、基礎も頑丈な鉄筋コンクリートだから被害はなかったよ」と教えてくれた。「雪国の家は地震に負けないくらい頑丈なんすよ」と彼はちょっと自慢げに付け加えたりもした。

家族や知り合いが亡くなったり怪我をしたり、避難所生活を経験した人がまわりにいなかったせいか、10年前に実感できた中越地震は、正直なところ自分の中に深刻な印象を残さなかった。それでも山古志村の全村避難の話とか、エコノミークラス症候群の話とか、土砂崩れで川がふさがれてできたダム決壊のおそれとか、厳しい状況はメディアを通して伝わってきた。

漠然とだが、被災した人と、そうでない人の間には大きなギャップがあるのだろうかということを感じた。

崖崩れの起きた場所や陥没した田んぼ、ブルーシートが掛けられた家を近くまで見に行ったことはあったけど、カメラを向けるのは気が引けた。だから、中越地震の被災現場の写真はほとんどない。

震災の後に積み重なっていく時間

中越地震の後2シーズンくらいは、「スキーに行くなら新潟でしょ。被災地の手伝いが出来ない自分たちは、とにかく新潟に遊びに行って地元にお金を落とすようにしなきゃね」と力説する、小出に実家がある友人に誘われて、数家族で連れだって何回も湯沢や塩沢にスキーに行った。

地震後最初のシーズンは、湯沢の駅前通りも本当に見間違えるほど寂れていた。そこそこ高級なホテルが格安な宿泊料金を打ち出していたり、反対に超がつくような高級旅館では値引きなしで営業していたり。「こんな時だからこそ来ていただけるお客さんに、普段と同じサービスをするのが復興への道だから」という話も聞いた。

スキー場は2年目でも客足は戻っていなかった。ただでさえスキー人口が激減していた時だった。民宿のおやじさんは、ここ数年は我慢して耐えるしかないって話していた。

地震の影響は、とくに観光には大きく響く。

でも、ここまで長々と書いてきたことは、ちょっと遠くて希薄な話だ。ただ、その光景を思い出して、そこから少し考えてみることで突き刺さってくることがひとつある。

越後川口のサービスエリアの近くだったか、地震の後、最初に新潟に行った時にもブルーシートが掛けられていた何軒かの住宅は、次の年の春になってもシートが掛けられたままだった。雪の重さのせいか、シートが破れたりずれたりしたままの家もあった。ブルーシートが掛けられた家は、地震から2年経った後にも残っていた。

車のハンドルを握りながら、「まだブルーシートのままの家がある」と口走って、後の言葉を続けられなかった。

誰だって家が壊れたままでいいと思うわけがない。直せないのには理由がある。金銭的な理由なのか、あるいはもうその家に住み続けることを諦めているのか。あるいは長く暮らしてきたこの家から、もう離れてしまったのか。

地震の前から山間部の集落は人口減少が進んでいたらしい。錦鯉の養殖とか闘牛とかで有名だった山古志村は、マリと三匹の子犬の物語の舞台となった場所だが、震災の後、人口が半分になったそうだ。

集落全体として、あるいはそれぞれの家庭として見ても、ぎりぎりで生活を維持してきたところに大きな地震がやってきたら、その土地の暮らしを維持していけなくなってしまう。そんなことが中越地震で被害を受けた多くの場所で起きている。

関越道から見えるブルーシートの家は、シートが破れたり、無くなっていたり、そうかと思うと次に同じ道を通る時には新しいシートに掛け替えられていたりした。残念ながら、それが何年くらい続いたのかは覚えていない。

10月23日の夜9時のNHKニュースで、中越地震について取材した大越健介キャスターが、特集の最後に「実は地元の人に叱られまして」と語っていた。いつまでも被災地扱いをしてくれるなと言われたのだそうだ。

そう語った地元の人の気持ちの中には両面があるんだろうなと思う。立ち直ろうという決意とか、亡くなった人たちへの思いとか、経済的な苦しみとか、少しでも再建が進むことのよろこびとか、挫折とか、それでも踏ん張ろうという気持ちとか、たくさんの人への感謝とか、震災後の時間とともに積み重ねられてきた思いの一面を言った言葉なのだろうと思った。

今年の夏、福島県のいわき市で知り合いのお母さんが話してくれたことを思い出した。

「いつまでも昔と比べて考えていると、いつまでたっても被災者でしかないから、もう昔に戻れるというようには考えないことにしようって。諦めるということではないのだけれど、この現状が私たちの暮らしなんだと思うことにしたんですよ。隣の仲良しの友達と一緒に、もう被災者はやめようって」

元に戻るということがどういうことなんだろうか。中越地震から10年。立ち直るとはどういうことなのだろう。

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