行くたびにいろんな出会いがある復興支援ツアー。今回は岩手県南部、宮城県気仙沼市を巡りました!
岩手県は初の訪問。初の農泊。初の子連れ東北旅行・・・。
初めてずくしのツアーでしたが、実際どうだったのでしょうか。
各地の復興状況、そして現地の魅力とあわせて、レポートしていきます。
旅の目的
・旅を通じて東北沿岸部の今を知る
・震災の被害を受けながらも再開した宿を応援
・津波被害にあった岩手県の各地を訪れて、防災や減災を学ぶ
・自然、食、人の新しい魅力を見つける
・農泊体験で地元の方と交流
・工芸体験、料理体験などを楽しみながら、自然が豊富な場所でゆっくり過ごす
参加者
自分、妻 、子
日程
2019年11月28日(木)~2019年11月30日(土)
1日目(11月28日)
JR一ノ関駅で下車後、レンタカーを借りて宮城県気仙沼市へ。
この日の日中気温は3度前後。前日にレンタカー会社の方に話を聞いたところ、ほとんどの車はスタッドレスタイヤに履き替えており、実際借りた車もその対象でした。ただ、履き替えの時期はレンタカー会社やその年によって変わる場合があるので、ちょうど11月、12月前半あたりの利用時は念の為、事前の確認がおすすめです。
気仙沼に到着して、まず最初に向かったのが『気仙沼海の市』。ちょうど2年前にも訪れました。
1階のイベントホールでは、NHKが主催する復興イベントの一環で同局の番組『こころフォト~忘れない~』、復興ソング『花は咲く』の展示が行われていました。
昼食はカネト水産さん。以前は又隣のリアスキッチンさんでメカジキのハーモニカをいただきましたが、今回はメカジキが入った海鮮丼を食べたいと思い、こちらをチョイス。(スーパーでは加熱用の切り身でしかほとんど見たことがないので…)こちらのお店では表面だけを焼いたタタキを出されていました。ボリューム満点で美味しい。畳のお部屋もあるので子連れにとってはありがたいです。
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館
昼食後、気仙沼向洋高校の被災校舎を整備した『気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館』へ向かいました。
周辺は道路整備や防潮堤建設といった工事の真っ最中。また、伝承館の隣にある児童公園も準備が進められていました。もともとはこれよりも先にあった公園が津波の被害を受けたことで、移転しこの数日後に復旧が完了したのだそうです。
気仙沼向洋高校は歴史のある水産高校。そのため、実習を行う上では必要不可欠な海の近くに校舎が建設されました。
校舎は南北に分かれており、南校舎は主に校長室、事務室、実習をする特別教室などが中心。北校舎は生徒の教室として使用されていました。
あの日、この学校ではその年最後の授業が午前まで行われ、午後は部活動やクラス行事をしていたのだそうです。教員は高校入試関連の作業等をしており、約170名の生徒と約20名の教員、そして、改修中だった校舎の工事作業員26名が校内に残っていました。
生徒と数名の教員は校舎から1kmほど離れたお寺に避難(最終的にさらに海から離れた中学校に移動)。
残りの教員は学校の重要書類や貴重品などを南校舎1階から3階に移動させ、当初は同じく残っていた人も3階に避難したとのことです。(過去の津波データを参考にして3階であれば安全だろうと踏んでいた)
しかし、予想以上の高さの津波が襲来。荷物とともに4階まで上がりましたが、第3波で水はそこまでも到達してしまいました。最終手段として、マスターキーを持っていた職員がいたため、普段鍵がかかっている屋上へ避難。なんとか犠牲者を1人も出さずに難を逃れることができました。
これまでも被災した学校を見学してきましたが、高等学校は今回が初めてでした。校舎の規模が異なるだけでなく、校内の様々な場所で活動する(震災時は、校庭などで部活動、中庭でクラス行事、教室で補習、事務室は生徒入室禁止で教員のみが作業をしていた等)時間が多いため、緊急時は各々の判断がより大切になってきます。
近くの冷凍工場が津波の威力を弱めてくれたこと(工場は流され校舎の角に衝突した)など幸運もありながらも、最終的にはその時々で最善の行動をとれるかどうかが生死を分けるポイントなのだと思いました。
網元の宿 磯村
見学した後は、本日お世話になる宿『磯村』さんへ。魚市場から歩いて7~8分ほど距離にあるこの地区も津波によって大きな被害を受けました。
宿の方によると、当時は今よりも少し内陸に位置する場所に建っていたのですが、津波が押し寄せ1階部分が損壊。かさ上げ工事等の遅れ等によって目処が立たず、再建するまでに約7年を要したのだそうです。
置かれている物一つ一つにこだわりが感じられ、館内は上品な雰囲気。それでいて、みなさん気さくでアットホーム。
食事では息子に対してお心遣いをしていただきました。こんなにゆっくり自宅以外で食事を楽しめたのは初めてかもしれません。
そして、肝心な食事な内容はというと・・・。
気仙沼で水揚げされた新鮮な海の幸がふんだんに使われています!
メカジキの刺身、ふかひれ、牡蠣といった定番はもちろんのこと。
サメの心臓、マンボウといった珍しい食材まで!
サメの心臓(通称:モウカの星)は女将さん曰く、もともとは気仙沼のマグロ漁師が釣り上げたサメを食べたところ、思いのほか美味しかったということで、市内で出回るようになったのだとか。「この旅館が最初に料理として出した」とのことでした。
酢味噌でいただくのが気仙沼流。味はレバ刺しと表現する方が多い方が多いようですが、全く癖がないことや食感的に馬刺しのほうが近い気がしました。
私はなんでもいける派ですが、『珍味苦手』『魚より肉派』な妻がどの料理も完食したのは驚きでした。
2日目(11月29日)
朝ごはんも大満足でした。
指定した時間に1人ずつ土鍋で炊き上げてくれるご飯。それに刺身を乗せたお茶漬けまで食べられるとは!朝から贅沢なひと時です。
道の駅高田松原
旅館をあとにし、本日最初の目的地・道の駅高田松原に到着しました。
たがだ屋さんが以前あった場所は、8月の大雨により閉鎖され、食堂やお土産店はこちらで営業されていました。
道の駅から追悼施設、献花台へ進み、奇跡の一本松・陸前高田ユースホステルまで歩いていくことができます。
周辺一帯を『高田松原津波復興祈念公園』として整備。園内の自由な行き来が可能になる通路、そして駐車場から見えたタピック45、旧気仙中学校の内部公開に向けて現在も一部で工事が行われています。
東日本大震災津波伝承館
奇跡の一本松・陸前高田ユースホステルの見学後は再び道の駅に戻ってきました。隣にあるのが『東日本大震災津波伝承館』。
これまでも伝承施設をいくつか見学してきましたが、その多くがそれぞれの市町村内で起きた出来事を中心としたものでした。一方こちらは県内の三陸沿岸部全域を対象とした内容。過去の災害から3.11につながり、教訓そして復興までと東日本大震災を体系的に理解できる内容になっています。
教訓では、異なる地域の様々な立場(消防、警察、病院、学校、住民など)からの視点でまとめられています。犠牲者を出さずに避難した学校等の事例もいくつか紹介されており、今回初めて知ったケースもありました。
数多くの展示の中でも、特に印象的だったのが『東北地方整備局災害対策室』を再現したブースでした。(写真撮影は不可)
各地の様子を映したモニターが数十台あり、それを囲むようにテーブルと椅子が配置されています。このような場所で情報収集や災害対策の検討、現場への指示が行われていました。
この対策室で立てられた計画が『くしの歯作戦』です。孤立の恐れもあった三陸沿岸部でしたが、迅速な対応により、震災翌日(3月12日)の時点で瓦礫等で塞がれていた内陸部と沿岸部をつなぐ11本のルートを確保することに成功。これによりアクセスが大幅に改善され、人命救助、物資輸送がスムーズになりました。この作戦に関連するパネルが展示。動画では作戦に携わっていた方々のインタビューも聴くことができます。
※内陸部と沿岸部の道路を2本に縦線として、それを11本の横線でつなぐと『くしの歯』のように見えるため、名付けられました。
椿の里・大船渡ガイドの会
その後、大船渡へ向けて出発。
少し車を走らせ、碁石海岸レストハウスに到着しました。駐車場にはすでにガイドさんがいらっしゃいました。
子供が小さいこと。この後自分たちが大船渡駅の近くで予定があったこと。そして、昼食の場所として予定していたレストハウスが臨時休業だったこと。
こうしたハプニング(うち2つは事前にきちんと伝えてなかった…。ガイドさんごめんなさい)がありましたが、すぐに新たな行程を頭の中で組み直し、案内をして下さいました。
松の木が生い茂る遊歩道を進んでいくと大海原が望める展望台に到着。ここは震災後に出来たのだそうです。
展望台の右手に見えるのが『乱曝谷(らんぼうや)』。海食により出来た断崖で高さは30メートル以上もあります。
また、隣にあるのが、『雷岩(かみなりいわ)』。打ち寄せた波によって洞穴から入った空気が圧縮されて外に逃げていくときに雷鳴のような音が響き渡ります。この日の波は穏やかでしたが、なんとか一度だけ「ドドーーン。ゴーー。」を聴くことができました。
その後は碁石海岸の名前の由来になった碁石浜へ行きました。黒い玉の砂利は囲碁で使う石のような形をしています。記念に形が良いものをいくつかいただいてきました。
道中では、傾向として実際にあった「男性は皆を見届けてから、一番最後に避難するので逃げ遅れる」ことや「今でもPTSDに悩まされている人がおり、強い責任感からか各家庭の長男に多い」ことなど、外から見ただけでは中々聴けないようなお話もしていただきました。
その後も各所の案内をしていただきながら、大船渡市魚市場へ。
震災の影響を受けながらも、最新の設備を搭載した新たな市場に生まれ変わりました。ガイドさんは食の安全を守る上で徹底的にこだわった最新の衛生管理システム。また、海水を使ったシャーベット上の氷ができる珍しい製氷施設が自慢だとおっしゃっていました。
大船渡といえば本州一の水揚げ量を誇るサンマ。市場でサンマを1匹ずつ直列でつなぎ合わせるというイベントを過去に実施したところ、並べた長さはなんと357.22メートル!『最も長い食用魚の列』としてギネス記録に認定されました。
湾口に造られた深海防波堤も全国で一番最初に整備された貴重な施設です。魚市場がある大船渡湾はL字のような特徴的な形。デッキから見ると縦に長い湾であることがわかります。
湾に波が入らないように、湾口(『L』の角付近)に整備しましたが、3.11の津波はそれを越え、防波堤を破壊したとのことでした。(現在は、防波堤の高さや機能を見直し、復旧工事が完了しています。)「防波堤があるから大丈夫」と、逃げ遅れた方もいたそうです。
想定などあるようでない自然災害の恐ろしさやこうした思い込みが一瞬の判断にも影響するのだということを改めて実感しました。
「私も50人の知り合いを亡くしています。」
こうした経験をされていても、私たちに終始明るくふるまってくれたガイドさん。息子を可愛がりすぎて、なぜかご自身が泣いてしまうというお茶目なところも印象的でした。
今後起こり得る自然災害から生き抜くためには、こうした伝え続ける方々の存在が大切だと思いました。
「メニューはなんでもあるし、おおふなぽーとに近くてゆっくりできるから」
というガイドさんのご提案で、昼食は大船渡プラザホテル内にあるレストラン『サーカス』さんにしました。
密かに「今回の旅で最低でも1回は食べたい」と思っていた牡蠣フライはこちらでいただくことにしました。裏ミッションクリア(美味しかったです。)。
大船渡津波伝承館
昼食後は近隣の商業施設・キャッセン大船渡を散策し、『防災観光交流センター おおふなぽーと』へ。
こちらで大船渡津波伝承館の館長の方と待ち合わせ。少し早いですが、すでにいらっしゃったので語り部を始めていただきました。
実は銘菓『かもめの玉子』の会社・さいとう製菓の専務を務めていた館長。震災当時は社屋で被災したのだそうです。社員にいち早く高台避難を促し、ご自身は「いつも持ち歩いていた」と言う小型のカメラでまちの様子を撮影し続けました。
まずはその時の様子を中心とした映像を視聴。(避難を促す時点から始まり、津波が建物を破壊しながらまちを飲み込んでいく様子、叫び続ける館長の声が記録されています。)
その後に館長が当時市内で起きた出来事や津波の教訓についてお話をしてくれます。犠牲者の多くがそもそも避難をしていなかったり、一度は避難しても自宅に戻る途中に犠牲になった方だと言います。
館長のお話
特に印象的だったのは、津波が市内に到達している状況にもかかわらず、津波の方向に向かっていく車が数台走っていたこと。
『現実を受け入れられず、大したことないと考えてしまった(正常性バイアス)』
『パニックに陥り、自分の考えとは異なる行動をとってしまった』
『土地勘がなかった』
『海側にある家に引き返した』
そして
『津波に関する知識がなかった』ことを原因として挙げられていました。
「津波が来るから高台に逃げよう」
非常にシンプルなことですがこれさえ知っていれば、こんな行動にはならなかったのかもしれない。とおっしゃっていました。
こちらでは講演活動の他に当時撮影した写真も保管しています。以前は、さいとう製菓の工場で伝承活動をしていたため“常設”でしたが、おおふなぽーとに移動してからは、こうして講演の依頼があった時や短い期間の展示などに限定されています。話したり見せたりする場所が減っていることから風化を感じました。
『高台にしっかり逃げる』そして『絶対に戻らない』。これほどシンプルなことがどれほど大切で実行がいかに難しいことなのかに改めて気づかされた講演でした。
講演後は、すぐ近くのかもめテラスへ。
「おすすめはやっぱり普通。」
とおっしゃっていた館長の言葉通り、かもめの玉子を購入しました。
うのすまい・トモス
そして、この日最後の見学をするため、釜石市鵜住居町へ。すっかり日が暮れてしまいましたが、鵜住居駅前のうのすまい・トモスに到着後、ゆっくりと見学することができました。
かつてここには鵜住居地区の防災センターがありました。低地かつ海から近い場所ですが、震災時には住民の方はここへと避難。その後、津波が襲い多数の犠牲者が出ました。
敷地内にある資料館『いのちをつなぐ未来館』ではこの場所で起きた悲劇、その一方で小学生、中学生が率先して避難し、多くの命が助かった出来事を中心にパネルや遺物が展示されています。
外に出て、奥に進むと見えてくるのが円の形をした『釜石祈りのパーク』。犠牲になった方々に慰霊、追悼する施設であり、お一人ずつ名前が掲示されています。芳名を記した部分に明かりを灯しているので、この時間であってもはっきりと見ることができました。また、現在は五十音順で配置されていますが、家族同士で隣合わせにしてほしいという遺族の意向により、配置が変わるとのことです。
アグリツーリズモ大森家
見学後は遠野市へ移動しました。
本日の宿はアグリツーリズモ大森家さん。農業を体験できる民宿(通称:農泊)です。
宿ではあるのですが、館主のご家族(おじいちゃん、おばあちゃん)も一緒に暮らしていて、宿というよりは感覚的には田舎の祖父母の家に来た時に似ています。
この日はおばあちゃんと話す機会が多くて癒されました。家族のことやこの地域のことなど…。息子も心を許したのか、おばあちゃんが抱っこすると笑顔になります。
ちょっとしたハプニングがありましたが、夕食はコンビニで済ませ、就寝。明日に備えます。
それにしてもこの日は寒かった!夜は氷点下…。地元の人曰く「マスクをしたまま自転車をこぐと口元が凍る」らしいです。(笑)
3日目(11月30日)
翌朝目覚めると外ではうっすらと雪が積もっていました。さっそくですが、朝食をいただくことにします。
今日も朝から豪華!ご自身の畑で収穫した野菜や地元の食材にこだわって作っている館主(女将さん)特製の手料理です。1品ずつていねいに料理を説明してくれます。
写真中央にあるのはヤマメの南蛮漬け。そして奥にある小鉢のミニトマトはこちらの畑で育てられたものです。これが驚くほど甘い!原料としている自家製トマトジュースもいただいたところ完飲。正直あまり得意ではなかったトマトジュースを自分がゴクゴク飲めるとは思いませんでした。それほど甘く癖のないジュースです。
予定していた一閑張りを用意できないことを女将さんから告げられ、お詫びとともに今日の代替案を提案していただきました。
もともと予定していた資料館に行ったあとは、遠野駅に向かい、その近くで活動している遠野旅の産地直売所の『まちぶら』を体験してみてはどうか。ということでした。そして、最後に宿でランチをいただくことにします。
「地元の人と触れ合う」ことも楽しみの一つでもあるので、予定から一部変更してご提案いただいたプログラムを体験することにしました。
3.11東日本大震災 遠野市後方支援資料館
宿を出発してまず訪れたのが、こちらの資料館です。遠野市は岩手県の真ん中に位置し、内陸と沿岸部をつなぐ中継地点でもあります。(地元の方はパーの形にして手の甲の部分が『遠野』。5本指を『沿岸部につながる県道』と表現してくれました)
立地だけでなく、競技場などの公的施設や民宿が多かったこともあり、震災直後から『全国から集まった支援物資を集めて各地に分配』『自衛隊など支援部隊の活動拠点』『ボランティアの宿泊先』など市内には多くのヒト・モノが集結し、ここから沿岸部の被災地へと送り届けられました。
実際には、3.11の前からもしもの時に備えた後方支援の取り組みは始まっていました。地域の避難訓練ではヘリコプターが出動。炊き出し、トリアージ訓練を中心に官民一体で実施していたといいます。そして震災が発生し、訓練のおかげもあり、各所と即座に連携。また、農家が多い遠野市の住民からお米等を集めて要請の有無問わずに送り届けたというエピソードもあります。
後方支援の重要性がよくわかる内容です。
遠野旅の産地直売所「まちぶら」
資料館の後は、遠野駅近くにある『遠野旅の産地直売所』へ。
こちらでは、1時間半で遠野のまちを散策するプログラム『まちぶら』を手掛けています。“遠野物語を知って、歩いて、食べる探検”をコンセプトとした探検コースがいくつか設定されており、今回は初めての訪問かつ子連れということで配慮していただき、特別コースを組んでくれました。
ガイドさんと一緒にまず向かったのは、遠野を代表する和菓子店『まつだ松林堂』さんです。
創業150年を迎えるこの老舗で代々受け継がれてきた銘菓『明がらす』。米粉をメインに練り上げた棒状のお菓子をスライスして販売しているのですが、まちぶらでは特別に商品化されない『端っこ』をいただくことができます。職人さんの間では端っこを外に出すことはNG(プライドが許さない)とされていたのですが、同プログラムでのみ提供が実現しました。
お金を出しても食べられない部分なので貴重。お店で表現されていたとおり、食感はお餅とらくがんの間。シャリシャリとモチモチを同時に味わえます。着物姿で対応してくださった女将さんに抱っこされた息子も大満足でした。
続いて訪問したのは、ガイドさんお気に入りのそば屋『伊藤家』さん。
そば屋さんで何を体験するかというと…。
これは予想外の展開!なんと、お店の方がはまっている『笑いヨガ』の体験です!笑うことは健康に良く、たとえ“本当は”笑っていなくても笑顔を作って「ワッハッハー」と声に出すと元気になるということです。
始めにお店の方がお手本を見せてくれ、その後に自分たちが続きます。
笑いだけでなく
「えがった(よかった)!えがった(よかった)!」
という掛け声も店内に響き渡ります。
若干恥ずかしさもありましたが、しばらく続けてみるとすっきりした気がします。
美味しいお蕎麦を食べられて、気持ち的にも元気になれるという一石二鳥なお店です。(そばはまたの機会に食べたい!)
最後は『とおの物語の館』を見学しました。展示物に触れると影が動き、話が始まるなど館内には仕掛けがたくさん。見たり聞いたり触ったりして、昔話を楽しめる体感型の博物館です。
遠野はビールの原料になるポップの生産地として知られる地域。ガイドさんからは「夏はビールフェスを盛大にやるのでぜひまた!」と最後に紹介され、再訪問を約束したのでした!(自分よりはビール党の妻の方が乗り気でした!)
お腹が空いてきたので、家(大森家)に帰ります。
アグリツーリズモ大森家(ランチ)
戻ってきて、開口一番。
「ただいま!」
もう勝手に自分の家みたいにしちゃっています。(笑)
すでにテーブルには美味しそうな料理が並べられていました。
ランチメニューは牡蠣の燻製パスタ、ラム肉と野菜のグリル、コンソメスープ、自家製ジンジャエールです。
りくたか(広田湾)名物の牡蠣。ジンギスカンが名物の遠野ではラム肉が多く出回っているのだとか。野菜はもちろん農園で栽培されたものが中心です。女将さんいわく「これで焼くと甘くなる」という南部鉄器を使った野菜のグリルは色鮮やか。どのお皿も完食でした!
ランチを頂きながら、女将さんが様々な話をしてくれました。この地域のことや農泊の楽しさ…。しばらくすると教育談義にも発展していきました。
というのも、実はこの宿を始める前は、養護教諭として釜石の小学校に勤務していたのだそうです。
釜石と言えば、前日に見学したとおり、防災教育が震災前からも積極的に行われている地域。あの日も児童がてんでんこの教えのもと、各自で避難しました。
中には、家族や近所の人に避難を促す児童も。
「それまで無口だった児童がおじいさん、おばあさんを助けたことで自信を持ち、今では率先して人前で話すようになった」
と言います。
震災がこのような形で人を変えるきっかけを与えていたとは…。防災教育の賜物はいろんな形で表れるのだなと思いました。
遠野市の民宿には修学旅行だけでなく、一般企業の方々も研修として訪れているようです。都会で働く方にとって自分たちで考えながら生活を送ることで、普段は見えない同級生、同僚の新たな一面を見られるということで好評なんだそう。
他にも、今の学校教育のここに"喝!"など話は尽きませんでした。
そんな中、とうとう時間が来てしまいました…。
あまりにも居心地が良く、もう1泊していきたい気持ちになりましたが、今回はここまでです。
次回は農業体験ができる時期にまた訪問したいと思います。ありがとうございました!
旅を終えて
急きょ変更になった部分もありましたが、無事にツアーを終えることができホッとしました。初めての子連れ旅行でしたが、移動中や地元の人との交流時では、思いのほか息子が頑張ってくれました。(面倒を見てくれた妻にも感謝です!)
今回初めての岩手県でしたが、過去の教訓からもわかるように『津波が来たらてんでんこ』という教えのもと、備えの意識は元々高い地域が多いと感じました。
では、なぜこれほど犠牲者が出てしまったのかというと、「ここなら大丈夫」という思い込みやいったんは避難するも引き返してしまったことが大きな原因として挙げられています。“想定”はあってないようなものだということが、あらためて分かりました。
岩手県ほど、もともと津波に対する防災意識が高い土地であっても、そこに住むすべての人に伝え続けていくことの難しさを感じます。ただ、だからこそ震災当時の出来事やそこから得た教訓を、自らの声で誰にでも語ってくれる方々の存在はこれからも貴重だと思いました。
現地を巡ってみて、着実に進んでいる復興を実感した一方で「当時の出来事を話せる機会が減ってしまっている」という声も聴きました。風化も始まっています。
後方支援という沿岸部ではない地域の活躍についても深く知ることができました。今回訪れた遠野市は拠点を構えるだけでなく、被災地から要請が来る前に支援物資を調達し、現地に送っていました。自然災害を乗り越えるためには、近隣地域の協力(そのための事前連携)が重要だと思いました。
最後に、ツアーを通じて現地の魅力にたくさん触れることができました。みなさん温かい方ばかりで、お話しすると自分が妙に落ち着くというか穏やかな気分になれました。ここだからこそ一度行ってみたい。また来たい。と思う理由の一つはやはり「人」ということなのでしょうか。
今回も再訪の約束をいくつかしましたので、またの機会に行ってみたいと思います。
旅費
<交通費>
新幹線往路 33,180円
新幹線復路 34,900円
レンタカー 16,280円
ガソリン代 2,240円
計 86,600円
<宿泊代>
1泊目 網元の宿 磯村(夕・朝食あり)35,200円
2泊目 Agriturismo 大森家(朝・昼食あり)8,000円
計 43,200円
<食事代>
・1日目
朝: ツアー外のため、無し
昼: 4,200円(海の市)
夕: 宿代に含まれているため、無し
・2日目
朝: 宿代に含まれているため、無し
昼: 2,542円(大船渡プラザホテル)
夕: 1,050円(ローソン)
・3日目
朝: 宿代に含まれているため、無し
昼: 宿代に含まれているため、無し
夕: ツアー外のため、無し
計 7,792円
<その他>
・気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館 入館料 1,200円(600円×2名)
・椿の里 大船渡ガイドの会 4,000円
・大船渡津波伝承館プログラム 資料代 500円
・遠野の旅の産地直売所 まちぶら 3,000円(1,500円×2名)
・お小遣い 20,000円(10,000円×2名)
計 28,700円
<合計>
交通費 86,600円
宿泊代 43,200円
食事代 7,792円
その他 28,700円
-------------------------166,292円
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