「腹切り問答」から転がり落ちていく戦争への道

Rinoue125R

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昭和12年の第70回帝国議会で、濱田國松衆議院議員と、陸軍大臣伯爵・寺内壽一の間で論争が発生する。

侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する。なかったら君割腹せよ

濱田議員は前衆議院議長で議員在職30年、当時の政党政治を代表する論客だった。軍部が政治に口をはさむことが増えてきたとの濱田議員の発言に対して寺内陸相、

「軍人に対しましていささか侮辱さるるような如き感じを致す所のお言葉を承りまするが……」

これに対し濱田議員が噛み付く。

「国民の代表者の私が、国家の名誉ある軍隊を侮辱したという喧嘩を吹きかけられて後へ退けませぬ。私の何らの言辞が群を侮辱いたしましたか。事実を挙げなさい」

再び寺内陸相、

「私はただ今濱田君が言われたようなことを申してはおりませぬ」

濱田議員は「質疑に関する議員の登壇は、三回の制限を受けております」と前置きした上で、

「日本の武士というものは古来名誉を尊重します。士道を重んずるものである。民間市井のならず者のように、論拠もなく、事実もなくして人の不名誉を断ずることができるか。これ以上は登壇することができない。速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する。なかったら君割腹せよ」

やり取りは帝国議会議事録から引用(現代仮名遣いに変更)した。濱田議員の弁舌が、まるで直接見えてくるような名調子。議事録はこちらで閲覧できます。

 帝国議会会議録データベースシステム-検索結果(一覧表示)
teikokugikai-i.ndl.go.jp  

1月21日の項のラスト2ページが問答の核心部です。

口喧嘩に敗れた結果、軍部の政治支配が強化され

帝国議会を舞台とした「口喧嘩」は濱田議員の圧勝だった。どう見ても寺内陸相は分が悪い。ところがやり込められた寺内陸相が反撃に転ずる。次の喧嘩の舞台は内閣だ。

寺内陸相は総理大臣・廣田弘毅に議会の解散を迫る。しかし廣田内閣は海軍予算を成立させる(※)という大仕事があったため解散はできない。解散がなければ単独辞職すると陸相は詰め寄った。前年に「軍部大臣現役武官制」(陸海軍大臣は現役の軍人に限るとの制度。軍出身の予備役さえ排除される)を復活させていたことがあだとなり、陸相辞職の場合、次の陸相を軍が出さなければ内閣は成り立たない。収拾策を見いだせない廣田内閣は総辞職に追い込まれた。

口喧嘩でやり込めた上に内閣まで総辞職に追い込んだ。これは政党政治サイドの大勝利かと思いきや、軍部の力がますます増大する方向へと歴史は急展開する。

廣田弘毅内閣の次を受けて、大命(内閣を組閣せよとの天皇の命令)が下されたのは、予備役陸軍大将の宇垣一成だった。ところが陸軍はこの内閣に対して現役軍人の陸相を出そうとしなかった。その結果、宇垣大将は組閣に失敗。続いて同じく予備役陸軍大将の林銑十郎に大命が降下され、ようやく林内閣が成立した。

軍部が首を縦に振らなければ内閣が組閣できない――。

このことが白日の下に露呈した結果となった。ようやくなった林内閣もわずか122日しか続かず、後を受けた第一次近衛内閣の7月7日、盧溝橋事件が勃発する。腹切り問答から半年余り、日中間の戦争は抜け出すことのできない泥沼にはまり込んでいく。

 【ぽたるページ】軍部大臣現役武官制とは
potaru.com

昭和12年度の予算とは

上の文中 ※ を付した昭和12年度の予算について。廣田内閣の後を継いだ林内閣で3月30日に成立した予算は、昭和に入って初めて総予算に占める軍事費の割合が国家財政の50%を上回った。69.5%という高い軍事費割合は、日清・日露戦争以来のものだ。

「風立ちぬ」のモデルとなった堀越二郎や映画「永遠の0」を通して再び注目を集めている「零式艦上戦闘機(零戦)」の開発は1937年(昭和12年)9月、海軍から戦闘機メーカーに提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」にはじまる。「十二試」とは昭和12年度の試作の意味。腹切り問答が戦われた当時、どうしても通さなければならなかった予算には、零戦を試作・開発するという事業が盛り込まれていたわけだ。

零戦の開発にも使われた予算ながら、この年の海軍予算で最重要視されていたのは「第三次海軍軍備補充計画(マル3計画)」に盛り込まれた4隻の主力艦だった。昭和12年度から5カ年計画で建造されるべく計画されたのは、戦艦大和・武蔵、航空母艦翔鶴・瑞鶴。とくに大和級戦艦は当時世界最大の主砲を搭載する戦艦として計画された。当時最大級の戦艦の主砲弾の飛距離が3万数千メートルだったのに対し、大和級の主砲弾は4万数千メートルの飛距離をもつ。つまり敵の弾が届かない外側から攻撃して敵艦隊を殲滅するための兵器として計画されたのが大和級戦艦だった。また2隻の大型正規空母は、その完成を待って太平洋戦争に突入したと言われるほど枢要な存在だ。当然これらの艦の計画は最高レベルの軍事機密である。

たとえトップシークレットでも、軍艦を造るためには国会での予算審議を通過させなければならない。米英の艦隊に負けない秘密兵器、大和級戦艦。その規模や武装を隠すため、予算の上でも造ることのない船の建造費を計上するなどの隠蔽策がとられた。しかし速やかに予算を成立させないとどこからボロが出ないとも限らない。万一戦艦の規模を推量させるような情報が漏れてしまえば、米英も間違いなく対抗して同一規模の戦艦を建造するだろう。そうなると莫大な予算をつぎ込むことになる巨艦の存在意義がなくなってしまう――。国会審議でもめたり、議会の解散で予算を棚ざらしにすることなど許されない状況だったのだ。

腹切り問答とは何だったか?

五・一五事件、二・二六事件事件などテロやクーデタを通じて政治的勢力を伸ばしてきた軍部に対する反発は、当時はまだ一般市民の間にあったらしい。民衆の支持を得られると踏んだからこそ濱田議員は寺内陸相に喧嘩を売り、やり込めたのに違いない。

しかし結果的には、軍部大臣現役武官制によって、軍部が認めなければ内閣を組閣できないという状況が明らかになった。

さらに、国会での議論とは別の場所で、世界最大級の戦艦建造計画が進められるなど、軍部はすでに独自の道を進み始めていた。情報公開を求めるすべもなく、大正14年に施行された治安維持法は、最高刑が死刑に引き上げられ、「為ニスル行為」の禁止が盛り込まれることで拡大解釈が容易になっていた。

どんどんキナ臭さを増していく世の中に投じられた「石」ではあったが、腹切り問答の波紋は打ち消され、さらなる軍部支配が進んで行く。「端境期」を示す事件ではあったが、軍部の台頭を抑え込むには遅きに失した。

腹切り問答は、「歴史に学べ」と私たちに訴えかけているように思う。

文●井上良太

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