【シリーズ・この人に聞く!第191回】政治学者 中島岳志さん

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コロナ禍で利他的な行為へ関心が高まっています。「思いがけず利他」(ミシマ社)では時代の動きから一歩進んだ論理が展開されています。著者の中島先生は『世の中で言われている利他は、僕らが考える利他とはだいぶ違う』と語り、自分がよかれと思ってする利他的な行為は実は利己的なものであるという指摘も。政治学と宗教学の接点を探求したご著書についてと、政治学者として今の日本をどのように捉えているのかをお聞きしました。

中島 岳志(なかじま たけし)

1975年大阪生まれ。大阪外国語大学卒業。京都大学大学院博士課程修了。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は南アジア地域研究、近代日本政治思想。2005年、『中村屋のボース』で大佛次郎論壇賞、アジア・太平洋賞受賞。著書に『パール判事』『秋葉原事件』『「リベラル保守」宣言』『血盟団事件』『アジア主義』『下中彌三郎』『保守と立憲』『親鸞と日本主義』『利他とは何か』など。ミシマ社からは『現代の超克』(若松英輔とも共著)、『料理と利他』(土井善晴との共著)、『思いがけず利他』を刊行。

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メビウスの輪のようにつながる利己と利他

――新刊「思いがけず利他」を偶然に本屋で手に取り、思いがけずおもしろかったので今回詳しくお話をお聞きしたくてご登場いただきます。この本を執筆するきっかけは何でしたか?

思いがけず手に取って読んでほしい発見の多い一冊。

思いがけず手に取って読んでほしい発見の多い一冊。

ふたつあります。ひとつは勤務先の東京工業大学(以下、東工大と略)未来の人類研究センターでプロジェクトをスタートするにあたり、理工系の大学でどんなテーマで研究を進めればいいのかと言った時に「利他」をテーマに考えましょうと。コロナ禍前提ではなかったのですが、昨年2月から利他プロジェクトが始まりました。

東工大は企業とのコラボレーションが多く、企業側が求めるのが企業イメージ。環境にやさしい、SDGsに乗っ取っているかは非常に関心が高い。けれども、私は何か引っ掛かるものがずっとあって、いわゆる企業の社会貢献は、利他的に見えてうっすらと胡散臭い。結局、企業のイメージアップのためにやっていることでは…と複雑な気持ちになってしまう。この複雑な気持ちの先にいかないと、地球環境問題を考えるのは難しいだろうと思ったのです。

――SDGsという言葉が独り歩きして流行化しているのが個人的には胡散臭さを増している気がします。執筆の動機としてのもう一つとは?

もう一つは、政治学者として自己責任論という問題にこの10数年ぶつかり、結局のところ行政サービスを小さくし、自己責任でやってくださいねという社会にこの20年なってきてしまった。この自己責任社会をどう越えたらいいか。その論理を考えたかった。自分の努力や能力でやってきたことに対して、生活保護をもらっているような奴は怠けてきただけ。そんな奴は自己責任だ、という論理が多い。

たとえば東工大では優秀な学生が多く、オレは頑張ってきたという感覚が強い。自分の勉強机が家にあり、塾に通えたという豊かさ、経済的支援を受けられたのは偶然の産物。僕はいわゆる底辺校と言われる学校の取材経験がありますが、家に部屋も自分の机すらなく、ぐちゃぐちゃな家の中で親が深夜まで帰ってこない。卓袱台で宿題をやっている子がたくさんいる。そうした環境は、もしかしたら自分であった可能性を想像できないと、自己責任論や能力主義は超えられない。これは政治的に大きな課題で、自分の能力でやってきたことを認めてほしい論理を超える「利他」という論理が必要と考えました。それが最初のテーマ設定の動機でした。

――なるほど。自己責任論を超える利他の論理。しかし利他の皮を被った利己という表現も鋭いです。利他と利己は表裏一体なのでしょうか?

僕はメビウスの輪に例えています。SDGsの話と同じく、行為としては確かに利他的なものに見えるけれど、これをやることによって褒められたいとか地位や名誉を得たいというものが滲みだしていると人は利己的だと思うのです。利己と利他は綺麗な反対語ではなく、メビウスの輪のようにつながっている。

これはマルセル・モースというフランスの学者が『贈与論』という本に「ギフトの中に毒が含まれている」と書いていますが、贈り物は相手を支配する意味をもつと言っています。ギフトをもらうと一瞬うれしいものの、最近では価格もネットで調べられる。例えば1万円くらいの高価なものだと、うれしい反面プレッシャーにもなりお返しどうしようとなる。これが続くと、負債感という負い目につながる。もらってばかりだと支配・被支配の関係でマウントされているようになり、ものを言いたくても、あれもらって返してないしとなる。それが贈与の中にはあって、モースは北アメリカ先住民の「ポトラッチ」に見ます。これは典型的なアメリカ先住民の儀礼で、返しきれないくらいのものをどさっと上げてしまう。それによって相手が返せないと向こうの部族を支配していく。どさっとあげる動機としては神からの指令とか、いろんなものがありますが世俗的には権力関係の贈与として使われる。ものをあげているから利他ではなく、利己的な支配力がそこにある。ストーカーのプレゼントもそうですが、もらう相手は怖いわけです。

――ギフトに毒が!それは自戒を込めないといけませんね。よかれと思うことが支配につながる。

そう考えると、与えることによって私たちは利他とか贈与をうみだせるか?という問題に辿り着く。ありがた迷惑というのがあって、僕が食べさせたいものが、相手にとって体調を崩してしまうようなものであったら困りますよね。「これ食べれないんです」と断っても、僕が無理に食べさせようとすれば、利己が前に出て暴力的な行為になる。つまり利他の瞬間は与える時ではなく、受け取られた時なんです。これがとても重要なことで、受け取りこそが利他をうみだす。僕たちは主体的に与えることによって利他ができるのか?という問題が浮上する。これは利他の構造としてとても重要です。

――何かを与える側ではなく、それを受け取る側の意識が「利他」につながるのですね?

そうですね。本でも書きましたが「あの時のひとこと」というのがあります。僕が中学生の時に上級生と喧嘩をして、その時に相手を殴ってしまった。振り返れば反省しきりですが、先生にめちゃくちゃ怒られて、『中島君の正義感はわかるけれど、暴力で示したらいかん。相手を説得することが重要だ。運動部に入らず勉強して知性によって解決できる方法を身につけなさい』と言われました。僕は小学生の頃も勉強はビリに近くて、親と相談して塾へ行くことになった。塾では三段階あるクラスのビリのクラスで、先生に言われて渋々通い出したし、その時は嫌な思い出でした。

でも20年くらい経って、インドでフィールドワークをしている時、学者になろうとしている自分の姿をふと垣間見て、あの時に先生に言ってもらったことがこうして今につながっているんだと、急にその時の思い出が感謝の気持ちになった。20年経て僕はようやく先生の言葉を受け止められ、先生はいきなり利他の主体として浮上した。残念ながらもう他界されておられ、僕はお礼を伝えられていないのですが、利他というのは与えられた瞬間には表れず、20年経って受け止められた時に浮上する。そういう時制があるんです。

――時間を掛けて受け止められることって、他にもいろいろありそうですね。

本にも書きましたが、死者の問題があります。弔うことは単に死者を懐かしむことではなく、利他を起動させるとても重要なポイントです。ああ、この人のおかげで自分がいるんだと。

僕は北海道に10年住んでいたことがありますが、原野だった場所に屯田兵がやってきて札幌の街を開拓してくれたから住めた。亡くなった無名の人たちの深い時間<ディープタイム>に想いを馳せるのは、利他として浮上させることになる。長いスパンで考えれば、僕らはそれを受け取ることが重要で、自分で何かやろうとするより、自分が支えられていることに目を向けて、ありがたいと感じることによって世界の循環を変えていくことができる。その方向性を模索したいというのがあります。僕がずっと関わっている利他プロジェクトの中のひとつで「弔い研究会」もやっています。弔いを真剣に考えないと利他の問題に辿り着かないし、政治学者として最も大切なことだと思っています。

死者を弔うことが民主主義の根幹を担う

――なるほど。法事やお墓参りも先祖に想いを馳せて感謝する気持ちから行動しますね。弔いを真剣に考えて、先生は政治学者としてこの国をどのように捉えていらっしゃいますか?

リーダーは「コトバ」をもっている。新しい次元の政治を拓くための徹底対談。集英社ウェブ イミダスの人気連載を書籍化。

リーダーは「コトバ」をもっている。新しい次元の政治を拓くための徹底対談。集英社ウェブ イミダスの人気連載を書籍化。

別の角度からずっと考えてきたのは、僕たちの民主主義なんです。近年では立憲主義という考え方が注目されています。2015年の安保法制の時に自民党が憲法を全然守らないので、憲法によって権力は縛られているという立憲主義が強調されました。

政治学的に、憲法学的にいうと、民主主義と立憲主義はぶつかります。そう簡単にうまくいかない。民主主義というのは生きてるものの多数決によって何でも決まってしまう。今回の選挙でも多数を取った自民党が大きな力を持ち、いろんな政策を推し進めます。しかし、いくら民主主義でも、たとえば過半数が『言論の自由なんてある程度抑圧してもいい』と言ったとしても、『憲法で禁じられているのでそれはダメです』となります。つまり民主主義は過半数によって物事を決定できるシステムとなっているけれども、それを憲法が阻んでいる。いくら過半数がイエスといっても、憲法はノーだと。なので、民主主義と立憲主義はぶつかるところがある。

これをどうやって解決するかは難問です。過半数を得ているのになんで制約されなくてはいけないんだというのが橋下元大阪市長や、安倍元首相の姿勢です。結局、民主主義と立憲主義という二つは主語が対立している。つまり民主主義は生きている人たちによって構成されており、生きている人しか投票できない生者の過半数のこと。ところが憲法の主語は死者なんです。亡くなった人たちが自分たちの経験に則して、例えば言論弾圧の時代に、こういうことをしたら人々の自由なんてむちゃくちゃになりますよ、と伝えている。あるいは三権分立がなかったら政治家に一元化されて甘い物になってしまう。立法、行政、司法と分けないといけませんとしてるのは、歴史をかけて様々な失敗を英知によって積み重ねてきた。死者の経験値が現在や未来を拘束しているのです。

――死者から託された歴史と英知があるから憲法改正とか簡単に言ってはいけないのですね。

日本国憲法97条には「基本的人権」について、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。死者たちがこういうことをやったらマズいよ、こんなに失敗してきたんだから…と未来に付託し、その権利を信託しているのが憲法です。死者を蔑ろにして、今生きている者だけで何でも決めるのはマズい。死者も民主主義の制度に招かないといけない。憲法が蔑ろにされているというのは、死者が蔑ろにされているのと同じです。今の人間だけで何でもできると思いあがっている。

しかるに政治学者として最も重要視すべきは、お葬式とか三回忌とかそういう仏事をちゃんとやってきたこと。死者たちとのつながりが希薄化したことで民主主義の危機につながっているのではないかと、僕は考えています。

宗教学上の死者と接点を考えてこなかったのですが、政治と死者は非常につながっている。死者によって民主主義、利他、世界観。そこから巻き返してSDGsや環境問題。いろんな構造の根底に死者弔いは関わっていると思う。政治学者としては変わったことを言ってますよね。

――すごくおもしろい。確かにそうですよね。SDGsは服をどうする?みたいな外面的な話にすり替えられている気がして。確かに服もあるけど、それを語るなら日本の環境という歴史も知るべきだと思う。先日観た映画「minamata」もまさにそうした歴史を紐解くことでSDGsにつながるというメッセージを受け取って、先生がおっしゃられている利他とつながった気がします。

おっしゃる通りで「利他プロジェクト」と連動して動いているのが「弔いプロジェクト」と「水俣プロジェクト」です。利他の世界観を回していくためには、過去に遡行しないといけない。学生を巻き込んで授業の一部にしていますが、水俣から毎週zoomで中継をして当事者の方からお話を聞いています。特に東工大は科学の最先端を担う人を育成する機関なので、水俣問題を理解すべきです。特許を取って名を成してやろうという科学者が、いかに世界を破綻させてしまうか。その声にどうやって耳を傾けるのか。科学を捉え直してほしくて学内ではそうしたプロジェクトも続けています。

――そうなんですね!声を聞くことは研究する上でとても大切な姿勢ですね。

僕は水俣で育った石牟礼道子さんを尊敬しています。水俣病が起きて1969年に『苦海浄土』を出版されました。そのプロセスで彼女も過去に遡行しています。足尾鉱毒事件をすごくよく調べて、足尾鉱毒事件で亡くなった人たちの声を聞くのが彼女の水俣病への向かい方でした。

3.11東日本大震災が遭った時に、僕は水俣を振り返ることが大切だと思いました。これからの福島を考えるためには50年前に起きた水俣のことを考えなくてはいけない。水俣の公害と、福島の原発の問題はパラレルです。近代の物質文明を支える工場や原発が、地方の人たちの命をないがしろにし、大きな被害を与えた。それをどう考えたらいいかといった時に、水俣に遡行した。石牟礼さんは水俣を考えるときに足尾鉱毒事件に遡行した。結局、死者の声に向き合うことで未来に向かうことにつながったのです。

フランスの詩人ポール・ヴァレリーの言葉に「湖に浮かんでいるボートを見よ」というのがあります。あのボートは後ろ向きに前に進む。進む方向と逆を向いてオールを漕ぎますが、後ろを真っすぐ見ることで正確に前に進める。つまり過去を凝視しないと未来に進めませんよ、ということです。僕らは未来予測といって、未来ばかり見ようとしていますが、死者たちの声を聞くことが未来へまっすぐ進めることなのだという逆説構造があります。水俣の問題は最前線です。

何事も受け取れるスペースをもつこと

――先生ご自身のことを少し紐解いてお聞かせいただきます。小学生の頃はどんなお子さんでしたか?

私たちが見つめ直し、変えられるのは日常の中にある。利他を暮らしから語る。

私たちが見つめ直し、変えられるのは日常の中にある。利他を暮らしから語る。

大阪で育ちましたが「しょうもないことしい」と言われていました。勉強ができる子でもなく、クラスの人気者でもなく、しょうもないことをして担任の先生や同級生の女子に嫌がられるという(笑)。机の中を片付けられなくて、親に渡すべきプリントとかぐちゃぐちゃに詰め込んでいて、掃除の時間に「中島君の机が重くて運べませ~ん」と女子にチクられ。机の中身を出すとプリント類の他に給食の残パンが出てきたり。ザリガニの死骸が出てきた時は、めちゃくちゃに怒られました。

――男子あるあるですね(笑)。その時代は何がお得意でしたか?

唯一好きなのは歴史でした。思いがけないことですが、小学2年生で大阪から家族で静岡の祖母の家に遊びに行った時、登呂遺跡に連れて行ってくれました。その時、登呂遺跡の資料館にあった火起こし器にハマっちゃったんです。あの、火を起こすためにくるくる回す道具。実験コーナーでそれを見て触って、どうしてもこれがほしいと言ったらしく。土産物屋でレプリカを買ってもらって家でずっと眺めていました。

今振り返って言語化すると、古代の人の心に関心があった。二千年前の人は何を考えていたんだろう?と理屈ではなく手触りでつながりを感じ取ろうとしていた。その後、古墳が好きになって、暗い石室に入ったり。大阪には石室が放置されたまま残っている古墳の跡地がたくさんあって、そこに行くのが好きでした。歴史の場所に行くのが好きになり、親に飛鳥村に行きたいと言ったり、どちらかというと古代に関心がありました。

――やはりそうした素養をお持ちで、今のベースがそこにありますね。

小学4,5年生の時、一万円札が福沢諭吉に変わりました。彼は中津藩という大分県出身の方で、生まれたのは大阪。中之島にある蔵屋敷で生まれたんです。それをニュースで聞いて、聖徳太子から近所のおじさんが一万円札の人になるような気持ちで、どこで生まれたのか調べたくなった。図書室で伝記を読み、場所を突き止めてチャリで行って。それを壁新聞に書いたら褒められました。

机の中にザリガニ突っこむ子ですからほとんど褒められることはなかったのですが、この時は褒められた。算数も国語も全然できないけれど、歴史は自分のやれるところだという思いがあった。それで中学に行ってからまた先生に怒られて「おまえは社会科部に入れ」と言われ、部員のいない部でいきなり部長となり仲間を集め、いろんな研究発表をするようになりました。

親もまさか遺跡好きにするために登呂遺跡へ連れていったわけではなく観光名所に行っただけでしたが、思いがけず人は何かに関心をもつものなんですね。自分の中にスペースがあることは最終的に重要だと思います。

――スペースをもつ大切さ。それは子どもだけでなく大人もそうですね。

利他をうみだす受け手問題ですが、受け取るためには自分の中に空きスペースが必要です。誰かが言っていることに、自分の興味がないことと撥ねてしまうと新しい世界は始まらない。あ、それ、おもしろいね!と思えるスペースがあると、思いがけない偶然がそこから生まれていく。偶然を生み出すには自分の中にスペースを生まないといけない。これ、おもしろいね!と言えるスペースです。

僕はNHKのど自慢の伴奏者が、典型的に利他のいい例だと思っています。相手をコントロールせず、その人のポテンシャルが花開くように添うことが、利他の一番理想的な姿。添うには自分の中にスペースがないとできない。スペースがないとコントロールしようとする。たとえば、学生が僕にかけ離れたことを言ってくることがあります。悪い指導教官は自分の学説のほうに軌道修正しようとします。けれど、わからないなりに受け容れるスペースが自分の中にあると、その学生のポテンシャルが引き出されるし、それによって教えられることも多い。自分と違う角度から話が来るわけですから。

だから与えることではなく、自分の中にスペースを創ることがまず実践としてはいいんじゃないでしょうか。親も学校の先生も余裕がないと型にハメて、ややこしいことを言うとそれ時間掛かるから…と可能性を奪ってしまう。うまく言えずとも関心を示していることに反応できる自分のスペースが必要なんでしょうね。

――のど自慢の伴奏者のお話はツボでした!ところで先生は子どもの頃どんな習い事を?興味や関心を早い時期にハッキリされていましたけれど。

僕は落ち着きがなくて座っていられない子で、最初はお習字に。一枚書くと暴れるのでこれはいかんということで、母にピアノも通わされました。もうちょっと座るだろうと。これも一分と持たず(笑)。それから囲碁のプロ棋士に弟子入りさせられ、小学2年生から高校までやっていました。これは強くなってしまってプロになるの?どうするの?と聞かれたこともありましたが、囲碁の道には進みませんでした。アマチュアの六段という最高段位までいきました。親にやらされている感じで当時は全然好きじゃなかった習字もピアノも小学生時代は通いましたが、強制的にやらされたものは身につかないんだな、と身をもって経験しました。

ありがたかったのは、歴史好きの私が京都や奈良に行きたいというと、親はとにかく連れて行ってくれた。飛鳥村にいって高松塚古墳と石舞台古墳に行きたいと言えば、いいよ~と。遊園地とかに全然行きたがらないので変わった子やなぁ~って(笑)。

政治の信頼を取り戻すために地域にコミットしよう

――先生は政治学者として、11月の衆院選結果をどのようにご覧になりましたか?

現代日本の混迷を救うため、気鋭の政治哲学者と批評家の二人が挑んだ全身全霊の対話。

現代日本の混迷を救うため、気鋭の政治哲学者と批評家の二人が挑んだ全身全霊の対話。

投票率が56%くらいで結果的に伸びなかった。コロナになって政治へのネグレクトが起きていると思う。先日の第5波の時も、政府が言うことを国民は聞かなくなった。政治に対する信頼がまったくないので、あなた方の言うことは聞けないと。与党支持とか野党支持ではなく政治全体に対する不信がすごく大きい。こうなってしまうと自己責任が余計回転して、自分の身は自分で守るしかない。商売も何とか自分でやっていくしかない。政治に対する信頼が損なわれるほど、自己責任社会が蔓延ってしまう悪循環になっている。ここをなんとかしないといけない。

たとえばニュージーランドは政治家と国民の信頼関係がしっかりある。アーダーンという私より少し若い女性の首相で、子育てをしながら国を率いている素晴らしい政治家です。率直に、「私もコロナが怖い」と言って、コロナで家族が感染するのは怖いけれど、ここを乗り切るために何日間かロックダウンをします。一緒にやりましょう、と呼びかける。そうすると首相に対して信頼は厚くなる。感染者数もかなり抑え込みができています。民主主義のいい形で政治に信頼がある。

一方で日本人はまったく信頼がない。証拠を改ざんする、文書を黒塗りにする。野党にしても大丈夫か?と。国民が政治をあきらめてしまっている。野党が与党が岸田が…という前に、政治に対する信頼を回復しないとどうにもならない、というのが僕の考えです。

――信頼を取り戻すために私たちはどうしていけばいいんでしょうか?

長い道のりです。政治家に頼ってもダメなので投票率を上げるために投票へ行こうという呼びかけだけではうまくいかない。普段から政治にコミットすることがすごく重要です。国政ではなかなか難しくても、ボトムアップで地域の政治にコミットすること。

難しいことではなくて、たとえば東京では今空き家問題がクローズアップされています。防犯上、厄介者扱いされますが、ある種みんなで使える公共スペースとしての可能性がある。持ち主も実家のご両親が亡くなってしまったから空き家になっていることが大半です。地域の側としたら子育てサークルをやりたい人や、習い事としてお箏をやりたいとか、そうした場所と人をつないでうまく整理するのが政治です。こういうコミットの仕方がいっぱいあって、選挙以外の時に僕たちが小さな政治に関わるルートが無数にある社会が、政治が機能している社会だと思います。

そういう回路をいっぱい作らないといけない。でも回路を作っただけではダメで、僕たちに余白をつくらないといけない。労働時間が長すぎて地域の政治にコミットする時間などない、と言う人も多い。そのためには格差社会を失くさないといけない。非正規でいくつもの仕事を兼任しながらでないと生活できない人は、プラス政治に関われって何だよと思うわけですよね。だから労働環境を良くしないといけないし、働き方改革をもっとしなくてはいけないし、なにせ女性に対する負担が大きすぎる。労働も介護も子育てもって、そのうえ地域の政治に関わることなんてできないよというのが本音だと思います。そういうことを整えることによって、政治を起動させる。即効性は考えてはいけないのです。

――地域の政治にコミットすることが大切なポイントであり、参加できるように細かいことを整えつつ、長い目で関わるというのもよくわかりました。今年一年の総括として、先生から子育てする親世代へ何かメッセージをお願いできますか。

自戒の念を含めてですが、子どもの潜在的な可能性というものを引き出すということが重要だと思います。これしちゃいけない、あれはダメ、こうしなさいという親の願望を子どもに付託するのではなく、その子が関心をもつことを伸ばしてあげられるような、そういう家庭や教育が大切だと思います。それに対応するには自分に余白がないとダメですね。時間的なスペースもそうですし、それにちゃんと向き合えるような心の余裕も。そういう余白を自分の生活に作るようにするのが、親にとってはとても重要と感じたりします。

――では最後に、未来の子どもたちに伝えたいメッセージはいかがでしょう。

利他は未来からやって来るもの。今、自分がやっていることがすぐ報われると近視眼的に考えないほうがいい。毎日を丁寧に過ごしていれば、それが思いがけず何かを花開かせることになる。20,30年後に「あの時のが、これにつながっていたのか」と気づいた瞬間、私たちが丁寧に生きてきたことが利他として浮上させられる。未来に何かやって来るものを信じて、私たちは丁寧に余白を作って生きていくことが大切だと思います。

未来からの何かを待ちわびてしまうと利己になってしまうので(笑)、過剰な計らいを持たず、丁寧に、余白をもって生きていくこと。のど自慢の伴奏者のように、出合い頭のものにうまく添いながら、ポテンシャルを引き出していくと何かが現れる構造を信じる。利益になるかわからないけれど、そうすることによって何かが生まれるんじゃないでしょうか。

編集後記

――ありがとうございました!目から鱗が落ちまくりの「利他」の話でした。リモート取材がほとんどの一年間。内容の濃さは今年最後にふさわしく中島先生のインタビュー原稿まとめながらも楽しめました。のど自慢の伴奏者のごとく、このコンテンツもご登場いただく皆様の想いに沿いながら来年もお届けしたいと思います。皆さまにとって2022年がいい年となりますように!

2021年11月リモートによる取材・文/マザール あべみちこ

活動インフォメーション

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現代の超克 本当の「読む」を取り戻す
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現代日本の混迷を救うため、気鋭の政治哲学者、批評家の二人が試みた、全身全霊の対話。

料理と利他
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