しばらく休止状態だった「東北の風の道」を再開します。これから年内にお届けするページのテーマは「2016年の振り返り」。その最初の1本は、福島県の沿岸部を南北に結ぶあの道、国道6号線沿線を巡る旅です。
変わったこと、あの日のままのこと
詩人の黒田三郎は「道」という詩にこんな言葉を記している。
道はどこへでも通じている
美しい伯母様の家へゆく道
海へゆく道
刑務所へゆく道
どこへも通じていない道なんてあるだろうか
黒田三郎「道」
道はどこへでも通じている。どこへも通じていない道なんてないはずなのに、原発事故で閉鎖された国道6号線は、どこへも通じていない道になってしまっていた。
その道がふたたび通れるようになったのは2014年9月のこと。いまからもう2年以上も前のこと。通れるようになって「近いうちに行ってみよう」と思いながら、ずっと行かなかったのは、都合がつかなかったというだけなのかどうか。その間、福島県を訪ねたことは何度もあったが、この道を通ることがなかったのはなぜだろう。
そんな自問を抱きながら、浜通のあの道、閉鎖されていた頃には何度か走ったことのある国道6号線を旅した。
ゲートがあった場所で出会った言葉
最初にこの場所を訪ねた時、大甕(おおみか)という地名の読み方が分からなかった。そのことを南相馬の知人に言うと、「常磐線の駅の名前にもなっているのに。もっともその名前の駅は茨城にあるんだけどね」と、少しあきれ気味に教えられたものだ。
大甕は原発事故から約1年の間、国道6号線の通行止め区間の北のゲートがあった場所。震災翌年の1月に、いわき市から内陸部を通って山越えして、ようやくの思いでたどり着いた場所(事実、当時は事故原発の南の地域から北側の地域へ行くのは考えられないほどの遠回りを強いられた)。当時、一般の人が事故原発にもっとも近づくことができた場所だった。
国道6号線。ここから先は、事故原発の作業員など限られた人にしか行くことのできない「極限の地」。実際に大甕にゲートが設けられていたのはほぼ1年に過ぎないが、自分の中ではさまざまな意味で特別な場所だった。
国道沿いの東側にはコンビニエンスストアや食堂がある。食堂には、「極限の地」であるにも関わらず、原発事故後も一般の人たちがたくさん訪れて繁盛していた。それだけ美味しいお店として有名だったのだろう。
食堂やコンビニがある場所の駐車場の一角に、記念碑が建てられていた。この碑の存在には今回訪ねて初めて気づいたのだが、その「建立の趣旨」に記された文章が圧巻だった。震災を総括するような文章は、これまでにも多数目にしてきたが、大甕の文章の力強さは特筆に値する。
このところ、被災地で地元の人たちからのメッセージを目にする機会が多くなっている。久之浜の稲荷神社もそう。大川小学校に設置されたパネルもそう。
地元の人たちの言葉を目にした人たちの多くは、その場から離れがたい思いを抱くようだ。映像として目に入ってくるものの意味を教えられることで、目に見えているものが何なのか、深く理解することができる。
震災後しばらくの間、被災地を訪れる人々は、被害の大きさにただただ打ちのめされるばかりだった。震災から時間が経過する中で、被災地を訪れ、ただ被害状況だけを目にするばかりで、そのままバスでどこかに行ってしまう人たちの姿を目にした地元の人たちが、居ても立ってもいられなくて、その場所に言葉を記すようになったのかもしれない。
記事には「建立の趣旨」を写真で掲載している。大甕のこの土地に刻まれた言葉。ぜひともじっくり読んでいただきたい。
無人の土地、いえいえ人の住むふるさと
東北・福島・富岡町にアビイ・ロードが出現した。
ビートルズのアルバムジャケットは横断歩道を左から右に渡っていく4人が描かれているが、富岡町のアビイ・ロードでは、小さな子ども2人と彼女たちを連れた男性の3人が主人公。男性は赤ちゃんと思しき1人を背負い、もう1人の女の子は手を上げて横断歩道を走り回っている。
ビートルズのアルバムジャケットの写真は、わざわざ遠くまで行って撮影しなくても、その辺で撮ればいいだろうというメンバーの意見から誕生したものだと伝えられているが、こちらのアビー・ロードはちょっと違う。
ここ富岡町は原発事故後しばらくの間、住民の居住が制限されていた場所。ようやく人が住める場所になったものの、長らく無人の土地だった。ちなみに、町内にある有名な桜の名所、夜ノ森付近は帰還困難地域としていまもゲートで閉鎖されている。
富岡町の横断歩道を歩く3人は、ロンドンのアビー・ロードとはまるっきり意味は違うものの、やはり歴史を象徴するものなのだ。(と、撮影者自身が保証させていただく)
国道6号線をめぐる短い物語
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