昔から「ひとつのモノを長く使う」文化で親しまれてきた裂き織り。古布を裂いて織り直し新たな生地に生まれ変わらせる手法で、そのデザイン性の高さが再認識されています。1月6日から東京ミッドタウンで開催の「日本クラフト展」に出品する『鬼-URAMI-』というタイトルで製作した裂き織りジャケットは圧巻です。ユニークな作品を制作する秋園さんに創作活動への思いをお聞きしました。
秋園 圭一(あきぞの けいいち)
裂き織り・手芸作家/手芸教室講師
1985年徳島県生まれ。現在神奈川県横須賀市在住。慶應義塾大学理工学部機械工学科卒。ロボット研究者の父の影響を受けて工作好きに育ち、ロボットを勉強しようと思い大学に入るも方向転換し手芸作家に。その独特な作風から人気が出て、過去の個展では一週間で1200名以上が来場。様々な分野の作品を制作するが、現在は特に古布を蘇らせる裂き織りに注力している。制作した裂き織り作品は八ヶ岳美術館、静岡県立美術館などで開催された全国の公募展で受賞多数。メゾン・アンリ(青山)にて異分野コラボファッションショー「モードの芽」を開催、手芸雑誌「毛糸だま2018秋号」(日本ヴォーグ社)に掲載されるなど、精力的に活動している。
おもちゃも手作りする工作大好き少年。
――見れば見るほどすごい技術と熱量を感じる作品ですが、そもそもいつから創作活動をされていたのですか?子どもの頃からのお話しをお聞かせいただけますか。
父がロボットの研究者だったのでその影響が大きく、子どもの頃からロボットに触れる機会が多かったんです。父がよくロボットについて話してくれ、それが面白くて自分もいずれロボットを作るんだ、と自然に思うようになりました。ミニカーなど市販のおもちゃでも遊びましたが、主に遊んでいたのは父が紙や木で作ってくれた自作のおもちゃ。それが普通だと思っていましたし、そういう環境で育ったので自分が欲しいおもちゃは自分で作るもの、という意識が自然に芽生えました。
――ずいぶん器用なお父様ですね。幼稚園から小学生になってからは?勉強は得意でしたか?
小学生の頃は工作少年でした。学校から帰ってきたら友達と遊ぶか、家で何か工作するかのどちらかでしたね。下校するときも、「今日帰ったら何を作ろうかな」と考えながら帰っていました。勉強は全然できませんでした。図工は5でしたが、勉強で得意科目はなかったです。工作以外何もなかったですね。なかでも作文が非常に苦手で、文章を作るのが苦手でした。「…だと思います」の羅列しかできませんでした(笑)。喘息があったので体を動かすのも苦手で、体育もダメでした。算数も図形の面積を出すのとか苦手で、小学校の頃は勉強ができませんでした。
――天才の一面、という感じでおもしろいですね。小学校は大好きな工作漬けで、中学にあがってからは?
中学生になって勉強しよう!と思い立って塾に通い始めました。すると勉強がわかるし、できるようになったんです。小学生の頃、ほとんどの友達が習い事をしていて自分も何かしたほうがいいのかな?と思っていましたが、とにかく工作がしたかったので塾は中学になってから、と自分の中で決めて、小学生時代は工作に没頭して習い事は一切しませんでした。母がピアノの先生でしたので保育園の頃にピアノを習わせようと何週間か通わせられたのですが、ピアノに興味を持てず泣いて嫌がりました。母は音感を付けるだけでも…と思っていたようですが全然ダメでしたね。僕には作ることしかない。厚紙とセロテープがあれば幸せな少年でした(笑)。
――中学生の頃は勉強に目覚めて、部活は何を?そして高校、大学では?
中学生で勉強ができるようになったら面白くなり、中学時代から高校にかけて工作は一時休止して勉強に専念。中学の部活は囲碁将棋同好会でしたが幽霊部員でした。高校では体力が無いながらもバレーボール部に入って、部活も勉強も熱心にやっていました。大学は京大が第一志望、慶應は第二志望。京大には入れなかったため、慶應義塾大学理工学部機械工学科へ進学することになりました。受験勉強で勉強する糸が切れてしまったのもあり、大学では机の上の勉強とは全く違うことをしよう!と思い立ち、ワンゲル部と自転車旅行部へ入部。海外の山へ登ったり、自転車で日本縦断したり、アウトドアな日々を過ごしていました。勉強はそれなりに…やっていたと思います(笑)。
日常にあるものを自分で作ってみたい。
――大学ではゼミで何を勉強していました?何か今の道へ続くようなことですか?
父の影響もあって、大学ではロボットを学ぼうと思って機械工学科に進んだんです。そうしたら機械の勉強自体は面白かったんですが、ロボットを作る際に自分が関われる部分はとても少ないということに今さらながら思い当たりました。一部の部品にしか関われないことが多いんです。それも大切な仕事ではありますが、満足できなかった。また、ロボットが完成したとしても、それがすぐに生活の役に立つわけではない点にも不満がありました。そういうことをモヤモヤと考えながら自転車で日本縦断をしている時や山に登っている時、「ここにポケットがあったらいいのに」「ここがもう少し丈夫な素材なら擦れないんじゃないか」などウェアの改善点に色々気づいて、日常にあるものを自分で作れたらいいんじゃないか?と考えるようになりました。
――自分がほしいモノを「こうならいいのに」という視点で改善して作るようになったわけですね。それにしても布だけでなく革やデニム、籐やニットなどあらゆるジャンルで作ってますが。
日常のものを自分で作る…と考えた時、母が編み物をしていたことを思い出しました。編み物なら棒針と毛糸があればできるし、ちょっとやってみようと大学2年の時にマフラーを編み始めたのが今の活動の始まりです。母を驚かせようと思って、編んでいるのは秘密にして独力で編み上げましたが、目も落ち、ヨレヨレで人にあげるのはちょっと・・・という出来だったので自分で使っていました(笑)。そんな出来でしたが、なんとも言えない達成感がありました。ロボットを作る場合に一部しか関われなくて、しかもすぐに生活の役に立つわけではないことに自分の不満があるなら、自分の力で全体を作れて、毎日の生活で役に立つものを作ればいいんだ!と気付き、霧が晴れたようでした。そのため研究室ではロボットの研究ではなく人間工学を専攻して、人が日常使うものはどのような形状・機能があると快適か?といったことを研究していました。
――好きを極めていらっしゃいますね。マフラーを編んでから、今度は何を作ったのですか?
2本目のマフラーはうまく編めたので、今度はもっと大物を編みたくなってセーターを。それからカーディガンも…となっていきました。編み物は冬のものですが、シャツが作れたら四季を問わず着られるかなと思って、今度は洋裁を始めました。服だけでなくバッグもできたら…と思い、いろんな分野に広がっていくことになりました。これは、ロボットから方向転換して「日常で使えるものを」というのがコンセプトになり「この技法でこれを作る」と制限するのではなく、分野を問わず日常で使うものを面白くデザインしていった結果だと思います。
――とても器用だなぁと思いますが、おもちゃを手作りする以外に何かおうちの手伝いとかされていらしたのですか?
父からはロボットへの興味に影響を受けましたが、母からは3歳ぐらいの頃から縫い針を持たされていました。自分の靴下に穴があいたら自分で繕うというのが母の教育方針だったようで、自分にとってはそれが普通でした。今考えると危ないと思うんですけどね(笑)。それが原体験にあったので、ロボットから手芸に方向転換した時もそれほど抵抗が無かったのかもしれません。男が手芸と言っても、ものを作りたいという情熱ではロボットでも手芸でもそんなに変わりないのかもしれません。
MOTTAINAIをいかす裂き織りを普及。
――大学卒業後の就職先もユニークですが、就活の時はどういうお考えで選択されたのですか?
友達は大手メーカーなどに決まっていきましたが、私は手芸用品店に就職しました。私は大手メーカーに入るというよりは、何かしら手作業に関わる仕事に就きたいと思っていたんです。そうすると職人になるという道もあったのですが、職人はある分野のエキスパートということですから、日常使うものをなんでも作るという方針だとちょっと違いますよね。手芸に関するものということで仕事を探していたとき、手芸材料を扱うお店は自分にとって一番身近だということに気付きました。ここで働けば材料にも身近に触れられ、自分の勉強にもなっていいんじゃないかと。慶應からは、たった一人。先輩も誰もいませんでした。
――周囲もビックリな就職先だったと思いますが、秋園さんとしては幸せな選択で。今は何を主に作っているのでしょう?
3年勤務して、接客業の楽しさと難しさどちらも体験しました。非常に勉強になる事が多く、今の自分の肥やしになっています。プライベートの時間で制作もしていましたが、どうしても作る時間に制限がありました。小学生の頃のように、作る時間にすべて投じたい!という欲求が膨らんで退社して独立。収入というより作りたい気持ちが優先していて、とにかく作ろうと思いひたすら作っていました。
作品が溜まって来たため個展を開いたら、作り方を教えて欲しいという方が現れて運良く教室を開くことになり、今は外部のものも含めて教室を4つ掛け持ちしています。それで完全に食えているわけではありませんが、今は裂き織り作家としてモノづくりに取り組んでいます。裂き織りは古い布を裂いて、機織り機で織り直して生まれ変わらせるのでMOTTAINAI精神の象徴だと言えます。段ボールのロボットを作っていた頃もMOTTAINAI精神を活かしていたと言えますが、それを手芸の世界で活かせるのが裂き織りだ!と。5年後には「ZONO」(自身のブランド)と言えば裂き織りのブランドだと世界的に認知されているようになるのが今の夢です。
――裂き織りで今はどんなアイテムを手がけていらっしゃいますか?
メンズジャケットを制作しています。この作品は2020年1月6日から14日まで、六本木の東京ミッドタウンで開催される日本クラフト展で展示されます。これは元々は真っ黒の紋付の羽織りで、それを裂き織りにしてジャケットに仕立てました。たて糸はグレーの糸で、よこ糸に細く切った羽織りの布を使って織っています。織物はたて糸とよこ糸でデザインしますが、よこ糸が真っ黒の羽織りだとたて糸も活きて模様が出しやすいんですね。このジャケットのタイトルは「鬼-URAMI-」と言って、あるストーリーが込められています。紋付きの羽織りって冠婚葬祭でしか着ないのでタンスの肥やしになっていることが多いんですが、さらにクリーニングが面倒だからと言って結局レンタルのものを使ってしまったりします。そうやって、物を作るだけ作って最後まで使い切らない人間達への恨みを晴らすために紋付きの羽織りがジャケットになった、というストーリーを考えました。そのため、この作品は前面が鬼の顔をした恨めしいジャケットになっています。
――ものすごく素敵な作品なのに、裏にはそんな恐ろしいストーリーがあるのですね(笑)。では、自由に発想する秋園さんから子育てについてアドバイスをお願いします。
二つあります。せかさない、ということが一つ。母は5分で行ける保育園に、帰りは2時間かけて付き合ってくれました。時間に追われていると難しいことですが、うまくお子さんを誘導できたらいいなと思います。もう一つは、習い事をし過ぎている子が多い気がします。週3,4は当たり前みたいで、中には週6も。ちょっと忙し過ぎではないかと。私は週7でロボットのおもちゃ作りをしていましたからね(笑)。その子が習い事をしたくて始めるならいいと思いますが、そんなに忙しくする必要があるのだろうか?と。子どもの頃って何もないところから遊びを創り出すのが一番大切だと思うんです。私はTVゲームとか苦手で、やってみても面白くなくてハマれなかった。人に組まれた枠の中で遊ぶと、結局その中でしか遊べなくなるんじゃないでしょうか。自分で何とかする力、応用力やマネジメント力が減ってしまうのではないかなと思います。
編集後記
――ありがとうございました!突き破るおもしろさ!というのが秋園さんから受ける印象でした。好きなことがハッキリしている分、エネルギーの注ぎ方が半端なく独自のやり方で道を切り開いてこられたのだと感じました。2020東京オリンピックの年。海外からも日本の手作業に熱い視線が注がれています。裂き織りの先駆けブランド「ZONO」が近い未来に海を渡っているように!応援しています。
2019年12月取材・文/マザール あべみちこ
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このページは株式会社ジェーピーツーワンが運営する「子供の習い事.net 『シリーズこの人に聞く!第168回』」から転載しています。
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