伝えるまでもないかもしれない。しかしマスコミ自身が取り上げることはないかもしれないので報告しておく。
[熊本大地震]なぜ同じことを聞く?
益城町に災害ボランティアセンター(ボラセン)が開設されたのは4月21日。朝から雨が降りしきる中、受付が始まる午前8時30分にボラセンのテント前に集まったボランティアは目測でざっと30名ほど。
それに対してテレビ局、新聞社などメディアの取材陣の人数は同じくらい。受付テント前に並んでいる間に雨脚がだんだん強くなる。そんな中、続々とボラセンにやってくる人のほとんどは社名入りの腕章を着けたメディアの人たちだった。たちまちマスコミ取材陣はボランティアの人数をはるかに超えるほどに膨らみ上がった。
受付開始時刻を過ぎても受付が始まらず、雨の中に放置された格好のボランティアの列は、言い方は悪いがメディアのエサ場のような状況になった。ボランティアよりもメディアの方が人数が多いのだから、ほとんどのボランティアが複数のメディアから取材を受けることになる。自分も3社以上から取材を受けた。
驚いたのはその質問が各社とも同じだったことだ。
「今日からようやくボランティアセンターが立ち上がりましたが、その初日から参加されての意気込みのようなものを教えてもらえますか?」
記者それぞれ表現は違えども聞いてくるのは、参加への意気込み、どのように役立ちたいと思っているかという質問だ。ボランティアに参加する人にはそれぞれにさまざまな思いがあると思うのだが、聞く前から答えを想定していたとしか思えないほど金太郎飴なインタビューだった。もしかしたら原稿の雛形はすでに作っていて、そこにボランティア参加者の声を「はめ込んで」夕刊の締め切りに間に合わせたい。そのための取材なのではないかと疑ってしまったほど。
「お仕事」感あふれる取材
少しでも力になりたい。居ても立ってもいられなかった――。その思いは共通していると思う。聞くまでもないことだ。それをなぜ繰り返し聞いてくるのか。
ひとしきりコメントを聞いた上で最後に、年齢を教えていただけませんか。お名前は? ついでに下のお名前も、と聞いてくるのも各社共通。氏名と年齢を記載することが新聞記事の基本だと教え込まれているからなのだろう。取材のテクニックみたいなものなのかもしれないが、同じように畳み掛けて聞いていくやり方には、不自然という印象を通り越した、滑稽に近い異様なものを感じた。
質問にしても、取材のやり方にしてもどうしてこんなに似ているのだろう。少なくとも、雨の中ボランティア受付の列に並んで人たちと、メディアの人たちの思いや気持ちや目的との間は深い断層があるように感じた。
初日に参加したボランティアの人数は70人~100人と伝えられた(報道により差があった)。参加した印象では70人もいたかなあという感じ。しかしメディアは間違いなくその3倍近くはいたと思う。その日は避難所となっている小学校で活動したのが、ボランティアは9名、メディアは社数だけでも軽く20社を超えていた。1社2人としても40人以上。お昼頃には避難所の入口に「避難所内での取材はご遠慮ください」という張り紙が掲示された。
仕事の妨げになることはしないでほしい
避難所の廊下に置かれた唯一のソファを占拠して、午前中ずっとパソコンで記事を書いている記者もいた。避難している人が寝ている側に土足で入って行って取材している人もいた。小さなこどもにマイクを向けている人もいた。「避難所内での取材はご遠慮ください」と掲示された後も入って来る人たちまでいた。
一方、ボランティアやスタッフに対して、通り一遍ではない気持ちの入った取材をしてくれる人もいた。避難所の状況や課題、大雨だからこその問題点、いま求められているのはどんな支援なのかなど、しっかり聞いて伝えようとする人も少なくなかったことは明記しておきたい。批判が集中したTBSの中継画像に映っていた記者さんがそんな1人だったということも。
九州の災害現場でのマスコミの対応についてバッシングの嵐が吹き荒れた時、東北からはこんな声がSNSに寄せられていた。テレビに取材してもらったおかげで、遠くにいる友人や家族に無事を知らせることができた。たくさんの人たちに現状を知らせることができて、その後の支援につながったから感謝している。
報道という行為そのものが悪いのではないと思う。ただ被災した人たちやスタッフやボランティアにマイクを向ける目的、そしてマイクを向けるのは「いま」なのかどうかを考えてほしいと思う。
予定の時刻を過ぎてようやくボランティアの受付が始まった時、受付手続きの動線を塞ぐ場所でマイクを向ける(上の写真)。奥のテーブルでは登録書類の記入が行なわれている。空いている場所もあるのに通れない。(強引に通りましたが)
手続きを終えて出発、という時に「リーダーはどなたですか、ちょっとお話を伺えますか」と掴まえようとする。リーダーが掴まえられたら他のメンバーは動けない。リーダーではなくてもボランティアはチームで動く訳だから、誰か1人でも足止めをくったら出発自体遅れてしまう。話を聞きたいなら活動場所に来て、仕事の手が空いた時にでもして下さいと伝えると憮然としていた。
この絵は何を伝えるため?
総合運動公園の避難所では、朝食の配布時間のかなり前から並んでいる避難者の行列を背景に中継の準備が進められていた。ディレクターらしき人は携帯で誰かと打ち合わせ。避難所内での取材ができないから、なんとかいい絵を撮ろうとしているのかもしれないが、配布の1時間も前から朝食のために列を作っている人たちとは別世界の人間のように感じられる。
報道は社会的に意義のある仕事だと思う。ただ、やり方を考えてほしい。
ボランティアではどんな活動をするんですかなどと言葉で聞くくらいなら、ボランティアとして参加してみてはどうか。報道の客観性が損なわれるなんて理屈は置いておいて、ちょっとでいいから荷物運びや配膳を手伝ってみるとか、トイレ掃除をしみるということはできないのだろうか。
まるで別世界から来たかのような、メディアの人たちが発する距離感が、違和感や不信感、ひいては反感につながるのではないかと思う。
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