今回は4回目の東北への復興支援ツアーです。
前回のツアーでは、東日本大震災大震災で被災した気仙沼市を中心に周りました。
現地の方たちのお話から、あんなに大きな地震や津波、火災があったにもかかわらず、東日本大震災をプラスに受け止める人たちに、7年という短い時間で前に歩き出している強い姿を見ることができました。また気仙沼大島では、亀山登山を行い気仙沼の自然と景色の美しさを見ることができました。
今回のツアーでは、そんな魅力ある気仙沼の前回のツアーで周りきれなかった場所を訪れ、あらためて気仙沼の魅力をお伝えいたします。
また今年4月に、気仙沼と気仙沼大島を結ぶ、気仙沼大島大橋が開通しました。念願の橋開通で、気仙沼大島の人々の生活がどう変わったのかも、前回のツアーと同じ語り部さんからお話を伺ってきました。
ツアーの後半には、岩手県の中でも特に甚大な津波被害を受けた陸前高田市を訪れました。陸前高田では語り部ガイドをお願いしました。震災から8年が経過した陸前高田の今を、現地の方から直接伺うことができました。
さらに今回は、行く先々で川柳を詠みながら旅をしました。現地で五感をフル活用して詠んだ川柳とともに現地の魅力をお届けします。
日程
2019年11月2日(土)~2019年11月4日(月)
参加メンバー
自分:宇宙大好き。妄想癖あります。
妻 :花と猫が大好物。
息子:キノコとタケノコ大好き7歳児。
娘 :フワフワ系の5歳児。
1日目(11月2日)
一ノ関駅に無事到着。ここからはレンタカーを借りて気仙沼に向かいます。
キャリーケースを山車のようにワイワイと運ぶ子供たち。長旅から解放されて、ちょっとしたお祭り状態です。途中、歩いていたおばあちゃんに、「元気だね~」と声をかけられていました。
それにしても、あちらこちらのお店に目移りして全く進みません(山車より遅い・・・)。GoogleMapによると駅から4分で到着するはずのレンタカー店ですが、30分以上もかかってしまいました(汗)
早速30分ほど予定がオーバーしてしまったため、ゆっくり昼食をとる時間がありませんでした。とりあえず駅近くのコンビニでご飯を買い、移動しながら昼食となりました。
この後、娘が山道で「お腹いたい、トイレいきたい」と非常事態宣言を発令するというトラブルに見舞われましたが、何とか目的地の気仙沼に到着することができました。
気仙沼市の被害状況
人的被害 :1,357人(内訳:直接死1,034人、関連死109人、行方不明者214人)
住宅被災棟数 :15,815棟(平成26年3月31日現在)
被災世帯数 :9,500世帯(平成23年4月27日現在・推計)
平成30年12月31日現在
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館
「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」は2019年3月10日に開館したばかりの、東日本大震災を伝える施設です。旧気仙沼向洋高校の校舎として利用されていた建物に震災伝承館を加えた一連の施設です。
今回はこちらの施設の語り部ガイドの予約をしました。
語り部ガイドの前に、まずは伝承館で東日本大震災時の気仙沼の様子を、映像とパネルで見ることができます。大津波が気仙沼湾に押し寄せ、波に押し戻される大型漁船の映像が特に印象的でした。こんな速度の津波にのまれてしまったら、と思うと本当に恐ろしいです・・・。
映像が終わったところで、語り部さんと合流し館内を案内していただきました。
---------------------- 旧校舎 1F
----------------------
---------------------- 旧校舎 2F
----------------------
---------------------- 旧校舎 3F
----------------------
---------------------- 旧校舎 4F
----------------------
---------------------- 旧校舎 屋上
----------------------
---------------------- 屋外
----------------------
---------------------- 新校舎 1F
----------------------
気仙沼向洋高校は海抜約1mの高さにあります。学校のマニュアルによると、地震発生時は、1. 校庭に避難 → 2. 点呼 → 3.状況に応じて校舎3~4Fまで避難となっていました。
東日本大震災が起きた際、本来ならマニュアルに従って行動すべきところ、あまりにも地震が大きかったため、学校の先生たちは点呼も取らず学校にいた170名の生徒たち全員を校舎より高い場所へ避難させました。
マニュアル通り校舎に避難する方が時間的には早かったとも考えられますが、4Fの足元まで津波が到達したことを考えると、さらに津波が高かった場合には危険だったと考えられます。逆に津波到達時間が短ければ、今回の避難方法では危険だったとも考えられます。
緊急時に「これが正解」というものはないかもしれませんが、津波が迫っている中で、校庭で点呼をとるために留まるのは非常にリスクが高くなるように思います。緊急時には、まずは少しでも早く高い場所に避難して、安全を確保してから点呼を取るのが鉄則であるように感じます。
語り部さんのお話しによると、こちらの施設では避難した生徒・校舎内に残った職員と工事関係者・近隣住民避難者に犠牲者が出なかったため、震災遺構とすることができた、ということです。残念ながら、犠牲になった方たちは「ここは大丈夫だろう。」と警報が出てもすぐに避難しなかった方たちだそうです。
こちらの施設の目の前には、現在パットゴルフ場が建設され完成間近ですが、まだ避難道が作られていません。語り部さんは「8年前にあれほどの犠牲を出したのに、何も学んでいない。順番が違う。」と憤りを感じているようでした。
語り部さんも身内や友人が津波に流され、いまだ行方不明だそうです。大切な人を津波で失ってしまった語り部さんの言葉は、1つ1つがとても重みがありました。
岩井崎公園
岩井崎公園は前回の復興支援ツアーで、現地の方から「気仙沼に来たらぜひ行ってほしい場所がある」と教えていただいた気仙沼の人気スポットのひとつです。気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館からは車で5分ほどの場所にありました。
三陸復興国立公園の最南端に位置にある岩井崎には、震災の津波から流失を免れた松があります。この松は震災後に伐採されることになりましたが、伐採する過程で松が龍の形になり、龍が出現したことから、復興のシンボルとして保存されることになりました。
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館の語り部さんのお話しによると、龍の松には2,000万円以上のお金をかけて保存することとなったため、「そんな大金を龍の松に使うべきでない」と反対の声もあったようです。
松の枝を切った部分が、ちょうど龍の目になっており、時間帯によっては目が光って見えるようです。実際に間近で龍の松を見ると、本当に龍の魂が宿っているような迫力がありました。
また岩井埼には、波が打ち寄せるたびに潮を吹き上げる潮吹岩があります。今回は到着時間が遅くなり辺りが暗くなってしまったため、残念ながら潮吹岩を見ることができませんでした。
1日目のツアーが終わり、本日の宿泊は気仙沼駅の目の前にある、「ホテルパールシティ気仙沼」に宿泊しました。
2日目(11月3日)
朝食が済んで、部屋で一休みしていると突然スマートフォンから警告音が鳴り響きました。
これには妻と2人で本当に焦りました!スマートフォンの画面を見た瞬間、「大津波警報」の文字に、本当に津波警報が発令されたのかと思いました。
しかし落ち着いてよく見ると、「これは訓練です」の文字があり、ホッとしました。後からホテルのスタッフの方に聞くと、今日はたまたま気仙沼市は防災訓練の日だったようです。
スタッフの方のお話しによると、東日本大震災の津波は、このホテルまでは到達せず、幸い大きな被害はなかったとのことです。それでも津波はホテルの600メートル手前まで迫っていたそうです。
前回のツアーの際に、気仙沼大島の語り部さんから、大島が津波の衝撃を和らげたため、その先にある気仙沼の津波被害は小さくなったと聞きました。もし大島がなければ、こちらのホテルも津波の被害にあっていたかもしれない、と思いました。
兎にも角にも、偶然このような貴重な体験ができたことは、津波に対する心構えを養う良い経験になりました。
気仙沼大島大橋
2日目の最初の目的地は、今回のツアーの目的の1つでもある気仙沼と大島を結ぶ「気仙沼大島大橋」です。
前回のツアーで大島の語り部さんから、大橋開通は大島の人たちの悲願と聞いていました。今年4月に開通したばかりの大橋を歩いて渡り、大島の人たちと開通の喜びを分かち合いたいという思いでこの地を訪れました。
大橋へは車で向かいますが、その途中、面白い名前のトンネルを通ります。
こちらのトンネルの名称の由来は、のちほど大島の観光スポット「龍舞崎(たつまいざき)」を紹介する際に書きたいと思います。
ちなみに気仙沼大島大橋は別名「鶴亀大橋」とも呼ぶようです。何とも縁起のよい名称ですが、この別名の由来は気仙沼側の「鶴ヶ浦」、大島側の「亀山」の両岸の景勝地から名付けられたそうです。
大橋には駐車場も両岸にそれぞれ完備しており、この日も観光バスやツーリング中のオートバイなどがたくさん止まっていました。
この大橋は、4月の全面開通までは緊急車両のみが通行できました。全長は297メートル。アーチ橋としては東日本最大の長さだそうです。
気仙沼側の駐車場に車を止め、家族全員で歩いて大橋を渡りました。
橋の上からは、復興が進む気仙沼の街並み、気仙沼港、牡蠣の養殖が盛んなリアス式海岸、大島の亀山が一望でき、海風もとても気持ち良かったです。橋を渡り切った大島側の駐車場には展望台もありました。
これまで40分ほどかけて、フェリーでしか行き来できなかった気仙沼と大島を簡単に往復することができるようになり、特に大島の方たちにとっては大変便利になったと感じました。
大橋開通が大島の方たちの悲願だったということが、昨年はフェリーで、今年は車で実際に大島に渡ってみて、よく分かりました。
気仙沼大島(島内ガイド)
気仙沼大島大橋を通って1年ぶりの大島へ。
車であっという間にフェリー乗り場を通り過ぎ、大橋開通で本当に便利になったとあらためて実感しつつ、ガイドさんと待ち合わせ場所の気仙沼大島観光協会へ向かいます。
ところで、大橋開通でフェリーの運航は廃止されましたが、小型の遊覧船は土日に運行しているようです。フェリーのクルーズは気仙沼の魅力のひとつだったので、なくならなくて本当に良かったです。
気仙沼大島観光協会に着くと、すでにガイドさんが待っていてくれました。1年ぶりの再会で、お互い積もる話をしながらレンタカーで島内をガイドしていただきました。
今回は昨年足を運ぶことのできなかった場所を中心に周りました。
龍舞崎(たつまいざき)
まず最初に訪れたのが龍舞崎です。大島の最南端に位置し、島を代表する景勝地のひとつです。岬の先端には龍舞崎灯台があります。龍舞崎は、日本の中でハワイに最も近い場所です。
昨年大島に来たときには、この辺りにはまったく車や人はいませんでしたが、今回訪れた際には、駐車場が車やツーリングのバイクで満車になるほど、多くの観光客でに賑わっていました。
ここ龍舞崎には、浦島太郎に登場する乙姫様が流れ着いたという伝説が残る乙姫窟(おとひめいわや)があります。また気仙沼の鹿折地区の海岸に浦島という地名があります。東側と西側の海岸をつなぐこの洞窟で、浦島に住む漁師の若者が、高波の中、乙姫を助け出し介抱したと言い伝えられています。
この浦島と乙姫の伝説は、大島の「亀」山という地名、「宮城」県の(竜)宮城(ぐうじょう)という地名もあり、この伝説の信ぴょう性を高めているようです。ちなみに、この浦島と乙姫の伝説から、気仙沼と大橋を結ぶ道を「気仙沼大島龍宮海道」、トンネルを「浦島トンネル」、「乙姫トンネル」と名付けられました。
岬の先端に着くと、龍舞崎灯台がありました。この龍舞崎灯台は13代の灯台守が気仙沼の海を守ってきましたが、現在では無人で管理されているとのことです。
クロマツ林と岩礁に荒々しく波が打ち寄せる龍舞崎の光景は、まさに絶景です。
休暇村
次に向かったのは休暇村です。昨年宿泊した宿で、亀山ツアーでガイドをして下さったスタッフさんに、気仙沼大島大橋が開通して大島がどう変わったか、お話しを聞くことができました。
「今年は大橋が開通したため、おかげさまで観光客がたくさん休暇村にも宿泊してくれました。ありがたいです。」
大島が開通して1ヶ月で、例年の1年分の観光客が大島を訪れたようです。大橋開通は大島の主要産業の1つである観光業に大きな恩恵を与えているようです。
田中浜
休暇村から階段を下った場所に田中浜があります。ここ、田中浜は夏は海水浴客で賑わうようです。こちらには大島での講和会・屋外プログラム・体験学習ができる体験学習施設もあり、語り部さんもこちらの施設で講話をされたことがあるようです。
もともと浜には防風林がありましたが、津波ですべて流失してしまい、現在は新しい松の苗が植えられていました。
田中浜には、静岡では見られない綺麗な貝殻がたくさん落ちていて、子供たちも大はしゃぎでした。
田中浜で走り回ってお腹を空かせた子供たち。お昼の時間が近かったので、語り部さんおすすめの「桜田」さんにて、ランチをいただきました。
こちらのお店は東日本大震災の津波で被災し店舗が使えなくなってしまったため、自宅を改装してお店を続けているそうです。とてもアットホームな雰囲気のお店で、静かな場所にあり、ゆったりと食事を楽しめました。
お昼ご飯を食べながら、ガイドさんに大橋開通の喜びを伝え、どのように生活が変わったのかお話しを伺いました。
ガイドさんのお話によると、まず病気への心配が無くなったのが大きいようです。橋がまだ無かった頃は、救急車はあったものの、病院へ向かうにはフェリーを使い気仙沼の町に行かなければならず、何時間もかかってしまっていました。
簡単に町に出られるようになったのは本当に便利なった反面、今までは足りないものがあっても我慢していたのが、簡単に町に買い物に行けるようになり、物を買い過ぎてしまうようになったようです。
また、これまで島内に信号が1つしかなかった大島に、マイカーやオートバイの観光客が猛スピードで道路を走り、今までのんびり暮らしていた住民の方は冷や冷やしているようです。
大島島民の悲願と言われた大橋開通の反面、島内で唯一のスーパーマーケットが廃業になったという事実もあるようです。
亀山
昨年は3回も登った亀山。気仙沼大島大橋の開通で、マイカーでの観光客が大勢訪れていました。現在、マイカー規制で途中までしか登れず、運行バスにて亀山の頂上近くまで行くことができます。
東日本大震災で孤立した気仙沼市大島で、大規模な救援活動をしたのが米軍でした。瓦礫の撤去、砂浜清掃、食料支援、なんでも泥まみれになってやってくれたのが海兵隊の方たちだったそうです。別れの際は、島民みんなが行かないでほしいと言ったそうです。
K-PORT
気仙沼湾に面した一角に、K-portというオシャレなカフェがあります。このカフェは俳優の渡辺謙さんと、元妻で女優の南果歩さんが震災後に夫婦で立ち上げたお店です。
K-portの「K」は気仙沼の「K」、絆の「K」、心の「K」、謙の「K」から、K-portの「port(港)」は気仙沼が「港町」であるところから名付けられたようです。
3連休ということもあり、この日は大勢の若者客でお店は満席でした。
ここK-portには、謙さんからお客様に向けて毎日FAXで心温まるメッセージが送られてきます。もちろん過去のメッセージも見ることができます。
唐桑半島ビジターセンター
唐桑半島ビジターセンターは、気仙沼中心部から東に車で30分程の唐桑半島の先端にあります。こちらの施設では東日本大震災の映像やパネル展示が多数設置されています。事前に予約すれば無料で施設のスタッフの方がガイドをしてくださいます。
まず最初に案内していただいたのは、全国で初めて津波の疑似体験をすることができる「津波体験館」です。昭和59年に誕生したこの施設は、津波を映像、音、振動、風を組み合わせ、最先端技術で津波を再現。東日本大震災後にはその映像も取り入れ、さらにリアルな体験が可能となっています。
スタッフさんからの事前説明では、小さなお子様にとっては、リアルに再現された津波体験が防災教育に役立つ一方で、怖い、トラウマになるとの意見もあり、賛否両論があるようです(我が家の息子と娘は大丈夫でした)。
この後、三陸復興国立公園にも指定されている唐桑半島の景色を眺め、川柳を一句読む予定でしたが、時間が押してしまい辺りはすでに真っ暗・・・。そんなわけで、残念ながらこちらで川柳を詠むことはできませんでした。
2日目のツアーが無事終わり、3日目のツアー地の陸前高田の宿にレンタカーで移動。当然子供たちは爆睡です。
3日目(11月4日)
早いもので、この旅も最終日を迎えました。今日は半日かけて陸前高田を語り部さんと回ります。
陸前高田市の被害状況
死者数 :1,557人
行方不明者数 :202人
家屋倒壊数 :4,046棟
2019年11月4日 現在
高田松原津波復興記念公園
語り部さんとの待ち合わせ予定の「陸前高田のうまいもの たがだ屋」さんは、今年8月28日に発生した大雨の浸水により休店され、今秋にオープンしたばかりの「道の駅高田松原」へ移転していました。
そのため、新しくできたばかりの道の駅へ向かうことになりました。
今秋オープンしたての高田松原津波復興記念公園は、「道の駅 高田松原」、「東日本大震災津波伝承館」、「奇跡の一本松」等で構成される、防災メモリアル公園です。
こちらの施設は、宮城県石巻市及び福島県双葉郡浪江町の復興祈念公園と同じく、東日本大震災から10年となる2021年度の完成を目指して整備が進められているところです。
語り部さんとの待ち合わせの時間まで、新しくできた道の駅でお土産を物色(お土産の種類が豊富すぎて、じっくり選んでいる時間がありませんでした・・・)。
お土産を買った後は、本日陸前高田を案内してくださる語り部さんと合流。私たち家族が、小さな子連れということで急きょ箱根山に行くのをやめて、ファミリー向けのツアーにアレンジしてくださいました。
旧気仙中校舎(震災遺構)
まず最初に語り部さんに案内していただいたのは、震災遺構となった旧気仙中校舎です。気仙川の河口に位置するこの3階建ての校舎は、津波により屋上まで完全に浸水してしまいました。
津波は地震から30分で到達。マニュアルでは写真を撮影している三角地点へ避難することになっていましたが、教師の判断で生徒はさらに高台まで避難したおかげで全員無事でした。旧気仙中校舎は必ずしもマニュアル通りに避難しても助かるとは限らないことを伝えるために、震災遺構になったとのことです。
こちらの学校の生徒は全員無事でしたが、気仙沼市では20人の生徒や園児が津波により命を落としています。インフルエンザで学校を休んで自宅にいて津波に飲まれてしまったケース、両親がお迎えに来て、いったん高台に逃げたものの子供が寒いと言って自宅に戻って家族全員が津波に飲まれてしまったケースもあったようです。
東日本大震災では両親が児童を迎えにきた結果、津波被害に合うケースがあったことから、震災以降、陸前高田市では地震発生時のお迎えが禁止になったそうです。
なお、校舎の裏側にはもともと体育館があったようですが、こちらは津波により完全に流失して跡形もありませんでした。
現在こちらの校舎は内部は立ち入り禁止となっていますが、旧道の駅(タピック45)とともに市が改修工事を進め、2021年度を目標に内部を公開することになっています。
奇跡の一本松
次に向かったのが、高田松原の奇跡の一本松と気仙沼の街全体が見下ろせる、ガイドさんおススメの絶景スポットです。
東日本大震災の津波により、約7万本のあった高田松原の松は、1本を残してすべて流失。この一本松は、目の前にある陸前高田ユースホステルによって津波の衝撃が弱まり、何とか生き残ることができました。陸前高田ユースホステルも奇跡の一本松と一緒に震災遺構として残されることとなりました。
陸前高田の復興のシンボルとして、一躍有名になった奇跡の一本松ですが、この松も約1年後に枯死してしまいました。その後、モニュメントとして保存処理をされた状態で、今では陸前高田の最大の観光資源となっています。
ちなみに上記絶景スポットの高台は、街の再建のため、かさ上げ工事のための仮設のベルトコンベアで運ぶ土を削り出された、もともと山だった場所です(現在、高台には新しい幼稚園や公園、住宅などの整備が進められています)。
すでにベルトコンベアは役目を終えて解体されてしまいましたが、このベルトコンベアがあったからこそ、たった1年半で高台移転のための土砂を運び出すことができたのでした。
現在は、上の写真の中央を流れる気仙川の両岸に、復興遺構として保存されているベルトコンベアの2脚の土台だけを見ることができます。
新市街地
ここで、子供たちの息抜きにと語り部さんが新市街地にある公園に連れて行ってくださいました。公園には大きな遊具や、バスケットボールのコートが完備され、大勢の子供たちで賑わっていました。
これまで、福島、宮城の津波被害で壊滅的な被害を受けた沿岸部を見てきましたが、このように子供たちで賑わっている場所は見たことがありませんでした。子供がいるだけで、その地域全体に活気がある印象になります。
震災から8年半、震災を知らない世代の子供たちも増えていますが、被災地復興の鍵は、子供で賑わう新しい街づくりにあるのではないかと思います。
陸前高田の新市街地は、道路をはじめ、すでに新しい街の整備が進められており、他の被災地よりも復興が早く進んでいるように感じました。さきほど紹介した、仮設ベルトコンベアでかさ上げ工事(全体の1割はまだ工事中)を大幅に短縮できたのが大きかったのだと思います。
ここ陸前高田が、これからの他の被災地の復興の道しるべとなるよう、期待したいです。
陸前高田復興まちづくり情報館
次に案内していただいたのは、2017年に新市街地にオープンした複合商業施設アバッセたかたの南側にある「陸前高田復興まちづくり情報館」という施設です。
この施設には、陸前高田市の震災前からこれまで、そしてこれからを知ることができるパネル展示、中心市街地と復興事業全体のジオラマ、津波によりアメリカに漂着し、地元の方たちの支援で帰還を果たした県立高田高校の実習船かもめの展示がされています。
慰霊碑の裏からは、自費でビルを維持管理されている震災遺構「米沢商会」さんの建物が見えます。ビル所有者の米沢祐一さんは、ビルの屋上へ避難し難を逃れました。津波は14mに達し、米沢さんの足元わずか10cm下まで迫ったそうです。
米沢商会の少し西側には、今年ロッテにドラフト1位で入団が決まった岩手県立大船渡高のエース、佐々木朗希(ろうき)投手の自宅がありました。佐々木投手は震災で父親、祖父母を亡くしています。
津波で自宅を失った佐々木投手一家は大船渡市に移り住み、野球を続け、高校は他県の強豪校からもスカウトされましたがこれを断り、被災した仲間たちのいる大船渡高へ進学しました。
語り部さんが地元出身の佐々木投手を、「朗希くんが」とまるで自分の子供のように語っていたのが印象的です。佐々木投手の今後の活躍に期待したいです。
災害公営住宅
陸前高田市には、大規模な災害公営住宅がいくつかあります。これら災害公営住宅は建設当時の入居見込みを大幅に下回り、どこも空室が目立っているのが現状だそうです。
さらに、これまで被災者としての家賃で住むことができたのが、これから通常の公営住宅の家賃になるようです。すでに沿岸部の方では住み続けられず出て行く人も出てきているのに、被災者の生活を支えるべき市が何の回答もしていないのが実情のようです。
この場所は沿岸部からは相当な距離がありますが、震災時に防潮堤到達地点で14.5mだった津波が、山側にある奥地に到達する頃には17m以上にもなりました。
災害公営住宅のすぐ裏には高田小学校がありますが、校舎1階まで津波が浸水しました。今年まで使用されていたこの学校も、新校舎が安全な高台に移転されたため、旧校舎は取り壊され、跡地はかさ上げされ市役所が建設されることが決まっているそうです。
高台には小学校、幼稚園、病院や住宅の整備が進められていますが、お年寄りなどそれまで平坦なところで生活していた人たちにとっては、坂道が多く、買い物も高台から下りて行かなければならず、不便そうに感じました。
JR大船渡線
ここはもともとJR大船渡線の無人駅があった場所です。津波により跡形もなく流失してしまい、廃線となってしまいました。その後、BRT(バス高速輸送システム)が代わりに運行されています。
語り部さんに案内され、ここが駅舎があった場所、ここがホームがあった場所、ここが線路・・・と教えてもらわないと、何がもともとあったか分からないくらい何も残っていません。
ホームのあった場所に立って、あらためて津波の威力を思い知らされました。
防潮堤
陸前高田市にはもともと、5.5メートルの防潮堤ががありましたが、震災で14.5mの大津波が押し寄せ全壊しました。現在再建が続いている防潮堤は、高さ12.5m、幅が約2kmの巨大な建造物です。
しかし東日本大震災クラスの津波が押し寄せた場合、この防潮堤の高さでは完全に津波を防ぐことはできません。語り部さんによると、防潮堤はあくまで防災ではなく減災のためのものである、とのこと。津波の勢いをできるだけ弱めて、かさ上げした高台の手前で食い止めるのが目的なんだそうです。
防潮堤があるから安心ということはなく、地震が来たらとにかく高台に逃げるというのを忘れてはいけません。
東日本大震災津波伝承館
語り部さんと最後に訪れたのは、今秋オープンしたばかりの、岩手沿岸部の津波被害の7~8割の情報を展示しているという東日本大震災津波伝承館です。
時間の都合上、残念ながら駆け足になってしまい、内容をほとんど見ることができませんでした。ただ、その中で自分が一番印象に残っているのは、「生きるための避難」というコーナーでした。
・津波は第2波以降が高くなる
・第1波が3メートルと低かったため、貴重品を取りに戻って津波に流された
・津波に飲まれた理由に多いのが、「ここまでは来ないと思った」という思い込み
地震だけでなく、災害などの緊急時には常識に捉われないということが、とても大切であると感じました。
次に訪れる際には、ゆっくり時間をかけて館内を回りたいと思います。
道の駅 高田松原
半日かけて陸前高田を回り、最後にオープンしたての「道の駅 高田松原」にて昼食。お昼の時間帯という事もあり、多くの観光客で賑わっていました。たった8年前に悲惨な出来事があったとは思えない賑わいに、陸前高田の復興の勢いをあらためて感じました。
ツアーを通して感じたこと・学んだこと
今回のツアーは、昨年も訪れた気仙沼市と、初めて訪れた陸前高田市を回りました。
気仙沼では、ちょうど防災訓練の日に当たり、ホテル滞在中に大津波警報が発令
するという、とても良い経験ができました。
この時、今いる場所が高さ的に安全な場所なのか、避難場所はどこなのかがとっさに分からず、パニックになってしまいました。このことから、沿岸部に出かける際には、必ずその場所の海抜や避難場所などを調べておく必要があると思いました。
陸前高田では語り部さんが、震災が起こる前、毎日「ゴォーっ」という地鳴りがしていたと言っていました。またその期間、新築の家だったのにネズミが屋根裏をバタバタ動き回る足音が聞こえていたそうです。ところが震災の前日になって、その足音がピタッと止んだということです。
そういえば、私も震災の前日こんなことがありました。入院している祖母の誕生日のお祝いに仕事帰りにケーキを持って面会をしました。帰り際に病院から外に出ると、西の空に真っ赤な夕日が柱上に伸びていたのを鮮明に覚えています。それは今まで見たことのない不思議な光景でした。
今思えば、あれは震災の予兆だったのだと思います。日常生活の中で、何か普段と違うことが起こったり違和感を感じることがあった場合、大きな災害が起こるかもと、少し気を付けた方がいいかもしれません。
それから気仙沼と陸前高田の語り部さんのお話しの中で共通して言えることは、大きな地震が起こったら、とにかく自分の判断で少しでも高いところへ1秒でも早く非難することです。
その場で点呼を取ったり、安否の確認をしている間にも津波は猛烈なスピードで迫ってきています。災害時の避難場所を事前に家族で決めておき、津波てんでんこの教訓のとおり、まずは1人1人が自分の命を守るための行動を取ることが大切だと感じます。
また今回のツアーの反省点は、スケジュール通りに回ることができず、3日とも途中から駆け足になってしまったことです。ツアー中に急きょ回りたい場所が見つかることもあります。特に小さな子供がいる場合は、何があるか分からないため、クッションタイムとして想定の倍くらいの時間を取った方がいいと感じました。
ツアー費用
~交通費~
・新幹線 99,680円
掛川駅 ⇄ 一ノ関駅
※ 10月以降、消費税増税により運賃が値上げされている
※ 掛川駅 ~ 一ノ関駅の距離が601km以上のため、往復割引乗車券(1割引)適用
※ 掛川駅 ⇄ 三島駅の定期券を私が持っているが、乗車券を使用すると往復割引乗車券が適用外となってしまうため、特急券のみ使用
・レンタカー 13,960円
・ガソリン 2,549円
―――――――――――
合計 16,509円
~宿泊費~
・1日目 ホテルパールシティ気仙沼(朝食付)19,365円
・2日目 鈴木旅館(夕食・朝食付)12,900円
~食事代~
・1日目昼食 2,388円
・1日目夕食 3,872円
・2日目昼食 5,550円(島内ガイド1名分昼食代込)
・3日目昼食 2,960円
――――――――――
14,770円
~その他~
・気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館入館料 1,500円(@600円(大人)×2人、@300円(小人)×1人)
・気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館「語り部ガイド」 6,000円
・気仙沼大島観光協会「島内ガイド」 3,000円
・亀山駐車場代 500円(気仙沼大島大橋開通によるマイカー規制のため追加費用)
・K-port 1,340円(入店のため飲み物購入)
・唐桑半島ビジターセンター入館料 840円(ファンクラブ会員特典割引額 300円(私)、380円(妻・通常料金)、160円(長男・通常料金))
※ ファンクラブ会員特典割引は全員でなく本人のみが割引対象だったため
・陸前高田観光ガイド部会「語り部ガイド」 4,000円
・俳句帳と筆ペン 990円
・お土産等 20,000円
――――
■合計
――――
交通費 116,189円
宿泊費 32,265円
食事代 14,770円
その他 38,170円
―――――――――
201,394円
―――――――――
最終更新:
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